後編
「天におわします我らの父よ、今日も恵みをくださいましてありがとうございます」
「「「ありがとうございます」」」
「では、ありがたくいただきましょう」
「はい、神父様」
私は孤児院で育てられている子どもたちなどと一緒に食事を取っています。
米や魚を主体とした日本の普通に食べられている食材ですね。
牛馬を食べるのはけしからんというのがこの国の一般的な解釈であリますし、牛馬は乗り物、荷運びや開拓や農耕に重要な家畜ですからね。
海藻と魚と米が食べられればまあ栄養バランス的にはなんとかなるでしょう。
やはり子供の笑顔というのは良いものです。
現在は天正2年(1574年)九州では大友と島津、毛利、長宗我部の連合軍が雌雄を決しようとしていました。
島津と大友の決戦は本来ならばあと10年ほど先のことで、その頃には豊臣秀吉が中国、四国、紀伊、越中、飛騨を平定し上杉、徳川も臣従していたので残る大きな敵対勢力は九州の島津と関東の後北条、あとは未だに小勢力が乱立していた東北の勢力のみとなっていました。
無論そんな状態で島津が勝てるわけもなく、島津は豊富に臣従することになるのですが、今回は織田に対しての軍事物資である鉄砲や火薬、鉄鉱石などの支援がないうえに、それはすべて島津、毛利、長宗我部に与えられていますから、織田は苦境に陥っていますね。
それでもたやすく崩壊しないのは大したものではありますが。
さて、島津は九州の西から迂回し、筑前・筑後・肥前 などを抑えながら北上し、
大将を島津義久、義弘、家久率いる5万の軍勢で北上しました、途中で北九州西武の諸勢力が次々と合流し、最終的には約7万の軍勢に膨れ上がります。
更に、毛利が豊前を、長宗我部が豊後をそれぞれ支援攻撃します。
大友家の名将 「高橋紹運」と「立花宗茂」は奮戦しますが、多勢に無勢であり大友はここに滅びました。
こうして九州は島津によって統一されたのです。
統一されたことにより安定した九州には長崎、中国には山口、四国には高知にそれぞれ小神学校と修練院、大神学校の男子学校と女子学校を設立しました。
それぞれは全寮制で学生は寄宿舎にて共同生活をしながら皆で学ぶのです。
共学でないのは神に仕える者であれば当然でしょう。
我々は、聖書に基づいた神学を学び聖書を誤りのない神のことばと信じ、かつ信仰と生活の唯一の規範として、正統的な神学に基礎づけられた教職者および奉仕者を養成し、主イエス・キリストの教えを、日本全国に広め、キリストのからだである教会を建て上げる働き人として、伝道者と宣教師を育成しなければなりませんからね。
更に私は活版印刷機(グーテンベルク印刷機)を導入し、聖書を印刷、装丁させ生徒に行き渡るようにします。
「ふふふ、この素晴らしい教えを日本人が多く読めるようになるとは誠に素晴らしい」
小神学校ではまずラテン語とポルトガル語、日本語を学び、文字を覚えたら、それぞれの古典文学を学ばせ語学力をつけさせます。
さらには、地理、算数、音楽、体育などの授業も行います。
音楽はオルガンやピアノ、フルートなどの楽器の演奏や成グレゴリオ聖歌の合唱など、これらは大変に重要です、それには当然楽譜を読めるようにならなければなりません。
また各地を歩き回る布教活動には体力も重要です、夏は水泳もおこない、週末には生徒全員で遠足やハイキング、ピクニックに向かわせたり芋掘りや狩りなどをさせます。
聖なる祝日である復活祭やクリスマスには祭を行わい、生徒が劇や歌などを披露します。
修練院では聖書の内容を深く理解できるように哲学や基礎的な神学をまなびます。
大神学校では旧約神学、新約神学、ヘブライ語、ギリシア語、組織神学、倫理学、実践神学、説教学 、説教演習、礼拝学、宣教学、仏教、神道などの日本の宗教、数学、弁論などにくわえ、技術実習として、油絵、水彩画、銅版画彫刻、印刷術、オルガン製作、時計制作、望遠鏡製作なども行わせます。
「これくらいできれば、どこに出しても恥ずかしくない宣教者になれるでしょう」
そういえばトーレスは”日本の世俗国家は、ふたつの権威、すなわちふたりの貴人首長によって分かたれている。ひとりは栄誉の授与にあたり、他は権威・行政・司法に関与する。どちらの貴人も〈みやこ〉に住んでいる。栄誉に関わる貴人は〈おう〉と呼ばれ、その職は世襲である。民びとは彼を偶像のひとつとしてあがめ、崇拝の対象としている。”とに報告していましたね。
帝に金品を送り布教許可をいただきましょう。
年が明けて天正3年(1575年)
毛利は摂津・山城・若狭・越前・北近江を、長宗我部は河内・和泉・大和・南近江を、島津は紀伊・伊勢・伊賀・志摩・尾張をそれぞれ攻略します。
この戦いで柴田勝家、丹羽長秀、森可成、明智光秀や羽柴秀吉などの織田方の名のある武将が討ち取られ織田信長も自刃し、織田家は滅びます。
毛利輝元は正親町天皇に献金をおこない、天皇を保護するという大義名分を得ました。
輝元を通じてイエスズ会も多額のの献金や生糸などの貴重品を献上することで、禁止されていた京都市内及び機内へんぽ布教許可を得ることができたのです。
なんだかんだ言って世の中カネですね……世知辛いったらありはしませんが。
しかし、順調なのはここまででした。
我々の布教許可を受けて危機感を抱いた石山本願寺の顕如は各地の門徒衆に檄文を送り、毛利、島津、長宗我部を仏敵として打倒するように呼びかけたのです。
