8.夜明け前の暗号解読
ちょこと麗奈の二人を正門へ迎えに行き、戻る頃には、屋敷はすっかり静けさを取り戻していた。
クレアは状況を手早く整理し、二人をメイドに託した。温かい飲み物と客室を用意してもらい、詳しい話は朝を待ってからだと伝える。深夜である以上、今夜はこれ以上事を動かすべきではない。それに今は優先すべきことがあった。
ちょこも麗奈も、それ以上は踏み込まなかった。
客間へ案内される二人の背中を見送り、クレアは廊下を引き返す。
夜は、すでに終わりへと傾き始めている。まずは、あの暗号を解くのが先だった。
それからの時間、クレアはひたすら暗号と向き合い続けた。
画像から学院式の標準コードを用いて五桁の数列を順にリスト化することまではできたが、肝心のコミックスからメッセージを読み取る方法が、どうしても見えてこない。そこから先が進まなかった。
気づけば、夜は深まり、そして少しずつ形を変え始めていた。
窓の外の空は、黒から青へと移ろう途中にあり、夜明け前特有の曖昧な色を湛えている。薄い雲が、その境目をゆっくりと流れていた。
ガラスに映る自分の顔は、少し眠そうで、けれど不思議と目だけは冴えていた。
いや、意識を無理やり保っているだけかもしれない。
(眠い……。それでも、せっかく掴んだ香月への手がかりをここで手放すわけにはいかない……)
クレアの意識は暗号を解く事だけに向かっていた。机の上に置かれたメモ用紙に、視線を落とす。
昨夜から眠気に負けそうになりながらも書き留めた数字の列がズラリと並んでいる。二つの画像から学院式の標準暗号表で抜き出したものだが、五桁の数字が、妙に均一な間隔で並んでいるのが気になった。
偶然にしては、揃いすぎている。
「こちらがモン・シューが投稿したであろうコルテス兄妹向けのメッセージで、こちらがコルテス兄妹からの返事……。散りばめられている暗号の全てが五桁の数字というところまではわかりましたけれど、このコミックスとどうやって照らし合わせれば良いのかはわかりそうにないですわね……」
シャルロットも鉛筆を取り、数字の区切りをいくつか書き換えては試行錯誤を続けている。彼女の声は低く、夜明け前の部屋に溶けるように静かだった。机を挟んで向かい合う彼女の横顔は、眠気よりも思考に集中している時のそれで、普段の軽やかさは影を潜めている。
『……コミックスのセリフそのものを、番号化していると思うんだけどね』
クレアは小さく頷き、指先でメモ用紙の端をなぞった。
学院式の暗号であれば、もっと直接的な対応表が存在するはずだ。だけど、これは香月とコルテス兄妹の間だけのオリジナルだ。正しい解き方がわからないと先には進めない。
視線が、机の隅に積まれたコミックスのコピーの束へと移る。オウカが、ジェイムズが送ってくれたコミックスの写真の一つ一つをページ順にまとめてくれた物だ。
クレアは手元のメモをジッと見つめ、次にコピーの束をめくり始めた。ページごとのコマのセリフを指で追い、数字の並びとの関連性を探る。だが、目に入るのは、ぱっと見ただけでは規則性の読み取れない文字列の洪水だった。
「……ふむ、ページ番号やコマの順序が関係しているのかもしれませんわ。でも、色々試してますけど上手く言葉になりませんわね……」
シャルロットが低く呟き、鉛筆を指でくるくる回しながら思案する。その横顔には眠気の影もなく、思考に集中した鋭さがあった。
「それに、数字が五桁で揃っていること自体が、何かの鍵なのかもしれません。単純な暗号なら、文字数や記号の組み合わせでバラつくはずですから……」
しばらくの間、部屋には紙をめくる音と鉛筆のカリカリという音だけがあった。窓の外の薄雲が少しずつ色を変え、空の青が濃くなる。夜明けの光が、机の上の数字列とコミックスの束を淡く照らす。そこへ部屋の扉が開いた。
扉の開く音に、二人は一瞬視線を止めた。重厚な足音と共に、アルフレッドとブリジットが部屋に入ってくる。朝の光に照らされた二人は、既に身なりを整えていたが、その表情には隠しきれない呆れと心配が混じっていた。
