この世界の物語体系は、いまや崩壊の瀬戸際にある
学院の大講堂は、先ほどまで華やかな舞踏会の熱気に包まれていた。
だが今は、テーブルクロスを片付ける使用人の足取りさえも震えに飲まれ、異様な沈黙が場を支配していた。
――ギシッ。
天井から吊るされたシャンデリアが、不気味に音を立てて揺れる。
煌びやかな水晶の装飾がぶつかり合い、まるで悲鳴を上げるかのような高音を響かせる。
壁に並ぶ絵画はひび割れ、額縁ごと歪み始める。
窓ガラスには蜘蛛の巣のように細かな罅が走り、今にも砕け散りそうに光を反射する。
「な、なに……? 地震……?」
「ち、違うわ、こんなの……魔力の暴走……?」
貴族子女たちは顔を青ざめさせ、互いにしがみつく。
一部は泣き声を上げ、別の者は出口へと駆け出そうとするが、扉までもが唸り声のような音を立て、びくともしない。
――原因はただ一つ。
あの断罪を覆す宣言。
王子オスカーが放った、シナリオの否定。
その一言を境に、舞台そのものが音を立てて軋み始めたのだ。
空間は揺らぎ、学院の大講堂は今や「物語崩壊の震源地」と化していた。
――その瞬間。
軋みを上げていた大講堂の天井が、突如として静まり返った。
次の刹那、漆黒の天蓋を裂くように**一枚の“光の羽根”**が、ふわりと舞い降りる。
一枚、また一枚。
数えきれぬほどの羽根が宙を漂い、夜の闇を押しのけて輝きを放つ。
まるで時間さえも羽根の舞に従って遅くなったかのように、全員が息を呑んで見上げていた。
羽根はやがて一つに収束し、まばゆい白銀の輪郭を描き出す。
その中心に――人影。
長く流れる白金の髪が、まるで光そのものの滝のように零れ落ちる。
瞳は虹色の輝きを湛え、見る者すべてを射抜く威光を放っていた。
ただ立つだけで、大講堂という空間すべてが彼女の舞台と化す。
「……女神、フェリシア……!」
誰かが掠れ声で呟いた。
その言葉を合図にしたように、生徒たちの反応は三者三様だった。
ひざまずき、祈るように頭を垂れる者。
顔を真っ青にして、出口へと逃げ出そうともがく者。
そして、あまりの現実離れした光景に呆然と立ち尽くす者――。
全員の心に共通していたのはただひとつ。
圧倒的な畏怖。
女神フェリシアは、沈黙を支配する大講堂に、虹色の視線を静かに落とした。
虹色の瞳が、静かに、しかし逃れられぬ圧で大講堂を見渡す。
次の瞬間――彼女の声が響いた。
それは人の声帯から発せられた音ではなかった。
空気そのものを震わせ、壁や床、天井までもが共鳴し、「言葉」そのものが大講堂を支配する。
「――これ以上は危険」
ただの一言で、生徒たちの背筋が凍りつく。
「この世界の物語体系は、いまや崩壊の瀬戸際にある」
シャンデリアの光が不気味に揺らぎ、まるで彼女の言葉に呼応するように、壁の絵画に入ったひびが深まっていく。
「悪役令嬢が破滅せずに舞台を進めば……この大陸全体が“物語”として成立しなくなる」
空気が重く沈む。
“物語”という抽象的な概念が、あたかも物理的な脅威であるかのように生徒たちを圧迫した。
「均衡が崩れれば――世界は“舞台装置”としての役割を失い、ただの瓦礫と化すだろう」
その言葉が落ちた瞬間、大講堂の床が低く呻き声を上げた。
まるで本当に、この世界そのものが舞台の崩壊を始めているかのように。
女神の言葉が落ちた瞬間――大講堂の空気は一変した。
生徒たちは誰も声を発せず、ただ恐怖に支配されて固まっている。
ざわめきは一切なく、沈黙そのものが重圧となって押し寄せていた。
そんな中、壁際に集う「悪役令嬢協会」の面々が、互いに小声でささやき合う。
「やはり……エレオノーラの存在が元凶……!」
「彼女が破滅しないから、物語そのものが……!」
怯えた声は、陰鬱な予言のように響いた。
一方で、ヒロインのレオナは半泣きで内心大混乱。
(えっ……えっ……ちょっと待って……これって……私の物語そのものが消えるってこと……? え、え、え、私って……職失うの!?)
唇を震わせながらも、どこかギャグめいた取り乱し方をしていた。
だが――その混乱を切り裂くように、一人だけ毅然と立つ者がいた。
王子オスカー。
彼は迷いも恐れも見せず、真っ直ぐにエレオノーラの隣へ歩み寄り、その場に並び立つ。
その動作ひとつで、大講堂に漂っていた重苦しい空気がわずかに変化した。
まるで「彼女の味方はここにいる」と、舞台全体に示すかのように。
女神フェリシアの足元に、無数の光の羽根が舞い散る。
床に落ちることなく、儚く溶けて消え、再び空気そのものを浄化していく。
その神秘の中心に立つ彼女の瞳が、ゆるぎなくエレオノーラを射抜いた。
虹色に輝くその眼差しは、もはや誰も逃れられぬ“審判の光”だった。
――その瞬間。
大講堂に集う者たちは皆、同じ直感を抱いた。
これはただの断罪イベントではない。
ヒロインでも悪役令嬢でもなく、“世界そのもの”が裁かれる時だ、と。
誰もが息をのみ、音一つ立てられない。
次の瞬間に告げられる言葉が、物語の根幹を決めると悟ったから。
そして――沈黙の中心で、エレオノーラだけが優雅に扇子を握り、女神の視線を真正面から受け止めていた。




