第二十八話 変節
当然そこにいたのは藤太様だ。その顔には困惑と怒りがちりばめられている。
内心で快哉を叫ぶ。運よく執行猶予が転がり込んできた。だが私が弁解する暇さえ与えずに旦那様が叫ぶ。
「お前は引っ込んでいろ!」
この剣幕では藤太様は何も言えなくなる……はずだった。
「そんなわけにはいかないよ! 襲ったってどういうこと⁉」
全くたじろがず、それどころか反論する。これは私だけでなく、旦那様にとっても予想外だったらしく、うろたえていた。
「お母さんだって言ってたよ! 家族仲良くが一番だって! でも——」
「うるさい!」
ぴしゃりと坊ちゃまの頬を叩く。いつもならそれで坊ちゃまは引き下がるだろう。
「うるさくない! 僕はお父さんと血が繋がっている家族なんだよ! 何で何も聞いてくれないの⁉」
恐らくは普段の不満も混じった坊ちゃまの慟哭に旦那様は余計に怒りを漲らせる。
私から視線が逸れたのは良いが、このままでは修復不可能なほどの亀裂が入ってしまう。
この段階でそれはまずい。
激しい口喧嘩を続ける二人だが、遂に旦那様は拳を閉じたまま振りかぶった。
(ああもう! どうにでもなれ!)
とっさに坊ちゃまを庇う。しかし痛みは来なかった。
上を見上げると、雫が旦那様の拳を横合いから止めていた。
いつの間に来たのか、かたかたと震えながら、旦那様を狩猟犬のような瞳で睨んでいた。
思わず寒気がするほど厳しい視線だった。誰も動かない時間が流れる。
が、突如として旦那様がよろめき、壁に手をつく。雫も思わず手を離したようだった。
「だ、旦那様?」
半ば反射的に、半ば打算的に心配して近づこうとするが手で制止された。
「もう、下がれ。さっさと戻れ」
それだけ言い残すとさっと地下室への扉の向こうへ消えていった。
しばし呆然としていた私たち三人はまず別宅に移ることにした。全員本宅に居続ける気分にはなれなかった。三人ともほとんど無言のまま別宅に上がる。さて、このお通夜ムードのままでいいわけがない。
「二人とも。そこに座っていてください」
別宅には最低限の家具しかないが、旦那様の厚意によってチャイ、つまりお茶を入れる設備はある。手早く紅茶を入れ、透明なグラスに注ぐ。いわゆるティーカップよりもグラスが一般的らしい。
個人的に気に入っているのはリンゴのチャイ。昔からリンゴは好きだ。味はもとより、赤と黄色のコントラストが美しい。青リンゴを馬鹿にしたいわけじゃないですが、やはり王道は赤リンゴだと思うのだ。ま、これはお茶ですが、そのうち生の果実を頂きたいものです。
未だにうつむいたままの二人のもとに甘い香りが漂ってくる。
「あれ? 小百合? お茶入れたの?」
「ええ。暖かいものを飲むと落ち着きますから」
「でも、こんな時に……」
「こんな時だからこそ、ですよ。さ、雫も飲みなさい」
おずおずとグラスを受け取った雫と坊ちゃまはゆっくりと口をつけ、ほう、と息をつき、少しだけ顔をほころばせた。
だが坊ちゃまは急に固い表情に変わると、雫に頭を下げた。
「雫。本当にごめん。お父さんがそんなことをするなんて……」
「いえ……藤太様が謝られることではありません」
「その通りですね。個人の罪は個人に帰する。ケレム様の行為を坊ちゃまが気に病む必要はありません」
「うん……」
頷いたものの顔色は良くならない。理屈は正しくとも感情がそれに追いつくとは限らない。
「それよりも坊ちゃまにはむしろお礼を言わなければなりません。私を守ってくださってありがとうございます」
意表をつかれた坊ちゃまは少し照れたようだった。
「うーん、守れた、のかな」
「ええ。もちろんです。雫もありがとう」
「私は……その、必死だったので、よく覚えてません」
確かに、横から拳を掴むなんて普通出来ない。運動に関する天賦の才でもあるのだろうか。
何はともあれ好意を示し、落ち着かせるために手っ取り早いのはスキンシップだ。