さらに顕如は畿内の門徒衆に対して、石山本願寺防衛のため武器を携え大坂に集結するように檄を飛ばしました。
そして加賀で大規模な一向一揆が起こり北陸は一向一揆の門徒衆の支配下となったのです。
更に伊勢の長島でも一向一揆が起こり、これに呼応して北伊勢の小豪族の一部も一揆に加担、さらに大坂より派遣された坊官の下間頼旦らに率いられた数万に及ぶ一揆衆は、長島城を攻め落とし城を奪いました。
毛利は加賀を中心とする北陸の一向一揆と、長宗我部は美濃で武田軍と、島津は長島などで一向一揆と対峙することになり一向一揆の鎮圧及び武田軍との戦闘に手間取ることになったのです。
しかし、浅井・朝倉と戦闘を継続中だった織田軍とは異なり日本の西部を統一してきた島津・毛利・長宗我部はまず島津が2年の歳月をかけて長島の一向一揆を根切とし、続いてその1年後毛利が北陸の一向一揆を殲滅しました、毛利は石山本願寺を包囲し石山本願寺は食糧不足に陥るのです。
そして、正親町天皇の勅令により、双方の和議が成立し、顕如は石山本願寺から退去しました。
しかし、その直後に堂舎・寺内町が炎上して灰燼に帰したのです。
この年、後北条が里見を下して房総を制圧しています。
天正6年(1578年)石山本願寺を下した連合軍は島津が東海道、毛利が北陸道、長宗我部が東山道を東進します、島津は三河と遠江を、毛利は加賀、越中、能登を長宗我部は美濃を攻略します。
そして連合軍は信濃で武田勝頼を打ち破ります。
このときに足利義昭は将軍職を辞任して臣従し名実ともに室町幕府は滅亡しました。
しかし、能登に侵攻してきた上杉謙信軍に毛利が破れ能登を撤退することになりました。
「流石に軍神と呼ばれた上杉謙信……強い」
しかし、その直後上杉謙信が病没し、上杉内部で内乱が起こりました。
天正7年(1579年)連合軍はさらに東進します。
島津は駿河と甲斐を、毛利は越中を、長宗我部は信濃を制圧し武田が滅亡しました。
そしてイエズス会東インド管区の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが長崎に到着しました。
私は丁重に彼をもてなします。
「これはこれは、巡察師。
遠いところかよくいらっしゃいました」
「うむ、日本布教長なかなかうまくやっていっるようだ、きっと神もお喜びでありましょう」
「はは、ありがたきお言葉でございます」
私は彼とともに長崎を周り現在の状況を説明していた。
「現在日本における九州・中国・四国・畿内・中部・東海・北陸・甲信越と呼ばれる地区までは
布教の手が広がっております」
「うむ、なんとも喜ばしいことだ」
私と彼はイエズス会員のための宣教のガイドライン、『日本の風習と流儀に関する注意と助言』を執筆しました。
まず宣教師は日本社会の権力構造の中でどの位置にいるかを示し、イエズス会員たちが日本社会でふるまうとき、社会的地位において同等であると見なす高位の僧侶たちのふるまいにならうべきしました。
日本社会は権力構造にしたがって服装、食事から礼儀作法まで全てが細かく規定されており、我々イエズス会員も、高位の僧侶たちのように良い食事を取り、長崎市中を歩く時も彼らにならって従者を従えて歩供養にしていくことになりました。
しかし、このようなやり方が神の意志に背くものと、托鉢修道会からだけでなく、イエズス会内部でも避難するものがでました。
「では日本全土を改宗した際には日本人を尖兵として、中国に攻め入る事ができますね、
それはいつごろになりますか?」
「え?」
この人は何を言っているのだろう、私に役目はキリストの素晴らしい教を広めることであったはず……と、私は一瞬考え、そして本来は私はインドで軍人として働いており、日本はフィリピンやマカオと同じく中国への侵略の足がかりであることを思い出した、私はしばらく考え
「失礼しました……あと5年ほどはかかるかと思われます」
「そうですか、では引き続き布教活動をすすめてください。
この地のものに神の愛のあらんことを」
「は、かしこまりました」
しかし戦乱を収めるために行ったことが更に大きな戦乱を呼ぶことになるであろう大陸出兵につながるとは……なんとも皮肉なことです。
とはいえ、日清戦争や日露戦争、朝鮮併合や満州国の立国などはイギリスの主導によるものでもありましたね。
「さて、どうしたものでしょう……明は崩壊寸前とは言え今度は清が出てくるはずですが……」
私は空を仰ぎながら、つぶやきました。
その翌日巡察師より遣欧少年使節をローマ及びポルトガルへ派遣する案が出されました。
「この目的は2つあります。
第一としてはローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王にこの国への布教の重要性を説いて
日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。
第二は日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、
帰国後にその栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、
いっそうの布教の流布に役立てることです」
「しかしそうなると、フランシスコ会などの托鉢修道会がきて
面倒なことになりはしませんでしょうか?
