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9 第三王子の逃避行

数日後、ルカはチヨを城下の買い物に誘った。


「布屋に新しいリボンが入ったらしいの。チヨ、見に行こう」


「まあ、楽しそうね」


チヨは微笑んだが、すぐに少し困ったように首をかしげた。


「でも、王子がそんなふうに気軽に城下へ出て大丈夫なの?」


ルカは少しだけ得意げに笑った。


「大丈夫。今日はちゃんと考えてあるから」


そう言って現れたルカを見て、チヨは目を丸くした。


「まあ……!」


ルカは淡い水色のワンピースに身を包み、細い髪を丁寧に編み、つばの広い帽子まで被っていた。

もともと整った顔立ちをしているせいで、ぱっと見では完全に上品な令嬢にしか見えない。


くるりとその場で一回転してみせ、ルカは少し照れくさそうに言った。


「これなら王子だってばれないだろう?」


チヨは感心したように手を打った。


「まあまあ、完璧じゃないの。とっても可愛いわ」


「……可愛い、か」


「ええ、可愛いわ。けれどそれだけじゃなくて、ちゃんと似合っているのがすごいの」


ルカは耳を赤くした。


褒められるのは嬉しい。

チヨに褒められるなら、なおさらだ。

だけど。チヨに可愛いと言われると、どこか胸に刺さる痛みがあった。


「今日は護衛も少し離してつけるって話になってる。女の子ふたりの買い物に、ぞろぞろ男がついてきたら目立つから」


「なるほどねぇ。ちゃんと考えてあるのね」


「もちろん」


ルカは胸を張ったが、その目の奥には別の期待もあった。

今日はできるだけ、チヨと二人きりでいたい。

誰にも邪魔されたくない。そんな思いが、ひそかに胸にあった。


城下は昼の活気にあふれていた。

果物屋の明るい呼び声、焼き菓子の甘い匂い、色とりどりの布が風に揺れる店先。

チヨとルカは並んで歩き、ときどき立ち止まっては商品を眺めた。


「このリボン、春らしくて素敵ね」


「こっちの刺繍糸も綺麗だよ。チヨ、似合いそう」


「まあ、あなた、選ぶのが上手ね」


チヨが笑うと、ルカの胸がぽっと熱くなる。

ずっとこうしていたい。

兄たちも、護衛も、誰もいないところで、自分だけを見て笑ってほしい。


そんな思いが膨らみすぎたのだろう。


人通りの多い通りを抜けたあと、ルカはそっとチヨの袖を引いた。


「こっちに、近道があるんだ」


「近道?」


「うん。静かでいい道」


実際には、少し入り組んだ裏道だった。

護衛を撒くつもりで、ルカはわざと細い路地へ入っていく。


「ルカ、あんまり奥へ行くと、みんなが困るんじゃないかしら」


チヨはそう言ったが、ルカは歩みを止めなかった。


どうしても。

どうしても、二人きりの時間が欲しかった。


だが、その幼い独占欲は、最悪の形で裏切られることになる。


「……おや?」


路地の奥から男たちが現れた。

薄汚れた服、にやついた顔、獲物を見つけた目。


「上等な格好したお嬢さんたちじゃねえか」


ルカの背筋が凍る。


「こんなとこに何の用だ?」


「迷子か? それとも、金持ちの家のお嬢様かな」


男のひとりがルカをじろじろ見た。

女の子の格好をしているおかげで王子だとは気づかれていないようだが、それでも金になりそうな身なりだと見られたのは明らかだった。


チヨがすっと前に出る。


「あらあら。道を譲ってくださる?」


「譲るわけねえだろ」


男たちは笑いながら距離を詰めてくる。

ルカは反射的にチヨをかばおうとした。だが、足が震えて前に出られない。


剣術の授業を休み、怖いことから逃げ、守られてばかりいた自分。

いざというとき、身体が動かない。


男のひとりがルカの腕を掴みかけた瞬間、チヨがその前に割って入った。


「この子に触らないで」


チヨから出る威圧感に、一瞬だけ男たちの勢いが鈍る。

けれど次の瞬間、別の男がナイフをちらつかせた。


「おとなしくしろ。騒いだら痛い目見るぞ」


ルカの顔から血の気が引いた。


「……っ」


「ルカ」


チヨが低く、けれどやさしい声で呼ぶ。


「城へ戻りなさい」


「いやだ」


「戻るの」


「だって……!」


「いいから行くの。あなたならできるわ」


チヨはルカを見た。

責めも、怒りもない。ただ真っ直ぐに信じていた。


「お兄さまたちを呼んできてちょうだい」


「でも、チヨが……!」


「わたしは大丈夫」


その声音には、不思議な安心感があった。

けれどルカは知っている。大丈夫ではない。危ない。怖いに決まっている。

それでも自分を逃がすために、チヨは前に立っている。


自分はまた、守られる側なのか。


悔しさと情けなさで喉が詰まる。


それでも今ここで泣いていては、何も変わらない。


ルカは唇を噛みしめ、震える足を無理やり動かした。


「……絶対、戻る」


「ええ、待ってるわ」


ルカは駆け出した。


帽子が落ち、編んだ髪がほどけかけても構わず、夢中で石畳を蹴る。

胸が苦しい。息が焼ける。

怖い。悔しい。情けない。

それでも走るしかなかった。


「兄上! セドリック兄上!」


城へ飛び込んだルカは、息も絶え絶えに叫んだ。


広間にいたレオンとセドリックが、ただちに表情を変える。


「どうした」


ルカは涙をこらえながら声を絞り出した。


「チヨが……僕のせいで……さらわれた……!」


空気が一変した。


レオンの目が鋭く細まり、セドリックの笑みも消える。


「場所は」


ルカは震える指で方角を示した。


「東の裏路地……僕が、護衛を撒いて……っ」


「泣くのはあとだ」


レオンは短く言うと、兵たちへ振り向いた。


「すぐ動け。東区画を封鎖する。セドリック、お前は裏から親衛隊を率いて回れ」


「了解」


「ルカ」


レオンは弟を見た。


「お前が案内しろ」


ルカは顔を上げた。


責められると思っていた。

怒鳴られると思っていた。

だがレオンの声は冷静で、そこにはただ「立て」という意思があった。


ルカは震えながらも、強くうなずいた。


「……分かった」


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