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席替え以降分かったことがある。
洋ロリこと、凪原ミケウリールは不真面目で、学校を舐めている。
三時限目の政治経済が始める三分ほど前。
お手洗いから戻ってくると、隣席の凪原さん――PN瑠璃兎けみがその小柄な体躯をいいことに器用に椅子の上に正座して俺の帰りを待っていた。
「かたるさん! 教科書を忘れてしまいました!」
「またかよ!」
男尊女卑の顕著な江戸時代辺りを舞台にした時代映画に出ても通用しそうな礼。
クラスのアイドル凪原ミケウリールになんてことをさせやがる――今にもそんな声が聞こえてきそうなものだけれど、すっかり通例化してしまったせいで最早周囲も全く気に留めない。敵意と殺意を向けられたのは初期の頃だけ。
「今週だけでもう何度目?」
「呆れないでください! やる気がないんだから仕方ないじゃないですか!」
「その言い分で俺が『そうだね、仕方ないね』と納得するとでも?」
「あぅっ」
「そのラノベチックな悲鳴ってゆっくりとオワコン化してきてるよな」
「あざといは正義じゃないんですか!?」
「正義認定されてるのは可愛いだけだよ」
愛くるしさから神格化され、クラスメイトたちから一定の距離を置かれていた以前までの凪原ミケウリールは席替えで俺の隣になって以降消え失せた。
その代わりに、日々露呈されていく新たな一面がクラスメイトを驚かせると同時に、『それがまたいい』と本人の知らない裏で新規のファン層が拡大しつつあるのだった。
「もーっ、見せてくれないんなら勝手に奪っちゃいますよ?」
「あ、てめっ」
それからもう一つ分かったこと。
瑠璃兎は人懐っこく、一度打ち解けるとすっげーフレンドリー。
「ちょっとかたる、甘やかすのもそこそこにしておきなよ?」
「甘やかしてねえ! こいつが身勝手なだけだ!」
頬杖をついた神子が他人事みたいに言う。
どうも、この頃クラスメイトたちから新・凪原ミケウリールの保護者として見られている患井かたるです。ねー不本意なんだけど、ねー。
「うわぁ、学校に関係ないものばっかり入ってる。駄目だよ! 校則守らなきゃ!」
「分かった俺は校則を守るからお前は自制を覚えてくれ! いい加減あさるのやめろ!」
男子の鞄を一切の遠慮なくあさり続ける瑠璃兎。やめてぇ! 怪しいものとか入ってないけど、部屋と同じでプライベートを踏み荒らされてるみたいでいやぁ!
……して、授業開始後。
「教科書見ないなら真ん中に置く必要ないよな?」
机をくっつけて教科書を見せてあげているのに、瑠璃兎は夢中でノートを書き、教科書になんか一目もくれない。
熱心に勉強に励んでるならいいさ。
でもこいつの場合違うもん、ずっとプロット書いてるんだぜ?
返事が来ないので自己判断で教科書を取り上げようとするとやっと瑠璃兎は顔を上げ、睨みつけるような目つきの悪さで俺を見た。
「置いておいてください。フェイクは大事なので」
「フェイク扱いだと……」
授業中読書やゲームをするために先生の目を誤魔化すように教科書を開いたり、開いたノートの上に消しカスを散りばめたりしなかった? 学校の勉強にそこまで熱心じゃなかった大半の大人たち及び学生なら共感を得られると思う。
「瑠璃兎、お前さ、毎日プロット書いてないか?」
「んーまー」
作業再開した瑠璃兎の返事の投げやりさに文句あるやつ、集合!
