第三十六話 不倫
暗い森。
光が届かないだけではなく、人の目も、法の目も簡単には届かないように見える。そんな場所に一人でいることがどれほど危険なことなのか、目の前にいる緑色の小鬼を見て、サラ・藤木はようやく思い出した。
尻もちをついた彼女は眼を閉じ、頭を庇う。怯えていると一目でわかる防衛姿勢。
ゴブリンの逸話を知っていれば無理からぬことだった。だが、いつまでたっても彼女が害されることはなかった。
恐る恐る目を開くと、目の前にゴブリンがいた。ひゅう、と肺から空気が漏れたような音がした。まだ動くことさえできない。
「大丈夫?」
声を掛けられた。それが目の前のゴブリンから発せられた言葉だと気づくのにかなりの時間がかかった。
「えっと、大丈夫です?」
「よかった」
当たり前だが言葉は通じる。それそのものに驚きはないが、心配されるということは全くの予想外だった。ゴブリンは野蛮で短慮な生き物だと教わっていたからだ。
「迷子か?」
「え、ええと、まあそうですね」
サラはともかく自分が安全であるという事実を認めたため、冷静さを取り戻した。
「出口。こっち」
ゴブリンはくるりと背を向けて歩き出した。道案内をしようとしているようだった。
「あ、ありがとうございます。で、でもどうして私を助けてくれるんですか?」
そう聞くとゴブリンは立ち止まり、思案しているようだった。
「お前、邪魔。でも。困っていた。助ける」
どうもゴブリンは単語を細かく切りながらの会話しかできないらしい。それを繋げると、ここは自分の住処だからよそ者がいると邪魔だ。しかし迷子を見捨てるほど薄情でもない、というところだろうか。
「本当にありがとうございます」
家出同然の自分には優しくされることが何よりもうれしかった。ただ邪険にされているだけだとしても。
「家、どっち」
しかしその言葉で現実に引き戻された。あの家に戻らなければならないのだ。そうでなければ暮らしていけない。自分に一人で暮らす財力も、自由もない。
気づくとゴブリンの腕を掴んでいた。
「今日は……今日だけは……帰りたくないの……」
自分が誰に何を言っているのか、わかっている。そしてそれが間違いの始まりだった。
サラ様からゴブリンとの馴れ初めを聞いた私は頭を抱えていた。いや、そういう風に見える演技をしていた。
「事情は了解いたしました。異種族との不倫は通常より慰謝料が高くなりやすいですから」
こう判断される理由は二つ。
一つは人間と不倫されるよりも精神的な苦痛が強いと判断されるため。ラルサ共和国の時代から異種族との恋愛はタブーに近いらしい。
もう一つは異種族に慰謝料の支払い能力がないため。より正確にはあったらまずいのだ。異種族は財産などを所有することができないので、強制徴収さえしてはならない。まあこれは異種間恋愛を禁止する口実を作りたいだけなのかもしれない。
「そのうえではっきりさせなければならないことがあります。サラ様とそのゴブリン……ええと、その方のお名前は?」
「彼の名前は小五郎です。彼の父親が555番という個体だったので、もともと556と名乗っていたんですが、そこからもじって小五郎、という名前で呼ぶことにしました」
無機質すぎる名前から推測すると、もともと彼の父親は飼育されていたらしい。やはり、サラ様はそのゴブリンに相当入れ込んでいるらしい。そうでなければ名前なんて付けないはずだ。
「では小五郎さんとサラ様は肉体関係を結んでいますか?」
あまりにも直球な言葉だけれど、今さらそんなことを恥ずかしがる年でもないだろう。
「はい。それを、夫にも知られています」
「つまり、何度も小五郎さんと逢引きしていたということですか?」
「夫も不審に思っていたのでしょう。探偵に尾行されました」
「お分かりかと思いますが、この状況はほぼ詰んでいます。諦めて慰謝料に応じてはいかがですか」
「私も理解しています。でも……許せないんです。私のことを何年もいたぶっていた夫とその家族は何一つ罰を受けないなんて……! 挙句の果てには小五郎さんを殺処分するつもりだなんて!」
気落ちしていたように見えていたサラ様は実のところ噴火寸前だったのだろう。激しい怒りがぐつぐつとあふれ出る。
「失礼ですがサラ様とアルス様が不仲になった理由は何でしょうか?」
「もともと夫は厳しい人で、私の行動に逐一干渉してきました。でも、特に悪化したのはいつまでも子供ができなかったことです。特に姑から小言を言われるようになって……夫は一度も庇ってくれませんでした」
なんとまあ典型的なDV夫の母親だ。
ざっくりまとめると、息子、つまりDV夫を甘やかし、すぐに他人に責任転嫁する。すべてではないけれどDV夫は家庭環境も一因になっていることが多い。
子供についての文句もまあよくあること。
私の義理の祖母はあまり子宝に恵まれず、男の子を生むことができなかったことをかなり親戚に陰口をたたかれていたらしい。面と向かって言わせない迫力が祖母にあったことが不幸中の幸いだろう。
「でも、小五郎さんはそんなことありませんでした。彼はいつも優しくて、彼と会話しているうちに自分がいかに異常な状況にいるか気づくことができたんです。夫やその家族なんかより、彼のほうがよっぽど……人間らしく見えました!」
優しくされたという事実が醜い容姿や種族の差を覆したのだろう。こうして異種族恋愛は成立したわけだ。
ああ、なんて。
面白い。




