第29章:魚雷の夜
第29章:魚雷の夜
**1895年2月5日から2月7日 | 劉公島外海、北洋艦隊錨地**
夜色が下りても、劉公島の周囲の海はすぐには暗くならなかった。
先に暗くなったのは人心だった。
昼間、砲台に押されて残っていた秩序は、夕方から少しずつほどけた。艦上の灯は舷側を照らし、港内の索は張り、錨地はなお錨地だった。だが誰もが知っていた。砲台が奪われた後、海面は平らな水ではない。暗所からいつでも打ち抜かれる浅い盆になった。
魚雷艇は、そのような夜に現れた。
低く、速く、水線に貼りついて進む。遠くからは途切れた影にしか見えない。見張りの目がよくなければ、霧と波の間で船体と海面を分けることは難しい。劉公島の信号兵が最初に異常を見た時、巡邏船が航路を誤ったのだと思った。影が急に分かれ、錨地へ向かって突進した時、当直士官はようやく悟った。
巡邏ではない。
夜襲だ。
「敵艇」
その声が出ると、港内は冷水を浴びたようになった。
**二月五日:定遠**
二月五日の夜、第一撃は北洋の胸へ食い込んだ。
日本軍魚雷艇は、暗色と岸上砲火後の混乱に紛れ、錨地へ貼りついた。清軍に灯がなかったわけではない。探照灯は劉公島と艦上から海面を掃き、一筋の白光が霧を切り、また霧に呑まれた。問題は、灯光は敵を探すと同時に自分の位置も示すことだった。日本艇は時に清軍探照灯の余光を利用して艦影を判断し、光束が逸れると陰から近づいた。
夜戦で最も恐ろしいのは、この反利用である。
こちらが光で敵を探すと、敵もその光でこちらを探す。
定遠の水兵は、まだ完全に衣を着る暇もないうちに警鐘を聞いた。
「左舷に艇」
「右舷にも」
「灯を消せ」
「全部は消せない、信号が要る」
命令はぶつかり合い、灯火は甲板で明滅した。誰かが砲位へ走った直後、水面から鈍い音がし、定遠の全身が下から強く叩かれた。魚雷の爆音は大きくない。だが船腹へ潜り込んだ瞬間、海底から鉄鎚で打ち上げられたようだった。木片、蒸気、鉄片、人が一緒に上がった。
船上の人々はまず呆然とし、それから叫び始めた。
叫びには秩序がない。本能だけだった。
定遠中雷。
北洋旗艦が、夜の小艇に腹を咬まれた最初の瞬間だった。定遠は黄海海戦で砲火を耐え、厚甲と巨砲で北洋水師の面目を支えてきた。だが魚雷は砲弾ではない。砲弾は見える方向から来る。魚雷は、自分を支えていると思っていた水の下を裂く。
丁汝昌が報を受けた時、顔は白くなった。
定遠を錨地中央で沈ませるわけにはいかない。
「浅瀬へ乗り上げさせよ」
命令は下った。
定遠はやむなく座礁し、水上砲台に改められた。提督旗は、もはや機動力を失った旗艦に置き続けるわけにはいかず、のち鎮遠へ移された。旗が移ると、多くの水兵は理解した。これは単なる儀礼ではない。北洋水師の精神の中心が動いたということだ。
定遠はまだ存在した。
だが、もはや隊を率いて出撃できる旗艦ではなかった。
水上に置かれた砲台になったのである。
**戴罪の身**
丁汝昌は夜風の中に立ち、下から上がる損害報告を聞いた。
彼の身にあるのは、すでに提督の責任だけではなかった。
黄海の後、朝廷は北洋水師に頼りながら、同時に責任を問おうとした。旅順失陥後、公文と世論の中では、前へ押し出されるべき名前が探され続けた。丁汝昌は、自分が戴罪の身であることを知っていた。戴罪とは抽象語ではない。守る一日一日は自分に息を残すことであり、一つ失うごとに後日の罪状へ変わる可能性がある。朝廷は守れと言い、李鴻章は支えろと言い、部下は路を求め、敵は降伏を勧める。
伊東祐亨の降伏勧告も、この影の中で彼を圧していた。
英国艦隊司令フリーマントル上将を経て渡されたその書簡は、礼を失わず、同時に鋭かった。丁汝昌に降れと言うだけではない。このまま守れば、艦隊、島上官兵、傷兵が少しずつ死局へ引きずり込まれると告げていた。丁汝昌はもちろん軽く受け入れられない。だが一通の書簡を拒むことと、書簡が指摘した困局を拒むことは別である。
彼は定遠方向の黒い影を見た。
かつてそれは旗艦だった。
今は座礁した鉄塊だった。
**二月六日:来遠**
二月六日の夜、魚雷艇はまた来た。
人が最も恐れるのは二度目である。