「でもプロットしか書いてないとかって言われればそうじゃないです。家に帰ってすぐに打ち込めるように原稿の続き書いたりもしますです」
「へぇ、瑠璃兎はパソコンじゃなくても原稿進められるんだ」
「待ってください、ちょっとおかしなこと言いませんでした?」
手の動きが止まり、呆気に取られたように目を丸くする。
「おかしなこと? パソコンじゃなくても原稿が進められるって部分?」
「ピンポイントにそこです。あのー、文字が打てれば携帯だろうがなんだろうが小説は書けるじゃないですか」
「うむ、理論上はそうだな」
「なんですかその理論は合ってるけど実行は不可能みたいな言い回し」
ペン回しをしつつ顔をしかめる。
「分からないか、ならば教えてやろう。俺はパソコン以外の道具で小説を書けない」
「えっ。……その心は?」
「その心? 困った、用意してないぞ……んっと、単純に気分が乗らないからだと思う」
書けないって言っても一行も書けないほど極端な話じゃないよ? パソコンで書くのと同じように千文字単位で書けないだけで、百文字ぐらいなら余裕で……。
でもやっぱり気分乗らないから、思いついた自分がグッとくる一節をメモする程度だ。
「物書きが気分に左右されるのは珍しい話じゃないと思いますですが、それじゃ出先で、例えば旅行先ではどうやって作業進めてるんですか?」
「進めないよ、ほとんど」
「わー効率悪いですねー。パソコンのない環境に移ったらバッタリなわけですね」
「進行中の原稿はな。原稿を書かない代わりにノートを持参して新作を考えるくらいはするし、あとはその進行中の原稿の問題点を洗いざらい炙り出すな」
「執筆以外の作業はやってるぜ、ってことですか」
「当たり前。丸一日原稿のことを考えない日はまずない。必ず創作絡みのこと考えてる」
「ひゅぅ、かっこいいです」
「囃し立てるんじゃありません」
君の元々の性格って、臆病で奥手で引っ込み思案じゃなかった? 人を囃し立てるような子だったっけ? 見た目によるイメージとは間違いだらけだな……。
俺のラノベの理想のヒロイン候補だった凪原ミケウリールはもういない。
「学校で作業することが高次選考進出に繋がるとは一概には言えませんが」
会話もそこそこにプロット作りを再開し、お喋りタイムもここまでかなと思っていたら、まだまだ口を動かす気は満々らしい。
「それでもこうやって時間を有効に使って新作のストックを貯めておけば、後々楽にはなりますよ。どうです? 授業真面目に受けてる振り隊結成しませんか?」
「不真面目の極みそのものみたいな隊だな。誰が組むか」
「今入隊したら、もれなく隊長の私からのアドバイスがついてくる!」
「いらな……くもない、結構欲しい」
冷静になって再認識。そういえば瑠璃兎けみはハイワナビだった。
間違って次の応募でデビューしても何ら違和感のない実績と実力を併せ持つこいつにアドバイスをもらえるなら入ってやっても……ああ誘惑に負けそう。
瑠璃兎はニタつきながら快楽へと誘うように囁く。
「ほらぁ、入っちゃいましょうよぉ、一緒に留年スレスレのリスキースクールライフ謳歌しましょうよぉ、進路希望調査票にラノベ作家って痛々しいこと書いちゃいましょうよぉ」
「最後のは死んでも嫌だよぉ」
嫌悪感が俺を正気に戻し、なんとか誘惑に打ち勝った。けどアドバイスが欲しいという欲求は未だ根強く俺の中に残っている。
「入隊はできないけどアドバイスください!」
『~したくないけど、~はしてほしい』
こういうのを世間一般ではわがままと呼ぶ。
「めっさ都合の良いこと言いますね」
瑠璃兎の冷めた反応は概ね想定内。
「一応ライバル関係なわけですから、そう簡単には教えられませんよねぇ」
「悪い顔だ、こいつ何か企んでるな!?」
「ふっふ、当然……相応の見返りは要求させてもらいますよ?」
「ひぃぃぃ!」
洋ロリに窮地に立たされる男子高校生の図(※同級生の女子に追い詰められているだけ)。
演出のつもりか、手でしゃららな金髪を靡かせて、
「なんでも一つ言うことを聞くってのはどうでしょう?」
「ド定番いいね」
学園ラブコメっぽい! こういうの大好き! 自分が関与していなければ!
