肌色の水たまり
〇 ● 〇
ばぢゅ、と上の方で何かが潰れる音がした。隣の堀田が息を呑む。
ずんぐりむっくりした身体を咄嗟に引き寄せ、為成は頭上を振り仰いだ。
傍らの巨木。馬鹿みたいに背の高い幹に、蟷螂が逆さまにへばりついていた。八尺はある巨体は林に紛れる薄茶色で、大太刀のような二つの鎌で器用に蠅を捕まえている。透き通るような冬の青空から降り落ちる真っ白い太陽の光が、蟷螂を照らしていた。
くっついた顔は女性のもの。身体に対して小さなそれが口を開けて、老婆の顔をした蠅の身体を食いちぎった。ばぢゅ、とまた濡れた音。ぱたぱたと沼の水が落ちてくる。
為成は、堀田を抱えるようにして水がかからない位置まで共に下がった。いくら隠形術をかけているとはいえ、音までは隠せない。苔や根で足を滑らせたら、終わりだ。
慌てず、しかし急いで、足を後ろへと動かす。踵の下で、湿った苔が小さく鳴いた。
「――……!」
ぎゅるっ、と虫じみた動きで女性の顔が動いた。くき、くき、と首が左右に動いて、為成達のいる辺りを、虚ろな視線が這う。
端麗な顔の鼻から下が、沼の水でべちゃべちゃに汚れていた。蕾のような口から、蠅の足が突き出している。面布の奥で、為成は呼吸を止めた。右腕にしがみ付く堀田が激しく震え始めたので、左腕を伸ばして均衡を崩さないように支える。
気づいてくれるな、と声に出さず願う。気づくな。ここには何もいない。気のせいだ。ほら、何も見えないだろう。
女の口が忙しなく動いて、足を少しずつ飲み込んでいく。その動きがまさに本物の蟷螂のようで、我知らず背中に冷や汗が滲んだ。
しばしの間を置いて。蟷螂は、ふいと視線を為成達から外した。何もいない、と判断したようだ。
食事に戻る蟷螂から視線を外さないまま、為成は堀田を連れて、そろそろと遠ざかった。
巾木達の遺品を探して数日が経った。
その間、為成は一つ分かったことがある。
オオヌマさんの内部に存在する異形は、生の気配が無い。
人であれ虫であれ、生きている以上は気配というものを発している。だから、道を歩いていても「あ、そこの草むらに何かいるな」と何となく為成は分かる。
しかしオオヌマさんの中を闊歩する人面蛙や虫達には、それが無い。あれほど巨大な身体で移動しているのだから、近づかれれば、あるいは遠くからでも、すぐに気づきそうなものなのに。
視界に入るまで、それが近づいてきていると気づかない。
いや、物音はするのだ。葉擦れであったり、根を踏みしだく音であったり、あるいは苔の上を滑る音であったり。
しかしどういうわけか為成はついつい、それらをただの物音だと片付けてしまう。
意識的に考えるようにすれば、違和感に気づく。だがそうでなければ異形が立てる物音は意識の表層を上滑りして、ただの雑音として耳が片付けてしまうのだ。
「この辺りには……何もいないようですね」
蟷螂が視界から消えた後、為成は注意深く周囲を観察する。
視界に入る場所に、蠢くものはない。耳をすませてみるが、何も聞こえない。隠形術を解かないまま、少しだけ警戒を緩めると、隣の堀田がへなへなとその場に尻餅をついた。
「大丈夫ですか、堀田さん」
「大丈夫と言えれば格好も付くが、あえて言おう。大丈夫じゃない。見てくれ、この震えを通り越して痙攣している足を」
為成は言われた通り、堀田の足を見る。黒子装束の上からでも分かるほど、足が激しく痙攣していた。もはや何らかの病にかかったように見える。
「あの蟷螂に見られた時は、正直漏らすかと思ったぞ……というか、少し……」
だいぶ可哀想なことを言っている。
「……少し休憩しましょうか? 俺が見張っているので」
思わず、温かい言葉をかける為成である。
朝から本殿を出て以降、休憩無しで林を歩いている。さっきのように、異形に見つかりそうになったのも一度や二度ではない。
