第57話「全部、違いました」
最初は、助けるつもりだった。
ドナルゥトゥは、会う相手によって動きが違った。
至誠が前を通ると立つ。
渾沌が来ると皿を伏せる。
真意には記録用紙を押す。
好代には、袖を掴む。
その日も、好代が水を替えようと横を通った時、指が制服の袖口をつまんだ。
強くはない。
歩けば外れる程度なのに、好代は毎回止まった。
「水、ここでいいですか」
返事はない。
袖だけは離れない。
「関係ごとに分けて残した方がいいです」
真意が言った。
「でも、本人が困りません?」
「困っていると確認しました?」
好代は袖を見る。
確認していない。
困っているのは、引き継げない店側だった。
昨日は、別々の資料を一つの封筒に入れ、原記録を残した。それなら今回も、違いを消さずに比較だけすればいい。
好代は三時間かけて表を作った。
《至誠:同行》
《渾沌:回避》
《真意:記録提示》
《好代:接触》
元記録は全部残す。
「これなら、壊してないですよね」
真意は表を見た。
「分類はしています」
「でも元は残ってます」
「はい」
好代は安心した。
午後、表を使って店内を少し変えた。
至誠が通る側は入口まで空ける。渾沌が来る時間は皿を下げる。真意の席には最初から記録用紙を置く。
そして自分の隣に、椅子を一脚置いた。
袖を引かなくても、止まって話せるように。
全部、ドナルゥトゥが困らないためだった。
うまくいった。
至誠が通っても動線は詰まらない。
渾沌が来ても皿は伏せられない。
真意には紙が最初からある。
好代が横を通っても、袖を引かれない。
「……あれ」
好代は一歩通り過ぎた。
戻る。
もう一度、同じ距離を歩く。
袖は動かない。
三度目は、わざと少しゆっくり歩いた。
何も起きなかった。
◇
夕方、冥理が四枚の小さな鏡を置いた。
「見せ方だけ、昨日に戻します」
壁も床も動かさず、ドナルゥトゥから見える距離と角度だけを昨日の配置へ重ねる。
至誠の鏡。
立たない。
渾沌の鏡。
皿はもう下げてある。それでも、手は動かない。
真意の鏡。
紙は押さない。
最後に、好代の鏡。
好代は袖口を見た。
動かない。
「……違う」
冥理が鏡を伏せる。
「見せ方は戻しました」
「でも、戻ってない」
「そうですね」
好代はすぐ椅子をどかした。
皿を戻す。通路を昨日の幅にする。真意の紙も片づける。
至誠が通る。
立たない。
渾沌が来る。
皿を伏せない。
真意が座る。
紙を押さない。
好代は、昨日と同じ位置へ立った。
制服の袖を少しだけドナルゥトゥ側へ近づけた。
待つ。
指は動かない。
もう一センチ。
動かない。
好代は自分から袖口をつまみ、昨日引かれた方向へ少しだけ引いた。
布が手首に触れる。
似ていなかった。
手を離す。
「戻りません」
声が小さくなった。
秩序が配置、距離、角度、時刻を測った。
「環境差だけでは説明できません」
「じゃあ、何が」
真意は表と店内を見比べる。
「分からない。変更前後は分けられます」
好代は床へ目を落とした。
ドナルゥトゥの椅子の脚に、細い紙片が挟まっている。
引き抜く。
反応表の切れ端だった。
《好代:接触》
それだけ。
好代が関係へ名前をつける前には存在しなかった紙だ。
いつ挟まったのかも、誰が挟んだのかも分からない。
「私が、変えた?」
「因果は確定できません」
真意が答える。
「でも、この紙ができたのは分類の後です」
◇
好代は表を破らなかった。
赤いペンで《使用停止》と書き、棚へ戻した。
「全部、違いました」
冥理が聞く。
「何がです?」
好代は空いた隣の椅子を見る。
「困ってるように見えたことと、なくしていいことです」
夜、ドナルゥトゥは水を一口飲んだ。
それだけは昨日と同じだった。
好代は隣の椅子へ座りかけた。
座面に手をつく。
やめた。
座ってほしいかは聞けない。袖を掴まないことが拒否なのかも分からない。
少し離れた席で伝票を整理する。
閉店時、椅子の脚から見つけた紙片を透明袋へ入れた。
《好代:接触》
昨日までは、関係を説明する言葉だった。
今日は、ただの紙だった。
ラベルには一つだけ書いた。
《変更後に発見》
透明袋を閉じる時、好代の袖口が指に触れた。
反射的に振り向いた。
誰も掴んでいなかった。




