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漂流


音が、ない。

最初にそれを感じた。


次に、冷たさ。

身体の感覚が、

遠くからゆっくりと戻ってくる。


薫は、

水の中にいた。

意識というより、

“気づき”に近いものが、

ゆっくりと浮かび上がってくる。


暗い。

けれど完全な闇ではない。

上の方に、

かすかな光が揺れている。

——浮かばなければ。

そう思ったのか、

身体が勝手に動いたのかは分からない。

腕が、水を掻く。


重い。


まるで自分の身体ではないように。


肺が痛む。

空気を求めて、

喉が無理やり開く。

水が入る。

咳き込もうとして、

咳ができない。

思考が、途切れる。


——だめだ。

その瞬間、

何かに引っ張られた。

身体が、上へと持ち上がる。


水面。

空気。

荒い呼吸。


肺が焼けるように痛む。

薫は何かに掴まっていた。

視界がぼやけている。

それでも分かる。


——オレンジ色。

膨らんだ布。

救命バルーン。

身体はそこに半分乗り上げ、

半分はまだ海に沈んでいる。

波が、容赦なく打ちつける。


冷たい。

痛い。

意識が、また遠ざかる。

時間の感覚が、消えていた。

昼なのか夜なのかも分からない。

ただ、灰色の空と、

終わりのない海だけがある。


薫は、

バルーンにしがみついたまま、

ただ漂っていた。

何度か、目を開ける。

そのたびに、

世界は少しずつ違って見える。

空の色が変わる。

波の高さが変わる。

光の位置が変わる。


でも、何も変わっていない。

——どこにも辿り着かない。

思考が、うまく繋がらない。

名前。

目的地。

自分がどこに向かっていたのか。

断片はあるのに、

繋がらない。


代わりに浮かぶのは、

別のもの。

数字。

契約書。

会議室の空気。

誰かの視線。

——違う。


今、それは必要ない。

薫は目を閉じる。

波の音だけが、

一定のリズムで続いている。

そのリズムが、

いつの間にか心拍と重なっていく。

ふと、音が変わる。

低い振動。

遠くから、

何かが近づいてくる。


最初は、

海の音の一部のようだった。

だが違う。

規則的だ。

人工的な音。

薫は、ゆっくりと目を開ける。

霧の向こうに、

影が見える。

黒い、長い影。

——船。


認識した瞬間、

身体の奥で何かが反応する。

助かる。

そう思ったのかどうか、

自分でも分からない。

ただ、

手がわずかに動く。

声を出そうとする。


しかし、音にならない。

喉が乾き、

空気だけが漏れる。


それでも、

バルーンに取り付けられた紐が、

かすかに揺れる。

補給船の見張りが、

それに気づいた。


「……あれ、浮いてるぞ」


双眼鏡が向けられる。

オレンジ色。

人工物。


「バルーンだ!」


船の進路が変わる。

エンジンの音が、

少しだけ強くなる。

距離が縮まる。

薫の視界に、

黒い船体がゆっくりと大きくなる。


現実が、

少しずつ輪郭を持ち始める。

フックが伸びる。

何かが引っかかる。

バルーンが引き寄せられる。

波が荒れる。

身体が揺れる。

その衝撃で、

薫の意識が一瞬だけはっきりする。


人影が見える。

誰かが叫んでいる。

言葉は聞き取れない。

でも、意味だけが届く。


——生きている。

誰かの手が、

肩に触れる。

温かい。

海とは違う温度。

その感覚が、

最後の意識を引き寄せる。


薫は、

ほんのわずかに目を開ける。

空の色が、

少しだけ明るく見えた。

そのまま、

意識は静かに落ちていく。

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