一度目の夜襲なら、偶然、疏忽、敵の僥倖と言える。二度目が来れば、敵は入口を見つけたということになり、その入口をすぐには閉じられないということにもなる。港内の者は黄昏から本当に眠れなかった。砲位には人がつき、艙口には人がつき、信号員は灯を見つめ、軍医は包帯と油布を先に積んだ。
だが準備と防止は別だった。
日本軍魚雷艇は夜色、霧、岸上火力の陰に紛れて再び迫った。探照灯が掃くと、水面には何もない。光が逸れると、低い影が暗所から滑り出る。誰かが発砲すれば、砲口の光は自艦の位置をさらに明瞭にする。錨地の船は外海のように自由に動けない。索、浅水、隣の艦、座礁した定遠が、すべて転舵を遅くした。
最初に来遠がやられた。
鈍い爆音の後、艦体が大きく傾いた。機関室、罐室の近くの水音が変わった。船底で大きな布が裂かれるようだった。水兵は木楔、麻布、桶を持って下へ走った。自分の手足で海を塞ごうとするようだった。だが魚雷が開ける穴は、すぐ塞げる穴ではない。鋼板を裂くだけでなく、船上の者の安定した息を一緒に奪う。
「漏水を塞げ」
「水を汲め」
「傷口を探せ」
平時には分担である言葉が、夜には命を引き延ばす叫びになる。
来遠はついに沈んだ。
同じ夜、威遠、宝筏などの艦艇も相次いで重創を受け、または沈没した。港内の問題は、もはや抽象的な損傷報告ではなかった。夜ごとに、艦名が名簿から消されうるということだった。定遠は座礁し、来遠は沈み、威遠は損傷し、宝筏は覆滅した。北洋艦隊の名は、一隻ずつ損害報告の短い文になった。
短い文ほど冷たい。
人がどう死んだか、船がどう傾いたかを説明しない。ただ結末だけを紙へ打ちつける。
**傷兵**
第二撃の後、船上ではさらに多くの傷兵が後ろへ運ばれた。
人を運ぶのが最も難しい。前艙も乱れ、後艙も乱れている。船艙には煤煙、蒸気、漏水後の鉄錆の匂いがあった。顔を黒くされた者、耳から血を流す者、飛び散った破片で胸腹を裂かれ、叫ぶことすらできない者。軍医は傷口を押さえながら、包帯と油布を探せと怒鳴った。
若い兵が舷梯に座り込み、手を震わせていた。
そばの者が聞いた。
「当たったのか」
彼は首を振った。
「分からない」
夜襲の残酷さはここにある。
暗闇で傷を受けると、人はしばしば自分がどこを傷つけたのか先に分からない。ただ全身が冷える、立てないと知る。灯火が照らして初めて、衣が血で濡れていることに気づく。多くの場合、恐怖の方が傷口より先に口を開く。恐怖が口を開けば、船全体の空気が変わる。
老水兵が低く罵った。
「砲台を失って、海でもやられるのか」
誰も答えなかった。
あまりにも真実に近かった。
砲台易手後、岸上火力は艦隊の近側を守るどころか、逆に圧力になった。港内夜襲は新しい消耗になった。日本軍は一夜で北洋を全て沈める必要はない。一度ごとに何かを残せばよい。破口、火災、士気の欠損、傷兵、降伏の噂。
**王平**
二月七日、最悪の知らせは砲声がもたらしたのではなかった。
味方がもたらした。
魚雷艇隊が逃げ始めた。
王平は魚雷艇隊を率いて集団で港を出た。左一、左二、左三、右一、右二、右三、福龍、捷順などの艇が相次いで威海衛を離れた。突囲だと言う者がいた。兵力保存だと言う者もいた。機を見て再戦するのだと言う者もいた。だが劉公島の者が低い艇影の離れていくのを見た時、心では知っていた。これは統一命令による出撃ではない。
むしろ潰散だった。
魚雷艇は本来、北洋の夜戦に残るべき利器だった。敵が魚雷艇で定遠を咬み、来遠を咬んだ時、北洋自身の魚雷艇は最も必要な時に錨地を離れた。それらは水線に貼りついて外へ走り、破れた網から抜ける黒い魚のようだった。岸上砲台、港内艦船、外海の日本艦が、この光景を見ていた。
甲板で罵る者がいた。
黙る者がいた。
ただ聞く者もいた。
「彼らは戻るのか」
誰も答えなかった。
王平の離脱は、北洋艦隊最後の夜間反撃の希望も連れ去った。後に多くの艇は日本軍に捕獲され、あるいは座礁し、壊れ、作戦意義を失った。逃げ出したものは、再集結できる刃ではなく、軍心崩壊が水面に描いた形だった。
**降伏の噂**
魚雷の夜の後、最初に広がったのは損害清冊ではなく、噂だった。
定遠はもう動けないという者がいた。
来遠は沈んだという者がいた。
魚雷艇隊は逃げたという者がいた。
日本軍は次に劉公島へ直接来るという者がいた。
北京ではすでに戦守責任を問う準備をしているという者もいた。