「やはりここだったか。夜中にメイドたちが慌ただしく動いていると思えば……。クレア、何をしてるんだ?」
アルフレッドが腕を組み、溜息をつきながら歩み寄る。その後ろから、ブリジットが銀のトレイに乗せた紅茶のポットとチョコレート系の焼き菓子を運び込んできた。
カカオの甘い香りと、淹れたての紅茶の湯気が、徹夜続きの部屋にゆっくり広がった。
「お父様に気付かれなくて幸いだったわね。シャルロットさんまで巻き込んで、一体何を血眼になっているのかしら」
ブリジットは机の上に広げられた膨大なコピーの山と、殴り書きされた数字のメモを見て、軽く眉をひそめた。姉の鋭い視線に、クレアは少しだけ身を縮めたが、すぐに視線をメモに戻す。
『兄様、姉様……。ごめん、お騒がせして。色々あったんだけど説明は後。でも、この暗号はどうしても今解かなければならないんだ。カヅキの行方に関わる、大事な手がかりなんだよ』
その必死な声に、アルフレッドは厳格な兄の顔を少し緩めた。彼は机の端に置かれた暗号画像のコピーと数列のリストを一枚ずつ手に取り、逆光に透かして眺める。
「……五桁の数字の列が並んでるな。学院の標準暗号をベースにして解いているようだが、それだけではこの規則的な並びは説明がつかないな」
「そうなのですわ、アルフレッド様」
シャルロットが鉛筆を置き、助けを求めるように顔を上げた。
「どんなルールで、このコミックスと紐付けて暗号を解いているかがわからない限りは先に進めそうもありませんの」
「なるほど。この数字の核は、おそらく『座標』という所かな……」
アルフレッドは、シャルロットに向けられたその言葉を、努めて冷静に、かつ低く落ち着いた声で紡いだ。
だが、クレアにはわかっていた。シャルロットに見上げられた瞬間、兄の背筋は不自然なほど伸び、耳たぶがわずかに赤くなっていた。
どうやら本人は、うまく隠せているつもりらしい。シャルロットの方は気付いてないようだが。
「座標……。とおっしゃいますと?」
「……あ、ああ、そうだ。シャルロット嬢」
アルフレッドは一度咳払いをし、彼女の視線から逃げるように机の上のメモを指し示した。その振る舞いは完璧な紳士のそれだったが、クレアから見れば、意中の女性の前で良いところを見せようと躍起になっている少年のようにも見えた。
「学院式暗号を経由しているなら、本来ここまで桁数が均一になることはない。だが“座標”なら別だ。必要な情報量が固定される。だから五桁の数字が均一に並んでいるのは、情報の『場所』を直接示しているからだと考えれば筋が通る。例えば、最初の二桁がページ、次の一桁がコマ、最後の二桁がそのコマの中の何文字目か……といった具合になるだろうが──」
アルフレッドがHLSのコミックスのコピーの束をめくりながら、指先で一枚のページを机に広げた。
「最初の数字が9の所があるね。総ページ数は表紙を数えないでも百八十ページ以上ある。ページ数の指定にするなら、本来は三桁が必要だ。だが──」
アルフレッドはそう言って、指先でメモ用紙の「9××××」という並びを軽く叩いた。
そして広げられたページは、コミックス巻頭に収録されている話数索引だった。
各話のタイトルと、該当するページ範囲が簡潔にまとめられている、読者向けの一覧表である。
「──243話から254話。全部で九話ある。一話はすべて二十ページで構成されている。二つ目と三つ目の数字がセットとして一番大きい数字は20。恐らく区画を区切る数としても、過不足がない」
アルフレッドは索引の該当箇所を指でなぞり、そのまま視線をクレアたちへ向けた。
「つまり最初の一桁は話数、次の二桁がその話数内でのページ。すると最後の一桁、あるいは二桁がコマと文字位置あるいは文字位置のみ……そう考えると、五桁という制約が一気に意味を持ち始めるんじゃないか──」
『試してみるよ』
香月が投稿したであろう画像から抜き出した数列リストを、クレアは改めて手元に引き寄せた。震えそうになる指先を抑え込みながら、アルフレッドの示した仮説に従って、一つ目の数字に細い線を引く。
