第十五話 空の朝
三樽は、朝課の鐘より先に空になった。
空の箍が石に残り、水滴の跡だけが靴に踏まれている。踏んだ側は名を言わない。言わない喉が、印のない配給の最後の一口をすでに終えている。終わった量は百八十リットル。常用の四分の一にも届かない。届かない最後を、帳面は正確に書いた。搬入なし。残ゼロ。行き先は厨房裏と男子棟。印なし。
セレナが紙を膝で乾かした。乾いた字が、別紙の外の物証になる。物証を、リリアは門の上で受け取った。受け取った金髪は結い直してある。結い直した Sweat が、朝の旗を一日分先に消耗している。
「次の車が来る」キリカが柱の陰で言った。言う声は小さい。「空のあとに来る車は、見本ではない。見本のあとに来る函は、本印か、本印の下書きだ。下書きに、まだ名はない。名の代わりに、鎖のあと、と書く」
鎖のあと。評議会が聞いた一行が、門の敷居で実物を待つ。待つあいだに、山の風が甘い臭いを少しだけ運んだ。少し、が長い眠りの呼吸だ。呼吸に、見張り四人分の鉄が混ざる。混ざった風を、アリアが鼻で嫌って戻ってきた。
「段が揃いかけている。昨日の上に、もう一段。揃った石の前で、鎖の金具を磨いている。磨くだけで、外してはいない。外す手は、平原の合図を待っている」
合図。紙の本印より速い完成が、実物の予約になっている。予約を、トオルは六袋の残と並べた。並べた答えは、山へは出られない、だ。出られないあいだに、門で止められるのは車だけだ。
車輪は、鐘の直後に聞こえた。
聞こえた車は一両ではない。二両。前の荷台に樽が十二。後ろの荷台に函が三つ。三つの蠟が、乾いた風の中で新しい。新しい蠟を、キリカが焼印の目で見た。
「書記局の封が二つ。工事局の印が一つ。水の隣に、段の完成報告がある。完成報告は、鎖のあと、の合図になる」
合図の車を、リリアの細身が敷居で止めた。止めた位置は、十一話と同じだ。同じ旗が、今度は二両分の重さを受ける。受ける背中の Sweat が、朝日で光る。光るものを、飲む側が見る。見る廊下は、昨日まで印のない水で生き延びた側だ。生き延びた側が、止める旗を遠巻きに疑う。
「荷の種別を言え」
御者は二人。前の男が樽を撫でた。
「救済水。空のあとに間に合わせる。十二樽」
「函は」
「完成の報告と、予備の下書き。下書きは、本印ではない。本印は、鎖のあと」
同じ文面だ。同じ文面を、クラッドが内から翻訳しに来る。香水は薄い。薄い口が、すでに渇きを知っている。
「止めるな。止めた旗が、空の責任を全部背負う。背負った責任を、十二樽が覆う。覆う水を拒めば、廊下は団長を敵にする」
「拒んでいない」セレナが左から言った。「種別が割れている。水は神殿の桶へ移せる。函は騎士の門で開く。開いた紙を、本契約にしない」
神官正が遅れて来た。遅れた足が、空の井戸の殻を一度見てから門を見る。見た殻を、彼は試しの終わりと呼ぶ。
「天が黙ったあとに、人の水を拒むな。拒む口は、帳面を書いた側と同じ不浄だ」
帳面。別紙の外の物証が、不浄の名を付けられる。付けられた紙を、リリアは門の上で開かせた。開かせた手は砂で粗い。粗い指が、三つの函のうち報告だけを先に取る。取った紙に、石の段が揃った、とある。揃った日は本日。本日の下に、鎖の金具を外す準備が整った、と続く。準備は、外した、ではない。ではない一行が、今日の勝ちの最後の幅だった。
「水は十二のうち二だけ中庭へ入れる」リリアが言った。「二は測る。測った水は、空を一日も延ばさない。十は門の外。函の下書きは預かり。預かりは本印ではない。本印は、鎖が外れたあとに読め」
二。百二十リットル。指にして四本弱。四本は、底を一瞬濡らす。濡らした顔を、配給の証拠にするには足り、円筒を戻すには足りない。足りない量を、トオルは口に出さなかった。出さない代わりに、ミレイユが別桶で計量を始めた。
クラッドの頬が一度硬くなる。硬くなった顔は、右隣を一日延ばされた男の顔だ。延ばされた隣で、彼は函の残りを本契約へ押し上げようとする。押し上げる語を、防衛卿が扉の内側から短く切った。
「下書きは預かりだ。預かりを本印にする印は、今日は出さない。出さないあいだ、鎖は別紙のまま」
出さない。父の空白が、二度目の車を本契約にしない。しない空白の下で、十二樽のうち十が門の外に残る。残る水は、印のない喉の二日目を予約する。予約の向こうで、山の鎖はまだ外れていない。外れていないことが、完成報告より遅いだけの勝ちだった。
キリカが柱の陰で本数を足した。足した声が、初めて名前の手前まで開いて、閉じた。
「完成は紙になった。紙になった完成は、外す側の合図だ。合図のあとに来るのは、水ではない。水の隣に、旗を見に来る目が来る」
目。余白の命令が、門まで届きかけている。届きかけた朝に、中庭の二樽が底を指四本濡らした。濡らした水は、計量のあとで生徒の喉へ消える。消える水を、帳面は正確に書いた。搬入二。印なし。円筒は戻らず。
リリアが影でトオルを止めた。止めた距離は、剣の届く長さだ。
「袋は六のままだ。六では山へは出られない。出られないあいだに、外す側が来る。来る前に、帳面と下書きを同じ棚へ置け。同じ棚が、本印のない証拠になる」
証拠。破片と見本と帳面と下書きが、開かない引き出しの外で増え続けている。増え続けた紙を、誰もまだ魔王とは呼ばない。呼ばない沈黙が、第十五の朝の全文だった。
――第十五話 了――




