5
医務室
白い光が、満ちていた。
医務室の照明は、
柔らかいのに影を作らない。
すべてを均一に照らすその光は、
安心感と同時に、
どこか現実味を削ぎ落としていた。
担架が静かに運び込まれる。
金属の脚が床に触れる音が、
やけに澄んで響く。
医務官の女性は、すでにそこにいた。
白衣の袖をまくり、
無駄のない動きで準備を整えている。
彼女は担架に近づき、
女性の顔を覗き込んだ。
濡れた髪。
冷えた皮膚。
浅く、しかし規則的な呼吸。
一瞬だけ、目が止まる。
「……生きてるわね」
誰に向けたわけでもない、
小さな確認。
「ベッドに移して」
声は落ち着いている。
研究所の中で、
この声だけが“日常の言葉”に近い。
スタッフが担架から身体を移す。
そのとき、女性の腕がわずかに揺れる。
反射か、
それとも意識の残滓か。
医務官はすぐに手首を取り、
脈を測る。
「……安定してる。思ったより強い」
彼女は視線を上げる。
「体温はかなり落ちてる。
先に温める処置を」
装置が起動する。
低い電子音。
ベッドの周囲に、
温度調整ユニットが展開される。
空気が、少しだけ変わる。
外の海とは違う、
制御された暖かさ。
医務官は、
女性の額に触れる。
冷たい。
だが、完全に冷えきってはいない。
「……戻れる」
小さく呟く。
それは医学的な判断であり、
同時に願いでもあった。
一方で、
入り口付近に立つ受け入れ担当の男は、
何も言わずにその様子を見ている。
彼の視線は、
患者ではなく“対象”を見ている。
呼吸。
筋肉の緊張。
微細な反応。
すべてを、無言で記録している。
「もういいわ。ここは私がやる」
医務官が言う。
男は一瞬だけ視線を動かし、
静かに頷く。
そのまま部屋を出る。
ドアが閉まる。
音が消える。
医務室に、
再び静けさが戻る。
機械の低い音と、
女性の呼吸だけが残る。
医務官は、
濡れた髪をタオルで拭きながら、
わずかに表情を緩めた。
「……よくここまで持ったわね」
返事はない。
それでも、
彼女は言葉を続ける。
「大丈夫。ここは安全よ」
その言葉は、
自分に言い聞かせているようでもあった。
そのとき。
奥の棚のあたりで、
何かがごそごそと動く音がした。
医務官は顔を上げる。
「……マイケル?」
次の瞬間、
棚の影から男が顔を出した。
髪は少し乱れ、
白衣は着ているが、きちんと着ていない。
手には、小さな紙袋。
「……あ、いた……
頭痛薬……どこ……」
ぼそぼそと呟きながら歩き出し、
ふと視線がベッドに向く。
止まる。
そして――
「……え?」
次の瞬間。
「ああああああ何これ!?」
医務室の静けさが、
一気に破られる。
医務官はため息をつく。
「声が大きい。
薬ならそこ」
指さす。
マイケルは反射的に頷きながらも、
視線は女性から離れない。
「いや、ちょっと待って……
え、誰……?」
歩み寄る。
ベッドの横に立つ。
顔を覗き込む。
その表情が、ゆっくり変わる。
軽さが消える。
思考が動き始める。
「……外の人?」
医務官は短く答える。
「漂流してた。
さっき運ばれてきたばかり」
マイケルは黙る。
女性の呼吸を見る。
胸の上下。
わずかな筋肉の動き。
そして――
ほんのわずかに、
目の奥が光る。
「……へぇ」
それだけ。
だが、その一言の中に、
複数の意味が重なっていた。
驚き。
興味。
そして――
計算。
医務官はその変化を見逃さない。
「……マイケル」
少しだけ強い声。
「この人は患者よ」
短い言葉。
釘を刺すように。
マイケルは、
一瞬だけ視線を逸らす。
そして、軽く肩をすくめる。
「わかってるよ」
笑う。
いつもの調子に戻る。
だが、ほんのわずかに遅れている。
彼は紙袋から薬を取り出し、
水もなしに飲み込む。
「……でもさ」
ぼそりと呟く。
「こんなとこに流れ着くなんて、
運がいいのか悪いのか……」
その言葉は、
冗談のようでいて、
どこか真実に近い。
女性は、まだ目を覚まさない。
だが、
意識の深い場所で、
何かがわずかに触れる。
声。
温度。
空気。
そして、
“見られている”感覚。
医務室の空気が、
ほんの少しだけ変わる。
静かに。
確実に。