「なんだ……何を要求されるんだ……まさか技術提供っ……!?」
「底辺ワナビから学ぶことなんて何度落ちてもしぶとく応募し続ける往生際の悪さくらいしかありませんよ」
「自分、涙いいすか?」
「授業中に泣かないでくださいよ……」
「瑠璃兎が悪いんだからね? そして結局俺は何を要求されるんだ?」
「今すぐは思いつかないのでとりあえず権利だけいただきます。いいですね?」
瑠璃兎から要求されること……あんまり大きなことは思いつかないな。デートや交際を要求するのは瑠璃兎の性格上考えにくい。
デメリットが少なそうに思えたので、権利を売り飛ばしてアドバイスを買うことにした。
「さあアドバイスをくれどこからでもかかってこい!」
「前提となるアドバイスの対象自体が見当たらないので難しいですね。作品を見せるか悩みを打ち明けるかしてくれないと答えようがありませんよ?」
困った人です、と腰に手を当ててやれやれする。
男子高校生がやれやれすると目障りなやれやれ系主人公でしかないのに(キョン除く)、この子がやると萌えに発展してしまう。大体の言動は萌えに変換できそうだ。
もしここで一つやって欲しい動作をお願いできるならば、俺だったら目の前で指を舐めてもらうね!
瑠璃兎が小動物的仕草で自分の指をぺろっと舐めている姿を物凄く見たいのである。
「作品……は今ないし、悩み……もまあ」
強いて言うなら神子の件。でもそれは瑠璃兎にする相談じゃない。
「……ないから、そうだ放課後家に来いよ」
「!」
「わざわざ紙に書かなくていいって」
四月当初の授業内容で止まっている大半が白紙のノートから一枚破り取って、わざわざマッキーに握り替えて「!」って書く瑠璃兎、可愛い。
「そうじゃなくて俺の原稿読んでもらおうと思っ……ん、ちょっと待って」
天啓に打たれたかのように別の案が浮かんだ。
ただアドバイスを貰うだけなら読み専の神子や中堅ワナビのよりは先輩でもできる。ハイワナビだからアドバイスの質が高いってのもあるかもしれないけれど、絶好の機会だ、ハイワナビしかできないことをしてもらいたい。
そう、例えば……たまには俺が読んでみる側に立つ、とか。
「瑠璃兎」
「学校でその名前で呼ぶのはやめてほしいんですがなんでしょう?」
「あ、悪い。じゃあミケ、アドバイスの代わりにお前の原稿を見せてはくれないか?」
「ほほう、ハイワナビから技術を奪おうって魂胆ですか。小賢しいこと考えましたね」
気障なポーズを取りながら、瑠璃兎がなかなかやるじゃないかというような顔を浮かべる。三次選考を突破するレベルの原稿、とくと見てやろうじゃんか。そしてお返しに一次選考に落ちるレベルの原稿を突きつけて読ませてやるのだ。ナイス嫌がらせ。
夏至が迫り、日もどんどん長くなっている放課後、テスト勉強なんだそれ軍団こと俺、瑠璃兎、よりは先輩のワナビ三人が俺の部屋に一堂に会していた。
「……なんでよりは先輩が素知らぬ顔で混ざってるんですかね」
瑠璃兎と二人きりで集中的に原稿を読み込む予定だったのに。
ベッドの縁にもたれかかっているよりは先輩は本棚から無断で抜き取ったちょい古ラブコメラノベを読みながら、心の籠っていない抑揚のない返事をする。
「そりゃ『こいつ俺の彼女なんすよ』みたいなトーンで『放課後ハイワナビに原稿見せてもらうんすよ』って言われたらついていくに決まってるじゃない?」
違うぞ。俺はそんなうざい言い方してない。発言内容は概ね合ってるけども。
「それとも私がいたら不満? 空気壊れちゃう? デスorダイ?」
