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第八話 残党という名目

出撃の名目は、幼体の残党確認だった。


残党なら騎士団の所管だ。所管の外へ踏み出せば戦争の手続きが走る。手続きより先に井戸が死ぬ。死ぬ前に山へ出るための、剣の翻訳。翻訳を、防衛卿は止めなかった。止めない空白が、昨夜の「いちばん長い刃」だ。クラッドは監督の同席を学院側に残した。残した男は、山へは来ない。来ない男の香水が、門まで付いてくる。


袋は二十。十二リットルが二十で二百四十。八人と馬三頭。一口では持たない。五リットルでも往復三日は無理だ。無理を、トオルは門前で短く置いた。置く位置は、剣の届く距離。


「三十六時間です。戦えばそれ以下。堰を壊す人数ではない。見る、測る、補給に触れる。それ以上は袋が先に死にます」


リリアは頷かなかった。頷かない代わりに、先頭の位置を取った。白い行軍胴衣は新しい。新しくても、出た瞬間から Sweat が背中を貼り始める。貼った背中を、門の内側の生徒たちが見る。見る世界は、残党確認を凱旋の予告に翻訳する。翻訳を、クイーンビーは否定しない。否定すると旗が消える。消えない旗の下で、本体は不足の行軍になる。


セレナが左、アリアが先触れ、ミレイユが熱と気体の箱。トオルは轡。家なしの位置は変わらない。変わるのは、袋の数が十八から二十になったことだけだ。二袋の増分は、昨夜の指一本半が貸した分に見える。見えるだけで、机は受け取っていない。


旧街道は、前回より短い嘘をつかなくなっていた。轍の消えた位置に、新しい車輪の跡。跡の幅が揃っている。揃った幅は、杭の間隔に似ている。似ている道を、歩兵は一日二十キロが上限だ。上限を乾いた風が削る。削られた列が、半日で小屋の白い井戸へ着く。井戸は、前回より白い。白さは水ではない。底の殻だ。


「残党は、ここにいない」アリアが屋根から降りて言った。赤髪が Sweat で一色濃い。濃い匂いが、枯れた井戸の甘さを殴る。「いるのは人の足跡。今朝の粘土と同じ黒」


リリアは細身を抜かない。抜かないことが、名目を守る。守った名目の下で、真っ直ぐな線が山へ伸びている。線の先で、霧の切れ方が前回より広い。広い切れ目に、テントが増えている。増えたテントの横に、石の列。列はまだ低い。低い石の前に、枝と粘土の壁。仮の堰だ。仮は半日でも立つ。立った仮が、残った流れをすでに折っている。


トオルは数えた。働く背中が二十。槍を持たない男が十六。持つ男が六。馬が四。一日三百リットルは飲む。飲む量は、学院の井戸より小さい。小さい営みを、大きい線が支えている。支えている線の下手で、枯湖の縁がさらに白い。


「壊せるか」リリアが聞いた。聞く声は、中庭の命令より低い。


「人数では壊せない。火を付けても石は残る。残る石の前に、仮堰だけなら夜に触れる。触れると、向こうの三十六時間も袋で決まる」


「こちらの袋と同じ論理か」


「同じです。水を止める者も、水で動いている」


セレナが地図を膝に広げた。黒髪が頰に張り、暗渠の泥はもう落ちている。落ちたあとに残る正確さが、テントの配置を点にする。点の奥に、水準器の机。机の横に、角のない男はいない。いない代わりに、旗のない布がある。布に焼印。黒運河。黒運河の奥に、まだ呼べない名前の空白。


日が傾く前に、先触れが戻ってきた。戻ってきたのはアリアだけではなかった。後ろに、一人。年は学院の三年に見える。服は測量奴の切れ端。手足が細い。細いのに、目だけが杭を数える目をしている。キリカ――後から名前が付く少女は、いま名を名乗らない。名乗らないまま、アリアの槍先で止まっている。


「殺さないで。残党じゃない。残党の側を測らされてた」声が低い。「学院の娘が来た。旗が来た、と下で言ってる。旗を見ろ、水は見るな、が指示」


リリアの Sweat が、その一句で別の熱になる。余白の文字が、山の口から再生する。学院の娘は旗にせよ。旗は、見られた瞬間から機能する。機能している自分を、彼女は知っている。知ったうえで、先頭に立ってきた。立ってきた距離が、いま計測の対象になっている。


