第二十七話 憤怒
旦那様は明らかに嘘をついていた。
その嘘は明らかに雫と二人きりになるための嘘だ。何のために? ……いや、今は雫の捜索が先だ。
(ショックを受けた時行く場所はたいてい自分にとって安心できる場所。しかも自宅以外で。それなら候補は絞られる)
そもそも生後数日である雫の行動範囲は乏しい。私は公衆浴場への道を歩き出した。
浴場への通り道。そこから路地裏へと通じる道。薄暗い地面の下で雫はうずくまっていた。
赤い目はさらに赤く。服は汚れて弱弱しい姿。傷だらけの裸足が痛々しかった。
息を整えつつ、ゆっくりと雫に近づく。
「雫。大丈夫ですか」
捨て犬に声をかけるように優しく語り掛ける。
「お……姉……さま?」
「はい。お姉ちゃんです」
呆然としている赤い瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「お姉さま……お姉さま!」
がばっと立ち上がった雫はすごい勢いで抱きついてきた。なんとか転ばないように踏ん張る。涙は一向に止まる気配がない。
「大丈夫。大丈夫ですよ雫。何も怖いことなんかありませんからね」
泣きじゃくる雫をあやすように背中を優しくなでる。しかし心中では。
(あー……これ絶対面倒ごとになる奴ですよねー)
などとげんなりしていた。
しばらくして落ち着いてきた雫から事情をざっくりと聴く。概ね予想通りだった。
「雫。ひとまず家に戻りましょう」
「お姉さま。それは……」
雫の手はカタカタと震えている。嫌なことを思い出すのだろう。
「大丈夫です。私を信じてください」
そっと手を握る。ゆっくり、じっと待つ。
やがて雫はこくりと頷いた。今の雫を放置しておくのはあまりにも危険だ。この町はかなり治安が良いようだけど、無法者がいないわけではない。
手を繋いで家へと歩き出す。手は、痛いぐらいきつく握られていたが、文句を言うつもりはなかった。
邸宅にはすぐについた。しかし先ほどとは違い未踏破の山嶺の如く高い壁が聳え立っている。
「雫。あなたは別宅で待っていなさい」
「ですが……」
「大丈夫。私が何とかしてみせますよ」
頬を撫で、安心させるように微笑む。
「はい……」
雫が手を放す。地面を踏みしめ、本宅のドアを開けた。
何はともあれ旦那様を見つけなければ話にならない。すぐに見つかった。入ってはいけないと言われた地下室の前だった。
「旦那様。お話があります」
「何だ」
旦那様は無表情だが、動作が幾分固く、目線を合わせるのに躊躇っているようだった。
「まず確認を。雫を襲ったというのは事実ですか?」
はっきり言えばこれは予想された事態だ。好きにしていい他人を所有している人間がどのような行動に出るのかなど考えるまでもない。
男であれ、女であれ、LGBTであれ、人間とは欲望を肉の皮で包んだあさましいけだものに過ぎない。条件が整えられればそれはすぐさま飛び出てくる。
だがそれならば一つの疑問がある。何故私ではないのか。
私は控えめに見ても美人で、よほど好みから外れてない限り、床を共にする相手としては悪くないだろう。
私も旦那様は守備範囲内だ。妙な趣味がない限り関係を持ってもいい。
ともあれ旦那様は雫を選んだ。先に私が産まれていたにもかかわらず。であれば単なる肉欲でこんな蛮行に及んだのではあるまい。
そこには雫でなければならない、あるいは私を抱くわけにはいかない理由があるはずだ。
そこである一つの推測が現れる。もしもそれが正しければ旦那様は私を見限れない。
ゆえにここは強気に出るべきだ。姉と侍女という職責を全うしつつ、私の立場を確固たるものにするために。
私は世界で一番優しいおしとやかなお嬢様。それを全力で演じてみせましょう。
「もう一度言います。旦那様は雫を——」
「だったらどうした。私はあれの主だ。どう扱おうが私の自由だ」
吐き捨てるように告げると後ろを向いて地下室に向かおうとする。
実に正論。ホムンクルスに人権はないのだから乱暴を働いたとしても法的な問題はないはず。だがここで引き下がっては元詐欺師が廃る。
「ですが旦那様。私にとってあの子は家族も同然です。私には家族がいませんが、家族とはお互いを助け合うものなのでしょう? であれば、あの子を放っておくわけにはいきません」
ピタリと旦那様の動きが止まる。良い兆候だと信じる。
「旦那様は私たちを創られました。そのことには感謝していますし、尊敬しております。だからこそお慈悲をいただけませんか? もしも、旦那様が私どもを必要としているのであれば全力でお手伝いいたします」
品位を失わないように、しかし優しい言葉をなるべく選んだ。さて、結果はどうだ?
旦那様はゆっくりと振り向く。その顔は。
明王の如き憤怒が顕れていた。
(あっれえ⁉)
どう見ても好意的な表情ではない。となると、私は何かを読み違った。
「お前の意見はよくわかった。やはりお前は失敗作だ」
ごく普通の足音が地鳴りのように聞こえる。間違いない。今世において最大の危機が迫っている。だがしかし、旦那様の目的を完全に見誤った私になすすべはない。
「私が下のホムンクルスを襲ったぐらいでどうこう言うなど……あまつさえ家族? 笑わせるな!」
嵐のような怒気が言葉となって私に叩きつけられる。下手をするとこの場で始末されるかもしれない。起死回生の一手を探るために頭を必死で動かした。が、しかし。
「今のどういう意味?」
横から幼い声が私と旦那様を遮った。