噂は実情より速く港内を走る。実情は一つずつ確認しなければならない。噂は一人が先に信じれば、二人目が震える。艦隊は連敗で疲れていた。そこへ夜襲と逃走が重なり、士気は何度も掘られた煤倉のようになった。
丁汝昌は夜明け後、各艦を回った。
甲板を歩く足下には、薄い黒灰があった。夜の砲口から降ったものだ。何人かの管帯が低声で報告し、魚雷艇は退いたが損害はなお清査中だと言った。丁汝昌はすぐ艦名を問わず、まず傷兵を見た。
彼は知っていた。本当の損失はすぐ数えられない。
一艘が中雷すれば、船上の者は二艘目、三艘目もそうなるのではないかと考える。夜襲を防げないと聞けば、港があとどれだけ守れるか考える。魚雷艇隊が去れば、さらに考える。夜に反撃すべき者まで去ったなら、なお耐える意味は何か。
この問いは戦場で最も危険だった。
敵が問うのではない。
自分で自分に問うからである。
**清晨**
夜明け後、劉公島外海には爆発で乱れた波が残っていた。
数か所の水面には油が浮かび、灰黒い傷痕のようだった。港内では船がゆっくり排水し、船が応急に塞ぎ、船が負傷者を岸へ送っていた。島上の砲台、望楼、信号杆はなお立っている。だが誰もが知っていた。二月五日から七日の夜々は、単なる夜襲ではない。北洋水師へ告げていた。もうこの港には、本当の安寧の時間はない。
参謀が損害を丁汝昌へ報じた。
「定遠中雷。座礁して水上砲台となりました」
「提督旗は鎮遠へ移りました」
「来遠沈没」
「威遠、宝筏など損傷または沈没」
「王平が魚雷艇隊を率いて出逃」
どの一言も短かった。
釘のように短い。
釘が増えるほど、船は以前のように整然と港内へ停泊できなくなる。修れるものは修る。修れないものは曳く。曳けないものは置くしかない。だが日本軍は修理を待たない。魚雷の夜の意味はここにある。すぐ沈めるとは限らない。しかし毎日、少しずつ沈んでいるようにさせる。
丁汝昌は聞き終え、長く海を見た。
「まだ動ける船を、先に備えよ」
参謀は戸惑った。
「どこへ動かすのですか」
「先に備えよ」
彼はそれ以上言わなかった。
この時点で突囲を語るには早く、死守を語るには空しかった。北洋水師は二つの言葉の間に挟まれていた。二つの石に挟まれるように。魚雷の夜は、その隙間をさらに狭くしただけだった。
**史料挿入:魚雷夜襲摘要(作中資料)**
> 時間:1895年2月5日から7日。
>
> 二月五日:日本軍魚雷艇が威海衛錨地を夜襲し、定遠が中雷して重創を受けた。定遠は座礁し、水上砲台となった。提督旗はのち鎮遠へ移された。
>
> 二月六日:日本軍は夜襲を続け、来遠が沈没し、威遠、宝筏などの艦艇が損傷または沈没した。日本軍は夜色、霧、清軍探照灯の余光を利用して艦位を判断し、錨地へ貼りついて魚雷攻撃を行った。
>
> 二月七日:王平は北洋魚雷艇隊を率いて集団出逃した。左一、左二、左三、右一、右二、右三、福龍、捷順などの艇が威海衛を離れ、北洋の夜間反撃能力と軍心に大きな打撃を与えた。
>
> 背景:丁汝昌はこの時すでに戴罪の身であり、朝廷の追責圧力を受けながら艦隊の抵抗を維持していた。伊東祐亨の降伏勧告がフリーマントルを経て渡された後、降伏と死守の圧力は同時に劉公島へ向かった。
>
> 意義:砲台易手、岸砲の反撃、魚雷夜襲、魚雷艇隊出逃が重なり、北洋艦隊は「港内に困守する」段階から、「持続的に解体される」段階へ入った。
**海面の空洞**
夜に入っても、昨夜の影はすぐには戻らなかった。
だが全員が知っていた。それらは来られると証明したのだ。岸砲が日本軍の手にある限り、威海衛外海の封鎖が破れない限り、魚雷艇は霧に乗じ、闇に乗じ、人の疲れに乗じて、何度でも錨地の静けさを裂ける。夜襲は毎回成功する必要はない。毎回、人に完全には眠れないと思わせればよい。
北洋はかつて、艦隊を保存し、時機を待って決戦することを重んじた。
いまや、待つこと自体が消耗になっていた。
ここまで来ると、威海衛港内の灯は一つ一つ、人に決断を迫っているようだった。なお耐えるのか。それとも、すでにゆっくり失血する局に引きずり込まれたと認めるのか。
そして劉公島の暗がりで、新しい水紋がまたゆっくり押し寄せた。
この時、もう誰もそれを巡邏船とは思わなかった。