──話数。
次に二桁。──ページ。
残りの数字。──コマ、そして文字。
呼吸が、わずかに浅くなる。
「……九話目、十五ページ、三コマ目……」
小さく口で呟きながら、クレアは該当する話数のコピーを探し出し、机の中央へと引き寄せた。紙の擦れる音が、妙に大きく響く。
ページを開き、コマを数え、セリフの文字を指で追う。
一文字ずつ、確かめるように。
「……出てきましたわ」
シャルロットの声が、低く、しかし確かな熱を帯びて落ちた。
「ちゃんと、文字が拾えてますわね……!」
鉛筆が走り、紙の上にアルファベットが一文字、また一文字と並んでいく。
最初は断片的で、意味を成しているとは言い難かった。だが、数列を追うごとに拾われる文字は確実に増え、やがて単語の輪郭を形作り始める。
「I……WANT……TO……MAKE……」
誰も、もう口を挟まなかった。
紙を走る鉛筆の音だけが、やけに大きく響く。途切れていた文字列が、初めて言葉へ変わっていく。
最後の文字を書き終えた瞬間、鉛筆の先が紙の上で止まった。
誰も、すぐには声を発さなかった。
机の上には、無数の数字の列と、そこから拾い上げられた英単語。そして、そのすべての起点となった一文が、はっきりとそこに存在している。
I want to make contact.(連絡を取りたい)
If you realize this, respond in cipher. (気付いたら暗号で返事をくれ)
I’ll be waiting.(待っている)
静かに見守っていたブリジットが感嘆したように息を吐く。
夜明けの光が、窓から差し込み、紙の白をわずかに眩ませる。
その光の中で、クレアはしばらく視線を動かすことができなかった。
(──やっぱり)
胸の奥で、何かが静かに確信へと変わる。香月はコルテス兄妹と連絡を取っている。
なら、もう一つの暗号は──
クレアは、無意識のうちに、もう一枚のメモへと手を伸ばしていた。
コルテス兄妹から送り返されたとされる、同じく学院式の解読方法で導かれた五桁の数字の列。香月のメッセージと並べると、構造が酷く似通っているにもかかわらず、どこか温度が違う。
「……次は返信の方、ですわね」
シャルロットがそう呟いた瞬間、部屋の空気が僅かに引き締まった。
アルフレッドもブリジットも、無言のまま机上のメモへ視線を落とす。
最後に書き留められた文字列を見た瞬間、クレアの眉がわずかに寄った。
mnw.academia!app!relay!v3
…SUN&NIGHT
英単語ではある。だが、文章としての意味はなしていない。
先ほどまで拾い上げてきたメッセージとは、明らかに質が異なっていた。
『……文章では、ないね』
クレアの言葉に、アルフレッドが小さく頷く。しばらくそれを眺めていたブリジットが口を開いた。
「魔術学院の魔術ネットワークサーバーのURL……に見えるわね」
ブリジットの言葉に、シャルロットが目を見開いた。
「URL……つまり、通信先、ですの?」
「正確には入口ね」
ブリジットはトレイを机の脇に置き、文字列を指先でなぞる。
「mnw──Magical Network of the World。魔術協会が世界中に巡らせて管理している広域魔術ネットワーク。その中でも、academiaドメインは魔術学院の研究者しか触れない区画よ」
ブリジットの指先が、文字列の上をゆっくりとなぞる。
「この『!』を『/』に置き換えたら、アクセスできるんじゃないかしら……」
そう言って、ブリジットは魔術インターネット用端末であるCircle of wisdom、円環状の術式が刻まれた薄型端末──を机の上に置いた。
金属でも水晶でもない、半透明の盤面が、朝の光を受けて淡く反射する。中央には、待機状態を示す小さな魔術陣が脈打つように明滅していた。
シャルロットが思わず声を落とす。
「学院内用の端末ですの? 私達が使ってる物とあまり変わらないですわね……」
Circle of wisdom──学院研究者用の魔術通信端末。