彼らは我々イエズス会員のような宥和政策は取らないと思いますが」
「ふむ、君の言うことにも一理あるな……一旦保留するとしておこう」
「はい、ありがとうございます」
しかし、このままでは日本がインドやフィリピン、中南米諸国のようにスペインやポルトガルが支配する植民地になってしまいますね……平和を保てるのであればそれでも構いませんか……。
「とは言え島津や毛利、長宗我部は熱心なキリシタンというわけではないですけどね。
それに本国の人間は日本人の変態的な技術力をわかっていない」
最初に鉄砲を支援したのは私達だが、すでに日本人は自分たちで鉄砲を量産できる。
硝石の生産方法も知られてきている、仮にポルトガルとスペインが日本を攻撃しようとしても、大名たちが本気で戦えば日本を侵略することは難しいだろう。
なにしろ、ヨーロッパでは未だに銑鉄しかつくれていないが中国や日本は鋼を用いているのだから。
天正8年(1580年)連合軍はさらに東進します。
毛利は越後の上杉を降伏させ越後を、島津と長宗我部は共同して北条を攻め滅ぼし島津は伊豆・相模・安房・上総・下総を長宗我部は武蔵・上野・西下野を制圧しました。
そして天正9年(1581年)日本地区がイエズス会の準管区に昇格しました。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノより」私は準管区長へと任ぜられました。
「引き続きよろしく頼むぞ。」
「はい、かしこまりました」
私は毛利を通じて調停に働きかけ王政復古の大号令をかけさせます。
「王政復古の大号令」の内容は以下のとおりである。
以降は天皇が親政を行う
足利幕府は完全なる廃止とする。
摂政・関白は廃止とする。
新たに総裁・議定・参与の三職をおく。
華族令発布による爵位制度の発足
官位を廃止し爵位を持ってこれに当てる。
爵位というのは「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位です。
「まあ、飛鳥時代に唐が日本へ律令を持ち込んで、中央集権政治ができたくらいですし
わわわれにできないこともないでしょう」
この年中央政府は東北地方を制圧し日本統一政府が出来上がりました。
私は農業・医学・教育の改革を推し進め日本でのキリスト教の布教に生涯を捧げます。
寺や神社関係者との軋轢がなかったわけではありませんが、日本人というのは利益があればあまり深く考えないで拝むという性質もあり、キリスト教の普及はそれなりに進みました。
クリスマスやイースターなどの祭りが正月や盆の行事とともに取り入れられルところも少なくはなくなりましたね。
「これで日本国内は平和になりますか」
その後、本国よりの軍の指示で日本政府に中国の明の征伐を働きかけ、日本軍による大陸討伐軍が動員され結果として明は滅ぶものの、北方のヌルハチが満州に建国した後金こと後の清の侵入により結局日本軍は大陸から撤退することになり、ポルトガルの中国支配の野望は打ち砕かれました。
さらに、1588年に行われたアルマダの海戦によりスペインの無敵艦隊がイギリス海軍に敗れた事により、ポルトガルとスペインの没落が始まったことにより、本国よりの連絡も途絶えがちになりました。
そして私は慶長14年(1609年)4月16日、多くの信徒に見守られながら日本で生涯を終えたのです、私が死んだあとにはプロテスタントやフランシスコ会がやってきて宗教同士で争うことになるのでしょうか。
せっかくこの日本という国は平和になったというのに……。
「ああ、どのような時代でも完全な平和は得られないのですね……
神よ罪深き私達を許し給え」