自分はまだ大丈夫だが、堀田のか弱い精神はそろそろ限界を迎えそうだ。というか、もう迎えている。そう思って提案したのだが、堀田は面布を揺らして首を横に振った。
「いいや、大丈夫だ。目的地は、ここから近い。行こう」
言いながら震える足で立ち上がろうとするので、為成は手を貸して堀田を手伝った。
「こんな恐ろしく、汚い場所から、早く彼らを助けてやらねばな」
立ち上がった堀田の肩には、子どもの拳ほどの大きさの栗鼠が乗っていた。目は無く、太い尾の代わりに尻から白い菫が咲いている。堀田の肩を踏みしめて立ち、宙を見上げて鼻をひくつかせている。祓い屋と契約した怪異……式だ。
堀田の従えるこれは強い怪異ではないが、人の名前から匂いを嗅ぎ取る能力を持っている。それを活かして巾木達の名前から匂いを覚えさせ、オオヌマさんの中に散らばった彼女達の遺品を探してもらっていた。
堀田や為成も人探しの術を使えるが、異形から身を守る黒子の術と隠形術を同時に展開している上、周囲に気を張る必要がある。その状態で更に術を使うのは難しい。適材適所だ。
「佐野同心の匂いは近いようだ、急ごう」
鼻をひくつかせて顔を左に向ける式と、その頭を指で撫でる堀田を見て、為成は「分かりました」と頷いた。
この与力は臆病ですぐ気絶する癖に、仲間に関することになると、こと頑固になる。それを好ましいと思いながらも、為成は釘を刺しておいた。
「ですが、回収したら小休止しましょうね、堀田さん。でないと俺達が参っちまう。こういう時こそ落ち着けと言ってくれたのは、堀田さんですからね」
「分かっているとも。……笹山、あそこの岩の向こうのようだ」
黒子をまとった堀田が、為成の右腕を強く掴みながら言う。
見れば、木を二つ三つ挟んだ奥の方に、人二人が身を隠すには十分な大岩があった。隣の木の根が半分ほど岩を覆っていて、蛸が足を伸ばして獲物を捕らえようとしている風にも見える。
木の根が石を掴むように生えているのは時々見かけるが、あれほど大きいものに根が張っているいるのは初めて見た。
「さっきは木の幹に岩が飲み込まれてたし、本当に滅茶苦茶だな……」
「オオヌマさん、という特異な環境にあるからかもしれないな。あの連中も、普通の虫や蛙とは生態が違うようだし。大きさがほとんど同じだからか、蟻が蛙に勝っていただろう。そんな感じで、現世とは色々違うのかもしれないぞ」
「ああ、成程」
木の幹に手をつき、大蛇ほどもある根を跨ぎ越しながら為成は相槌を打つ。
跨いで、地面に着けた足の裏に、ぐぢゅる、と粘った感触が伝わった。面布の下で顔をしかめ、為成は目線を下に向ける。
根の脇に斜めに走った傷から地面に向かって、細い茸が無数に生えていた。
ひょろりと長い茎が髪の毛のようにだらりと垂れ、苔の上でとぐろを巻いている。為成が踏んだのはそれで、青黒い傘が潰れて苔と混じり合い、為成の足の形の中で奇怪な模様を生み出していた。
「ど、どうしたのだね、笹山。なにか怖いのがいたか。さっきの蟷螂が先回りしていたか? それとも、あの岩が実は蝸牛だったか? う、動き始めたか? 顔、顔は?」
右腕を痛いくらいに握りしめた堀田が、びくびくと身体を震わせながら矢継ぎ早に尋ねてくる。
根を跨ぐ堀田に手を貸しながら、為成はいいえと首を横に振った。
「大丈夫ですよ、堀田さん。ちょっと茸を踏んでしまっただけです」
「茸か。茸は危ない。毒を持っているぞ。どうだ、足裏が焼けるように痛んだり、痒くなったりはあるか? 眩暈や頭痛は?」
「大丈夫ですって。足裏まで黒子の術で覆われてるんですから、毒があっても肌には触りませんよ」
「そ、そうだな。しかしな笹山、『もしも』は大事だぞ。ここは普通の環境ではないのだから、『もしこんなことが起こったら』を考えていなければ。私は日常生活においても、常にそれを考えている」
