第十八話 物損
「お姉さま。ご無事ですか」
「もちろんです。助かりましたよ」
こんなことを言っているが内心では。
(いやいやいや⁉ 何強がっちゃってるんですか私⁉ 冷静になったせいで背中とか腕とかめちゃくちゃ痛いんですけど! また悪い癖がでちゃいましたね⁉ 反射的に坊ちゃまを庇っちゃったじゃないですか! しかも……)
ちらりと未だにオオグチオオカミから視線を外さない雫の背中を注視する。もうすでに息が整いつつある。
(刃物が私の目の前を通って怖かったんですけどお⁉ 何なんですかこの娘は⁉ 命がけの実戦なんて初めてですよね⁉ 何でそんな冷静なんですかあ⁉ しかも無表情! ありがたいし可愛いけど怖いんですよ! ええいそれもこれも全部お前のせいだ! 殺してやるぞケダモノ!)
「法の精霊ミステラ」
奇怪な知恵の輪のような物体が空中に現れる。
(え……?)
それを見て痛みでのたうち回っていたオオグチオオカミは立ち直り、怯えるようにこちらを見ていた。
(こいつ、精霊を知っている?)
妙な反応は気になったけれど、今は自分の身を守らなければ。
「ミステラ。オオグチオオカミを器物損壊罪で訴えることは可能ですか?」
『あ~無理だな。だってあいつ動物だろ?』
ま、これは予想通り。
理性のある異種族は法の適用内だけど、ただの獣には法律で対抗することはできない。
では次善の策だ。
「坊ちゃま。シュトートを呼んでいただけますか?」
「え……あ、う、うん! 風と知恵の下位精霊シュトート」
呆けていた坊ちゃまは半ば自動的に私の言葉に従った。
森の緑とは違い、淡い翠色の蝶が舞い踊るように現れる。
法の精霊ミステラは裁判に特化しているため私の身を守ってはくれない。しかし普通の精霊は契約者を守る義務がある。
「シュトート。そこの獣は私たちに危害を加えました。契約を履行しなさい」
だが私の提言にシュトートは無反応だった。
「シュトート? 何故何もしないのですか?」
『現在、竜胆藤太は該当の獣から攻撃を受けておりません。警護の必要性がありません』
「……いえ、どう見ても襲われているでしょう? それに、私は負傷していますよ」
『現在、竜胆藤太は負傷しておらず危機的状況にはありません。所有物であるホムンクルスの破損は警護優先度が低く、破損を直接目撃しなければ該当の獣を攻撃する根拠にはなりえません』
こ、この頭でっかちめえ! 本当に融通が利きませんね!
人間なら間違いなく危機的状況だと判断するはずだけれど精霊にとっては可愛い動物と戯れているのと変わらないらしい。そりゃ精霊ならあんな獣なんて一蹴できるでしょうがこっちは殺されかかっているんですよ!
向こうも精霊を警戒しているようですし、いっそのことあれを無視して帰るのもありかもしれない。
「つまり————」
私の思考を打ち切ったのは雫だった。
「精霊が出現している今なら少しでも負傷すればあの獣を攻撃できるのですね?」
「……⁉ よしなさい!」
私の制止を無視して素早くオオグチオオカミに近づく。それに反応したオオグチオオカミも急加速して迎え撃つ。
オオグチオオカミには鋭い牙と爪があるけれど雫に武器はない。
雫の喉元に牙が迫る。食われる。
それを覚悟した次の瞬間、雫は半身だけ体をずらし、わずかに目標を外した牙は雫の髪の毛数本を食いちぎっただけだった。
「シュトート!」
『所有物の破壊を確認。対象を排除します』
翠の蝶は一陣の風となって吹き抜ける。
それを見たオオグチオオカミの反応は今までで最も機敏だった。一目散に精霊から逃げるため、風のように木々を駆け抜ける。しかし風の精霊の名を冠するシュトートから逃げきれるはずもない。
だが、このままではまずい。
「坊ちゃま! シュトートに殺さないように命令してください」
「え、うん。シュトート。オオカミを殺さないで!」
その声が届いたのかシュトートはオオグチオオカミの手足だけを消失させた。そして獣は走る勢いを殺せず樹木にぶつかってようやく止まった。
遠目から見ても致命傷。いずれ出血多量で死ぬだろう。でも今はまだ生きている。
「鉈を借りますよ」
木から雫の鉈を引き抜き、軽く振る。特に問題はなさそうだ。
「お姉さま? どうなさるのですか?」
「とどめをさします」
簡潔に目的を述べる。
痛む体を無視してオオグチオオカミが寝転がる地面にたどり着く。
まさに虫の息だがまだ生きていた。
「このまま出血多量で死亡すると精霊が殺したことになるかもしれませんからね。あなたの記憶が失われるとまずいんですよ。どういう理由があって私たちを襲ったのかは知りませんが、処理させていただきます」
正確に急所に向けて鉈を振り下ろした。