一見すれば薄型のスマートフォンにしか見えない。だが、ブリジットが起動した瞬間、青白い魔術陣が画面前方へ静かに展開した。
「学院の研究者専用の魔術インターネット端末よ。外見は一般端末と変わらない方が都合がいいからね」
ブリジットはそう言いながら、指先で画面をなぞる。ロック解除の動作に合わせて、円環が一度だけ強く光り、次の階層が開いた。
通常のアプリ一覧は表示されない。代わりに現れたのは、簡素な入力欄と、薄く刻まれた学院章だけだった。
mnw.academia/app/relay/v3
ブリジットが、一文字ずつ慎重に入力していく。
入力のたびに、画面の奥でかすかな振動が走り、音にならない共鳴が指先に伝わってきた。
「……通ったわね」
その一言に、部屋の空気が張り詰める。
画面が一瞬だけ暗転し、次の瞬間、背景が深い紺色へと切り替わった。しかし、その瞬間。
端末の画面が、ぱちりと音を立てて明滅した。
深い紺色だった背景が一瞬だけ白く反転し、次の瞬間、まるで舞台幕が開くように画面上に極彩色が広がった。
──そして。
『パンパカパーン! よく辿り着いたね!』
場違いなほど明るく、弾むような女の子の声が、部屋に響いた。
クレアは思わず息を呑む。
シャルロットが、はっとしたように背筋を伸ばした。
アルフレッドとブリジットも同時に端末へ視線を集中させる。
『でも、貴方の解いた謎はぁ〜……』
声は一拍置いて、わざとらしく間を作る。
『ひと足先に、誰かに解かれちゃったみたい!』
画面の中央で花火のような光のエフェクトが弾け、魔術文字が散っては消えた。
『ご苦労様でした〜!』
語尾を伸ばしたその調子は、勝ち誇るというより、悪戯が成功した子供のそれだった。
「…………」
しばし、誰も言葉を発せなかった。
端末の画面には、今や明るいパステルカラーの背景が広がっている。
『何……この……』
クレアの声は、端末の画面を前にして自然と低くなった。
表示されているのは、学院の公式ネットワークとも、研究者用の管理画面とも違う、ごく簡素な待機画面だった。深い紺色の地に、円環状の魔術式が静かに回転しているだけ。警告も、案内もない。
「接続は、まだ確立しているみたいね」
ブリジットが淡々と言う。
だがその視線は鋭く、この状況の分析をしているような様子だった。確かに、端末のスピーカーからは、まだ微かなノイズが流れていた。
だが、それは通信が途切れかけている不安定さではない。むしろ、回線の向こう側で『誰かが、話す準備をしている』ことを示す、静かな呼吸のような間だった。
そして。
『……』
一瞬の沈黙の後、音が立った。
はっきりとはしなかったが、女性の吐息だ。
スピーカーの奥で、一瞬だけノイズが混じる。そして次に響いた声には、もう先ほどまでの芝居がかった明るさは残っていなかった。
『……追っているんだね。良いよ、特別にヒントをあげる』
その声は、先ほどまでの軽薄さを完全に脱ぎ捨てていた。
からかうような調子はなく、かといって敵意もない。ただ、こちらの反応を値踏みするような、落ち着いた低音だった。
『デリバリー寿司に電話して、ピッサが注文できるか確認してね。チャオ⭐︎』
その一言を残し、通話は途切れた。
だが──言葉が部屋の空気に沈みきるよりも早く、静寂が訪れる。
「…………」
一拍。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
冗談めかした言い回しだった。ピッサ──スペイン語発音でのピザの事だ。
間違いない。あの声はノーチェ・コルテスだ。
『寿司屋でピザを頼む』というその歪さだけが、妙に頭に残った。
意味だけを拾えば、ほとんど支離滅裂と言っていい。寿司屋に電話をかけ、ピザが頼めるかを尋ねる。常識的に考えれば、答えは最初から決まっている。
(それでも──ノーチェ先輩なら)
端末越しに聞こえた声には、思いつきや悪ふざけの軽さはなかった。
あれは嘲笑ではない。試すようでいて、その実、こちらを先へ進ませようとしている声だった。




