第十話 空の顔
評議会まで、四日あった。
四日は、印章のない破片が引き出しで眠るのに足りる長さだ。井戸には足りない。足りないことを、炭の線が先に知っていた。帰還の朝に開いていたあいだは、出る前の指一本半を全部吐いたあとだった。吐いたあとの水面は、まだ円筒の中ほどにいるように見えた。見えたのは一日だけだ。
二日目の夕、厨房の桶がまた二つ、夜間の裏口を出た。表向きは病人用。病人用の桶は、ミレイユの別桶とは印が違う。印の違う水は、空に見せるための拍車だ。拍車が戻ると、涵養はもう指を返さない。返す経路は、暗渠の上層で再び焼いた粘土になっている。
トオルは馬小屋の影から、見るなと言われた縁を見た。見た水面は、炭より下にある。下にある幅を指で数えると、勝ちの帳簿はゼロだ。ゼロの下で、さらに沈む。沈みは空ではない。空の顔には、あと二日で届く。
キリカが藁の上で杭を数えていた。数える声は小さい。小さい声が、平原までの本数を口の中で切る。
「山の仮堰は、明朝には直る。直した板は、楔の跡を残さない。残さない改修は、妨害の証拠にならない」
「学院の井戸は」
「こっちのほうが速い。速い理由は、夜桶だ。山は営を守る。学院は空に見せる。空に見せた側が、配給を置く」
配給局の論理を、測量奴は現場の言葉で持っていた。持っている女を、リリアは馬小屋に置いたまま、中庭では旗のまま走っている。走る胴衣が Sweat で貼り、振り上げた木剣の下で脇が開く。開いたものを、階段の男子が見る。見ているあいだ、水位は席次の外で死にかける。
三日目、神官正が井戸の縁で手を合わせた。合わせた手の下で、水面は縁から指五本も残っていない。残っていない水を、彼は加護の最後と呼んだ。
「試しが深い。深い試しの前で、人の溝を疑うな。疑う口が、天を怒らせた」
怒らせた、の主語は名指しされない。されない主語の位置に、雑役と副長と夜間の暗渠が順番に置かれる。置かれた順番を、クラッドが香油の匂いのまま拾った。
「評議会の前日に、黒運河の配給車が門へ着く。着く水は商品ではない。救済だ。救済を拒めば、空の井戸の責任は騎士団に戻る」
救済。返すな、配れ。余白の文字が、男子一位の口で学院の正門に立つ。立つ車を、リリアは訓練を止めずに見た。見た目は女王蜂のまま、数字を読む目だけが馬小屋のほうを向く。
セレナが書記室の番号を確認して戻った。黒髪は結い直してあり、暗渠の泥はもうない。ないことが、証拠の寿命だ。
「預かりは改修屑のまま。別紙は未開封。開封の印は、防衛卿の引き出しにある。引き出しは、配給車のあとで開く予定になっている」
あとで。あとでは、円筒が空の顔をしたあとだ。あとの机は、空を神罰と呼び、配給を慈悲と呼ぶ。呼んだ紙に、焼印は載らない。載らない焼印を、破片は引き出しの底で待っている。
四日目の夜、水面が縁の湿りを離れた。
離れたあとに残るのは、底の白い殻だ。監視小屋の井戸と同じ殻。同じ殻を、学院の中庭が持つ。持つことを、授業ベルは知らない。知らない女子たちが、翌朝も走る予定でいる。走る予定の石の下で、暗渠は息をしていない。
トオルは空の円筒を、剣の届く距離でリリアに見せた。見せるために、彼女が厩へ来た。来た金髪は解いている。解いた Sweat が夜気で白く、頂点の形が旗の仕事を一日終えた顔になっている。
「空の顔です。評議会の朝には、底が見えます。底が見えた井戸に、配給車が水を置きます。置いた水は、返さない。配る」
「名前は」
「まだ紙の外には出ていません。キリカは本数だけ言った。本数の先に机がある。机の男は、空の顔を待っている」
リリアは井戸を見なかった。見ないことで、旗が空の責任を背負わない。背負わない技術は、父の空白に似ている。似ていることを、彼女は嫌いだと言ったときの声で認めた。
「嫌いだは残す。残したまま、明日の車を門で止める理由が要る。理由が残党なら、所管に残る。残党ではないと書いた瞬間、手続きが走る」
「手続きより先に、底が見えます」
「見えた底を、私は斬れない。斬れない相手に、旗を立てると装飾になる。装飾になる前に、キリカの本数を別紙の外へ出せ。出す人間はセレナだ。お前の名は、まだ載せるな」
載せるな。席次を壊さないための、空の朝の命令だ。命令のあと、アリアが赤髪の Sweat のまま桶を一つ蹴った。蹴った桶は空だ。空の桶が、夜間の裏口に置いてあった。
「病人用、じゃない。印が違う。違う印の水を、明日は正門から入れる気だ」
ミレイユが空の桶を嗅いだ。嗅いだ顔が、医の顔になる。
「きれいな水だ。きれいな水を、空の井戸の隣に置く。置いた瞬間、手順より配給が聖性になる」
聖性の移動。祈りが届かない夜に、桶が届く。届く桶を、黒運河は救済と呼ぶ。呼ぶ側の机は平原にある。
平原の机が、学院の空の顔を日程どおり受け取ろうとしている。
キリカが藁から顔を上げた。上げた目は、杭を数える目のまま、初めて名前の手前まで口を開けた。開けて、閉じた。閉じた理由は、呼ぶな、だ。
「空の顔は条件の一つ。一つだけでは、名前は来ない。鎖が外れるか、保護の紙が門に着くか。着く紙は、配給車の荷台にあるかもしれない。あるなら、明日の車は水だけではない」
水だけではない車。救済の顔をした手続き。手続きが紙になるとき、残党確認は終わる。終わる名目の最後の夜に、学院の井戸は底の白い殻を見せた。見せた殻を、誰も神とは呼ばなかった。呼ばない沈黙が、第十の夜の全文だった。
東が白い。白い縁に、水面はない。ない水面の向こうで、門の道に車輪の音が近づいている。近づく音は、二十袋の行軍より重い。重い車が、配る権利を学院の敷居まで運んでくる。
――第十話 了――