それは、だいぶ疲れる生き方ではなかろうか。
うっかりそう思ったが、口に出して先輩との軋轢をわざわざ生む必要も無いので、為成は無言を貫いた。
幸い、異形に遭うことなく岩まで辿り着く。後は岩の後ろを覗く段階になって、為成は己にびったりとくっついた堀田を見下ろした。
「堀田さん、心の準備はできましたか?」
「い、今、深呼吸をする。少し待ってくれ」
すーはすーはと深呼吸をした堀田は、やがて覚悟を決めたように頷いた。
「よし、いいぞ」
宣言を聞いて、為成は堀田を連れてそっと岩の後ろに回り込む。
一番に目に飛び込んできたのは、肌色。
塗料の塊を岩に向かって投げつけたかのように、ごつごつとした岩肌に肌色の液体がこびりついている。時間が経って、岩からある程度は伝い落ちて地面に溜まったのだろう。苔の上には、どろりとした肌色の水たまりが広がり、枝から落ちた葉が真ん中に浮いていた。
「――……!」
堀田が息を呑み、面布の上から顔を覆う。
じっとりと背中に滲んだ汗に気づかないふりをして、為成はそろりと肌色の水たまり周辺に視線を向けた。人が二、三人は隠れることができる岩のちょうど真ん中に、肌色がべったりと張り付いている。その右側に、陽光を反射して金属らしきものが光った。
「……十手ですね」
手を伸ばし、拾い上げる。使い込まれた握りの革には、佐野、と名が刻まれていた。
肩でゆっくり息をして、苔の上に溜まる肌色を見下ろす。――この、肌色が、かつて佐野と呼ばれていた同心の、末路の姿だ。
「後は村上さんと……巾木か」
ここ数日で、為成達は実に五人もの同心達の遺品を見つけている。十手であったり、荷物であったり。遺品は様々だったが、いくつかの遺品の傍にはこのように、肌色の水たまりが存在していた。
最初は、何なのか分からなかった。だが、すぐに脳裏に閃いた。
資料には、沼の水に少しでも触れた者は身体が融け、水たまりのようになると書かれていた。――眼前の水たまりがかつて仲間であったことを理解した堀田は、その場で吐いた。
そうして、今日も。同心の成れの果てを見つけてしまった。
遺品は着実に見つけている。だが見つける度に胸に降り積もるのは、見つかって良かったという安堵ではなく、どうしようも無い無力感だ。過去、怪異に殺され、無残な姿になった同僚は幾人もいる。その度に為成の胸を焦がすのは、殺した怪異への怒りだ。
よくも、と。殺してやる、と。その怒りは為成に力を与え、修祓の一助となっていた。
しかし、オオヌマさんに対しては怒りが無い。
あるのは、いくら霊力を研ぎ澄ませても、どれほど武力を磨いても。水が少し触れただけで融けて、遺体も何も残らずただ、肌色の水たまりとなる、ちっぽけな人の身への諦念。
大自然の驚異に晒され、無力を嘆く様にそれはよく似ている。
大雨で増水した川に飲み込まれたとして、大雨や川を心底憎み、殺してやりたいとは思わない。怒りを覚えながらも、どこか諦めてしまう。
力が抜けて、頭が空っぽになる、あの感覚だ。
……残り二人の遺品と、水たまりを見つけたとして、はたして平常心を保っていられるだろうか。
そんなことを思った為成の鼓膜を、
「あ、ぁああぁぁ――――っ!」
切羽詰まった堀田の絶叫が貫いた。
「堀田さんっ!?」
振り向いて、為成は目を見開いた。
木の根が一部、ごそごそと動いていた。――いや、木の根ではない。根の一部や苔や茸が糸でくっつけられて、大きな巣となっている。
その先から少年の小さな頭が顔を出し、頭に似合わぬ巨大な前足を伸ばして堀田を捕らえていた。
「いさご虫か!?」
「ひぃ――――ッ!!」
絶叫する堀田の眼前で、いさご虫がぐわりと口を開いた。