「卑屈過ぎますよ……いえ、全然不満はないです」
瑠璃兎との二人きりを望んでいたわけじゃないし。
それによりは先輩も俺より格上の中堅とは言え、その他大勢の有象無象に埋もれ、頭一つ抜け出せないのは俺と一緒だ。文壇が確実に近付いている瑠璃兎の原稿を一目見たいと思うのは当然のことで、なんの異論、違和感もない。
……そう、違和感と言えばいつもの面子で一人この場にいないやつがいる。
「にしても、神子ちゃんが放課後ティータイム欠席するって珍しいこともあるものね」
「私も思いました。舞働さんってお二方にとっては所謂『イツメン』なのでしょう?」
イツメンって言い方、俗っぽくて個人的には好きじゃない。でも訂正しようとしたらまた話が脱線しそうなので自制。同様によりは先輩のボケにも突っ込まないどく。
「さっきも言ったように誘いはしたよ……」
二度声を掛けて、二度ともやんわりと断られた。一度目は瑠璃兎とお喋りに興じていた授業のあとに。二度目は帰り際学校を出る前に。
親しい間柄の友達に対するような軽くて角の立たない断り方だったはずなのに、どうしてか違和感のようなものを感じた。素っ気なさが垣間見えたというか。
……ここだけの話、あいつ引きずるタイプなんだよな。最初なんでもなくても、あとからどんどん暗くなっていくとか。数日したら口を利くことさえなくなるかもしれない。
「舞働さんだっていつも放課後が空いてるわけじゃないでしょう。嫌いになられたわけじゃないでしょうし、今日はこの三人で過ごすと割り切りましょうよー。なんか元気ないですよ? 表情が枯れかけのアサガオのようです。……六月だけに」
「瑠璃兎さん、アサガオは六月の花じゃないわよ?」
「えぇっ!? アサガオの色彩的に六月の花だと思ってましたです!」
「小学校の生活の授業で育てなかった? 芽吹くのは七月入ってからで、れっきとした夏の花。旧暦だと秋に分類されるんだけどね。だから正式にはアサガオは秋の季語よ」
「タメになりますです! こんなところにアサガオ博士がいたなんて!」
「ふっ、江戸時代にアサガオブームが到来していたのを知っているのは北海道じゃ私一人しかしないでしょうね」
「アサガオトークもういいっすか?」
俺が絡まなくても話脱線するんだな。よりは先輩と瑠璃兎って交流少ないのに早くも息ぴったりだ。デキるワナビ同士波長が合うのかもしれない。
本題に入る。よりは先輩も読書をやめてテーブルの前に座った。
「それじゃあ瑠璃兎、例の物を」
「ラジャー!」
漫画喫茶や放課後の誰もいない情報処理室で原稿を進めるときに備えて持ち歩いているというUSBを制服の胸ポケットから取り出すと、ナンパした女の子に連絡先を書いたメモを渡すように俺に差し出す。いやだ、困っちゃう。
戯れもそこそこにもらったUSBメモリをノートパソコンにずぶっと挿入。
即座に読み込まれて『自動再生』の小さなウインドウが表示される。
「こっ、ここから先は私が操作しますので一旦引いてくださいお願いします!」
真っ赤に染め上がった面で懇願された。分かる、分かるぞ。大丈夫さ、俺もここまで操作したらあとは君に託すつもりだったから……。
「嫌いな人はDドライブを勝手に覗こうとしてくる輩です!」
戦争を体験した人が語る当時の生活のように、今の瑠璃兎の言葉には重みがあった。
「これが去年四次選考で落とされた原稿です」
「……タイトルからして厨二チックなのね」
俺もよりは先輩も身構えていたはずなのに一枚目、表紙の中央にでかでかと印刷された『unlimited black -闇より深く、黒より色濃く-』から放たれるこれ以上とない強烈な厨二臭に、読む前から酔いそうになる。
