第十九話 疑念
とどめをさしてから雫に歩み寄ると悲しそうな視線をオオグチオオカミの死体に送っていた。
「雫。もしかしてあのオオカミを傷つけたことを気に病んでいますか?」
「そういうわけではありませんけど……でも、どうしてあの獣は私たちを襲ったんでしょうか? お姉さまから聞いた性格とはずいぶん違いますけれど」
もっともな疑問だ。あの獣からは強い敵意を感じた。普通野生の獣は見慣れない相手を襲わない。何か、普通ではない理由があるはずだ。
「わかりません。でも雫、血は怖くありませんか?」
「戦っている時は無我夢中でしたけど……でも今はちょっと……」
ちらちらと血を拭った鉈を見ている。
血液恐怖症は血を連想させるもの、負傷する状況そのものを忌避するらしいが、雫が戦闘をためらったことはない。興奮すると恐怖がマヒするのだろうか。どこの戦闘民族だ。
あるいは……その恐怖以上の意志を持ち合わせているのか。
「でもありがとう。怖いでしょうに、体を張って助けてくれて」
「いえ、私にはこれくらいしかできませんから」
殺意全開の獣を相手に大立ち回りを演じたことをこれくらいとはとても言えないと思うのだけれど。下手をしなくてもこの娘がいなければ私は死んでいた。
やはり私の妹は素晴らしい。怖いけど。強くて可愛い。怖いけど。
「あ、小百合。あのオオカミはどうなったの?」
おっと。今度は坊ちゃまか。
「殺しました。人を襲った獣は放置してはいけません」
これは地球でも言えることだけれど、一度人の味を覚えた獣は同じことを繰り返す。かわいそうだから、なんて理由で野生に戻していいものでもない。
「そっか。しょうがないね。でも……また、結局僕が足を引っ張っちゃったね」
オオグチオオカミに噛まれた腕に視線を落とす。
「怪我を見せてくれる?」
「ええ」
袖をまくって患部を露出させる。血が滲み真っ赤に腫れていたが、骨まで傷はいっていなさそうだった。
値段は張ったが、頑丈な服を買っておいてよかった。
「白魔法を試してみるね」
私の腕が白い光に包まれる。少しだけ痛みが引いた気がする。ちょっとした傷薬くらいにはなるだろう。この世界には傷を一瞬で治すような魔法の薬はないからこれがかなりましな医療技術だ。
「ありがとうございます。少し楽になりました」
しかし坊ちゃまは顔を上げなかった。
「ごめんね」
「雫にも言いましたが、謝る時はちゃんと理由を言ってください」
「……うん。小百合のことを守るって言ってたのに、それを守れなかったから……僕、もっとちゃんと……」
言葉が進むうちに涙声になっている。こんな顔を見るともっといじめ……ごほん。一応坊ちゃまにとって私は姉、ないしは母替わりだ。血縁的には母親のクローンという極めてややこしい立場だけど、それは現在の状況とは何ら関係ない。
「守ると言うと勇ましく敵に立ち向かう様子を想像するかもしれませんが、私のけがを癒してくださるのも立派な行為です」
そもそもオオグチオオカミがいるかもしれないと思った時点で精霊を呼ばせておけばこんなことにはならなかった。私も焦っていたのだろう。
「うん……ありがとう」
目に涙を湛えながら、それでも治療を続ける。
これで二人とも立ち直ってくれるだろう。いやはやまったく。
(お姉ちゃんって大変ですねえ)
上司や部下、信者と教祖などのように切り離せる関係じゃない。
成長するにつれ変わることはあっても、根本からひっくり返ることはない。祝福のようでもあり、呪いのようでもある。
ありがたいことに二人とも見た目も中身も可愛らしい。もしも可愛くなければどうなっていただろうか。あっさり見限った気もするし、なんだかんだで世話を焼いた気もする。いや、たらればに意味はないか。
ほどなくして猟師と警官の面々が到着したので、事情を説明し、写真などを託して帰路についた。
この状況で捜索に加われるほど剛毅ではない。
治療を済ませて自宅に戻り、チャイで一服していると電話が鳴った。それに応えるとあまり聞きたくない声だった。
『エドワード・デミルだ。小百合は御在宅かな?』
「ええ。ここにおりますよ。いかがなさいましたか?」
『連絡事項だ。まずクルツ婦人の赤子は見つかっていない。そしてオオグチオオカミの解剖結果が出た』
戻ってくる直前にオオグチオオカミの死体を検視するように依頼しておいたのだ。この世界でも解剖医学は一般的できちんと裁判の証拠にもなるらしい。
『赤子はオオグチオオカミに捕食されていない。監察医が断言した』
証拠があったわけではないけれど、なんとなくそうなる気がしていた。なら赤子は一体どこに行ったのか。
「そうですか。何か他に変わったことはありましたか?」
『ああ、実は————』
内容は予想外ものではあったのだが————。
(ああ。そういうことですか)
とても納得できる結果だった。ただしそれを表には出さない。
「何故そんなものが見つかったのでしょうか?」
『さあな。見当もつかん』
十中八九嘘だろう。普通に考えれば探偵でなくとも推理できる。
「そうですか。何かわかればご連絡いただけますか?」
『無論。私もこの件の早期解決を願っている』
白々しい会話を終え、次のプランを練る。
エドワード様の法律家としての力量はわからないけれど、あの得体の知れない雰囲気と知識の量から考えるとあまりやり合いたくはない。
そうなると……フットワークの軽さを活かして早めに勝負を決める。
今から一日以内にこの事件のかたをつける。
ただ、私の予想が正しければ……雫は悲しみ、傷つくだろう。坊ちゃまだってそうかもしれない。あの子たちのやりきれない表情を、どこに向けていいかわからない感情を想像する。
ああ。それはなんて。
「とっても素敵なことですね」
私の唇は悪魔のように吊り上がっていた。