「名前」セレナが聞いた。


「いまは言わない。言うと、手の側が呼ぶ。呼ぶなと言われている名前を、先に口にした奴は消される」少女がトオルの袋を見た。見る位置は剣ではない。残量だ。「二十袋。一日半。堰を壊しに来た人数じゃない。見るだけなら、日が落ちてから右の谷。右は見張りが薄い。薄い理由は、水がもう左へ折れているから。折れた側を守れば足りる、と彼らは思ってる」


ミレイユが少女の唇を見た。渇いている。渇きに、一滴だけ落とした。一滴で目が人間に戻る。戻った目が、リリアの張りついた胴衣を見ない。見ないことが、この子の礼儀だった。礼儀の中身は恐怖だ。恐怖を知っている少女を、トオルは帝国の内側の穴だと思った。穴は、後で名前になる。


夜。


袋から一口。一口は儀式に近い。儀式のあと、列は右の谷へ落ちる。落ちるあいだ、リリアの金髪が月を吸わないよう布で巻かれる。巻いても Sweat は匂う。匂う頂点を、風下へ置く。置く配置は、見られるための配置の逆だ。逆を、クイーンビーは下手にやる。下手な夜が、三十六時間の本体になる。


仮堰は、枝の傾斜に土を盛っただけだった。だけ、が流れを折る。折れた水が、焼いた床の上を真っ直ぐに走る。真っ直ぐが、神の川ではない。人の川だ。人の川の門に、木の板。板を一人で上げられる。上げると、仮の流れが少し戻る。戻しても石の基礎は残る。残る基礎を、八人は壊せない。壊せない代わりに、板を楔で噛ませる。噛んだ板は、明朝まで半分しか開かない。半分は、営みの三百リットルを削る。削られた営みは、袋と同じ論理で遅れる。遅れた一日が、学院の井戸の再充填と競う。


見張りが一人、咳をした。咳の方向へ、セレナが音を置かない。置かない女の Sweat だけが近い。近い距離で、アリアが石を別の位置へ落とす。落とした音に男が向く。向いた隙に、楔が板へ入る。入った仕事は、英雄譚にならない。ならない仕事を、トオルは杭の土と同じ袋へ入れた。


戻る途中で、枯湖の縁が動いた。


動きは杭ではない。尾でもない。尾にしては長い。長いものが、石の基礎の向こうで眠っている。眠りの呼吸が、甘い臭いを吐く。吐く量は幼体ではない。幼体の予約が、すでに肉になっている。肉はまだ放たれない。放つのは堰の完成後。完成を一日遅らせた楔が、眠りの予約をどれだけずらすか。ずらしは、袋ほど正確ではない。


少女が後ろから言った。


「あれはまだ鎖を付けてる。鎖の先は、水位を一人で決める男の机。机はここにない。平原のほう。平原の机が、この山を手と呼んでる」


手。黒運河はその手。手が角を生やす前に、楔がある。楔の限度は三十六時間だ。時間が尽きる前に、列は白い井戸を通過して学院へ戻らねばならない。戻らねば、袋が先に人を斬る。


リリアが足を止めた。止めた背中で、夜間の Sweat が一本落ちる。落ちる軌跡を、トオルは見ないように見てしまった。彼女は振り返らずに言った。


「残党は確認した。確認の中身は、残党ではない。名目は守る。守った名目で、父上の空白をもう一度使う。次は――」


次は、机が番号を起こすより速く、石の基礎が伸びる話だ。伸びる前に、鎖の付いた長い眠りがある。眠りを斬るか、鎖の先の机を測るか。測る男を、彼女はまだ雑役と呼ぶ。呼んだまま、剣の届く距離を指定する。


「先を歩くなら、袋の死ぬ前に歩け。袋が死んだ正解は、正解ではない」


トオルは二十袋の減りを掌で測った。測った減りが、夜明けの門までの距離だった。距離の向こうで、学院の暗渠はまた詰まり、評議会はまだ来週の予定のまま空白を守っている。空白より速いのは、仮堰の枝と、鎖の付いた長い呼吸だ。


列が山を下りる。下りながら、名乗らない少女が一番後ろで杭の数を口の中で続けていた。数える女は、旗にも雑役にもなっていない。なっていない位置が、第二部の手前の穴だった。


――第八話 了――

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