「けど、これはこれで……」
苦手な人にしたらこれだけでもうお腹いっぱいになりそうな威力を含有している分、こういうのが好きでしょうがない人はタイトルだけでレジに持っていきそうな印象を受ける。
「俺はこのタイトル好きですね。オーラがあるというか」
「私は……ちょっと無理かも。中学生のときに書いたアレを思い出して……ああ……」
よりは先輩、黒歴史に打ちひしがれるの巻。思い出しなくない記憶が自然と蘇り、滑らかな頭髪を掻き毟っている。
察しがつくので、詳細は、聞かない。
「約120枚あるので時間掛かると思います。その間、私は適当にラノベでも読んでますね」
「ああ、悪いな。それじゃあよりは先輩、読み始めましょうか」
「一つだけお願いしてもいい?」
「なんですか?」
「私の読むペースに合わせてお願い」
極端に早くなるか遅くなるかの二択だな、これ。
『北海道は札幌、深夜のススキノ、栄えた大通りから外れた人気の少ない裏通り。廃墟同然、空き室だらけの古い雑居ビルが立ち並ぶその通りには、夜な夜な少女たちの喘ぎ声が聞こえてくると専ら噂の《石塚サイクル》や、安物の衣類を身に纏った東南アジア系の男が出入りしている《園原法律相談事務所》、黒光りする高級車が頻繁に停車しては一人だけ降ろしてすぐに去っていくという《惣菜のしまばら》といった表向けは活気のない商店街にあるような寂れた店構えが並ぶ』
まずはあらすじに目を通す。ラノベを応募するときに原稿だけではなくあらすじも添付しなきゃなんだけど、これがまた面倒。あらすじだけで落とされるという話もあるし、適当には済ませられない。
『拓啓学園の夜間部に通う鉅峰はある夏の夜、友人に連れ添ってこの通りに面した《世界食堂》を訪ねる。深夜営業時にだけメニューに載るとびきり美味いディナーがあるらしい――胸を躍らせて店内に入り、目に飛び込んできたのは黒服の大男たちと、エプロン姿、腰の曲がった男の老人だった』
……能力モノって感じでもないようだ。
社会の闇に打ち勝つ、みたいな?
『出てきたディナーの名前は《クロノソティー》。白い皿に乗った焦げた肉の塊のような何かから薫る脳みそも溶けるような匂いに誘われて、フォークを突き刺すと――床が抜け、鉅峰は浮遊感の中で幾重にも重なった銃声を聞いた』
『荒廃と化した一階で、鉅峰は一人の女性――黒井ましろに声を掛けられた。《クロ狩り》の彼女。人を人でいられなくする麻薬。それは鉅峰がどさくさに紛れて食べてしまったクロノソティーにも当然含まれていた。クロを食らった鉅峰の、クロを吐き出すための戦いが幕を開けた瞬間だった』
以降、結末までの展開が持ち前の厨二テイストで綴られていた。
読み始めて一時間半ほどが経った頃、俺とよりは先輩はENDの三文字に行き着いた。
がっつりダークな瑠璃兎ワールドにのめり込んだ一時間半。
すっきりした読了感と心地良い興奮が全身を支配する。
時折俺の知らない総画数の多い単語が出てきたりもしたけど、それも演出として映えていたし物言いはしない。
総括すると、この原稿には俺にないものばかりが詰まっていた。
「……すごい」
「すごいわね……」
だから開口一番の台詞も素直にライバルを褒め称えるようになる。
これなら四次選考まで進むのも納得だよ。瑠璃兎の実力は俺やよりは先輩とは比べ物にならない。本屋で平積みになっていても許されるクオリティだったと言える。いけない、このままだとこの子のファンになっちゃう!