ゆっくりと二人の首を抱き寄せるように腕を巻き付ける。
「本当に二人とも、ありがとうございます」
二人はほんの少しだけ安心したようだった。
さて、これからどうしたものか。現状はとても厳しい。
体を離して二人と向き合う。まずは二人がどういう立場かきちんとわかってもらわなければ。
「坊ちゃま。単刀直入に聞きます。旦那様をこのままにしておいてよいと思いますか」
そう聞くと困って眉をひそめた。
「わからないよ。今までは、悪い人じゃないと思ってたけど……」
今までは、ねえ? 私の見たところ結構不満はたまっていたように見えますが……さて。
「お姉さまも、藤太さまも、私のことはお気になさらずに……」
「そういうわけにもいきません」
ぴしゃりと言い切る。
「私たちは運命共同体です。あなたが陰で苦しんでいたとしたら見過ごせません」
「お姉さま……」
感激したように目を潤ませる。
私の職責としては放置できないし、気になることもある。旦那様は私を失敗作と呼んだ。つまり成功があるのだ。何らかの目的の為に私、そして雫を造った。失敗だったようだが。
多分、雫を襲ったのもそうだろう。単純な肉欲ではないはず。私はその目的に心当たりがあったのだけど……どうやらハズレだったらしい。
だが。どうにももっと恐ろしいことを企んでいるような……しかもそれが私を巻き込むような気がしてならない。
もうこうなれば結果的に結束力が強まったこの三人で旦那様に渡り合うしかない。何とかして身の安全を確保しつつ、自らの職分を全うしよう。
「でも、どうしたらお父さんは優しくなってくれるんだろう……」
優しいから他人を傷つけないとも限らないのだが、そんなことを説明してもしょうがない。
「アイシェさんならどうでしょうか。私たちよりも古くから知り合っている人ですし……」
「あの人は旦那様の部下ですからね。その職分を忘れることはないでしょう」
雫はしゅんとして小さくなる。やはりアイシェさんを味方だと信じ切っていたようだ。
あの人ならば損か得かの判断をして旦那様につくだろうし、なによりもそもそもホムンクルスをどう扱おうが所有者の勝手だと言い切るだろう。良くも悪くも大人なのだ。
この家父長制が強いらしい国家において父親は家という天下の主だ。厄介なことに旦那様は周囲の人望もある。警察に届けたところで相手にされないだろうし、そもそも法的に何の問題もない行為なのだ。
もしもどうにかできるとしたら、この家の外部の権力者だ。せめてあと二か月あればコネの一つや二つ作っておけたのだけど。
その時、遠くからプルルルルという電子音が聞こえた。実際には電子音ではなく電話鳥の声だ。
「電話が鳴ってるね。とって来るよ。二人はここにいて」
ぱたぱたと本宅へ駆けてゆく。どうやら電話鳥の呼び出し音は放っておくとどんどんうるさくなるらしい。ふと横を見ると雫は額に手を当て、疲れた様子を見せていた。
「雫。あなた、眠りましたか? それと、食事は?」
首を横に振る。どちらもノーということか。
戸棚をゴソゴソと漁り、缶を取り出す。唇に指を当て、振り返る。
「坊ちゃまにも旦那様には内緒ですよ?」
中からナッツやドライフルーツを取り出し雫の口の中に放り込む。私のへそくりだ。
「ありがとうございます」
薄く微笑んで美味しそうに舌で転がす。やはり美味しいものは人の心をつなぎとめる。胃袋を掴むとはよく言ったものだ。
予想外に早く、別宅の扉が開く音がする。坊ちゃまが戻ってきたらしい。
「おかえりなさいま……どうかしましたか?」
坊ちゃまはとても、とても困惑している顔をしていた。
「えっと、菜月さんを覚えてる?」
「ええ、もちろん」
あの高飛車なわりに地味なお嬢さんですか。
「その、菜月さんが婚約破棄されたみたいなんだ」
「……何ですって?」
意味がよくわからなかったが、坊ちゃまもよくわかっていないようだった。