「瑠璃兎さん、起きて。読み終わったわよ」
よりは先輩が読書中に寝落ちした瑠璃兎の肩を揺する。口の淵から垂れた涎が顎を伝って滴り落ちて、瑠璃兎は「ハッ!」と目を覚ました。
「しまりました!」
「しまりました?」
「しまったの丁寧版です」
「分かりずらっ。退屈させて悪い、これでも思ったより早く読み終わったんだ」
よりは先輩のページスクロールが次第に早くなっていったから。黒歴史への恐怖より、瑠璃兎ワールドへの興味が勝ったがゆえだろう。
「で、どうですか? 学ぶことはありましたか?」
「学ぶ以前にどっぷり嵌っちゃって。すげえ面白かった。ね、よりは先輩?」
「悔しい……こんな洋ロリ相手に実力不足を認めなきゃいけないなんて……」
実績を聞かされた時点で挫けそうになっていた気持ちが、今日で完全に挫け……はせず、素直に実力を認めたことで俺たちと瑠璃兎は違うという線引きができ、開き直れた。
「これだけ書けたら三次選考突破できる、という目安になってくれたら幸いです」
さらっと簡単に言うなよ。逆に言えばこれだけ書かなきゃ三次選考突破できないってことじゃないか。
頭の中で自分の原稿と照らし合わせる。
……文壇デビュー、あとがきデビュー、重版デビュー、インタビューデビューがもっと遠のいたような気がする。
「所詮ラノベだろって、文芸と比べてこう軽視する人は少なくありませんが」
俺と代わってパソコンの前に座り、閉じる操作をしながら語りかけるように紡ぐ。
「ラノベはラノベで高みがあるのです。クレバーで知性溢れる文章が書けてもてっぺん獲れるわけでもありません。社会問題を取り上げて読者に考えさせるようなことを書いてもラノベ購読層で一番厚い中高生の方々はほとんど見向きもしないでしょう」
頷いて無言で相槌を打つ。
「どんなに文体が乱れていようが、テーマが薄っぺらかろうが、内容が中学生の妄想のように稚拙であろうが」
USBメモリを取り外し、顔をこちらへ向けた。
「ラノベって、ただ面白ければ勝ちだと思いますです」
「……ああ、お前の言う通りだよ」
「だから特別サービスで一つアドバイスを差し上げますと!」
人差し指の代わりにUSBメモリを突き出す。
「どうです? 独特の作風もいいですが、たまにはひたすら面白さを追求した王道を書いては如何でしょう?」
「それにしても瑠璃兎さん、長々と喋り過ぎよ。自分語り好きな人なの? もしそうならちょっと距離を置きたいわね……」
「あっ、そそそういうわけでは! 口が過ぎましたごめんなさいです……」
「ありがたいアドバイスの途中で後輩いじめるのやめましょうよ!」
王道を読むのは好きだけど、自分で書きたいとは思わない。
ワナビになって以降、絶対の約束事のように守り続けていた信念が、揺れた。
……でも、ごめん。それは多分次回以降になりそうだ。
応募予定の『うみの果てはひとをめぐる』のゴールは、もう目の前だ。
週末の金曜日深夜、初稿が終わった。
総執筆日数、十四日。総ページ数、101枚。
執筆ペースは早かったものの細部は丁寧に書きこんだし、ヒロインは見た目だけ瑠璃兎からお借りし、他の主人公脇役含めて内面も自分なりに凝ったつもり。
校了後の爽快感の余韻に浸りながら眠る前に全編流し読みして、思わず漏れた。
「こりゃ一次落ちだ」
それでも特別落ち込まない。
手応えも暖簾に腕押しで。
作品の出来、達成感をそのまま表すと言っても過言ではない爽快感も、弱いし。
俺が下読みならこの原稿には『一次落ちも妥当』の評価をつけるだろう。
そう考えてしまって、俺は今まで何をやってきたんだろうと、思った。




