10 第三王子の決意
一方その頃、チンピラたちの隠れ家では、誘拐現場とは思えない空気が流れていた。
「はい、あなた。椅子にだらしなく座らない。腰が曲がるわよ」
「なんで俺らが怒られてんだよ……」
「だって見ていられないんですもの。あと、その傷、消毒したの?」
「してねえ……」
「だめじゃないの。化膿するわよ」
チヨはすっかり家主のような顔で部屋を歩き回っていた。男たちはなぜか言われるまま座らされ、怪我の手当てまでされている。
「お前、わかってるのか。人質なんだぞ……?」
「ええ、人質は長い人生を生きてきて初めてだわ」
「なんでそんな落ち着いてんだよ」
「慌てたってお腹はふくれないでしょう」
さらに台所へ入ったチヨは、勝手に鍋を取り出した。
「玉ねぎと干し肉があるじゃない。もったいないわね。こういうのはちゃんと使わないと」
「まさか、ここで料理をする気か?」
「ええ。あなたたち、ろくな食事をしてないでしょう」
「料理をする人質なんて聞いたことがねぇ」
男たちは完全に調子を狂わされていた。
やがてスープの匂いが漂い始める。ぐう、と誰かの腹が鳴った。
「……腹減ってたんだな、俺たち」
「しみる……」
「これ、ばあちゃんの味がする……」
「ほら、食べたら部屋の片づけをするわよ」
「片づけ?」
「こんな部屋にいたら、衛生的に悪いわよ。ほら、まずごみを捨てるところからよ」
「なんで俺が!」
「つべこべ言わない」
「はい……」
そんなわけのわからない会話が始まったところで、扉が勢いよく開いた。
「チヨ!」
レオンが兵を率いて踏み込み、別の入口からセドリックが現れる。続いてルカも飛び込んだ。
そして全員が見たのは、お玉を手に指示をするチヨと、部屋を片付けるチンピラたちの姿だった。
沈黙。やがて頭目の男が、心底疲れた顔で言った。
「頼む。こいつを連れて帰ってくれ」
セドリックが笑いをこらえて肩を震わせる。レオンは眉間を押さえた。
「……何をしているんだ、君は」
チヨはきょとんとした。
「何って、お片付けよ」
「聞き方を間違えたな。なぜ攫われた先で家事をしている」
「だって部屋があんまりだったんですもの」
「そういう問題じゃないだろう!」
「あははっ! チヨってば、最高っ!」
ルカはそのやり取りを聞きながらも、もう限界だった。チヨが無事だとわかった瞬間、身体から力が抜けた。駆け寄って、そのまま強く抱きしめる。
「チヨ……!」
「まあ、ルカ」
「ごめんなさい……っ」
声が震え、涙が止まらない。
「僕のせいで……僕が、二人きりになりたくて……護衛を撒いたから……!」
チヨは一瞬目を丸くしたが、すぐにやわらかく表情をほどいた。泣きじゃくるルカの頭を、やさしく撫でた。
「……そう」
責めない声だった。それが余計に胸に刺さる。
「怖かった……チヨがいなくなるかと思った……!」
「ええ」
「僕、何もできなかった……!」
「でも、助けを呼びに行けたでしょう」
「それだけじゃ駄目だ……!」
ルカは顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃでも、その瞳には昨日までになかった強さが宿っていた。
「僕は、守られてばっかりじゃ嫌だ」
胸の奥ではっきりと形になる。チヨが好きだ。誰よりも好きだ。笑っていてほしいし、自分だけを見てほしい。そして何より、チヨを守れる自分になりたい。その感情はもう、ごまかしようがなかった。
***
翌朝。チヨが部屋を訪れると、そこには見慣れぬ少年が立っていた。長かった髪はすっきりと切られ、飾り気の少ない服を身につけている。華奢さは残っているが、立ち姿には昨日までとは違う芯があった。
「おはよう、チヨ」
チヨは目を丸くした。
「まあ……ルカ?」
「うん」
ルカは少しだけ緊張しながら、それでも真っ直ぐ立っていた。
「今日から剣術の授業も逃げない。勉強もする。もう、怖いことから目をそらさない」
チヨはしばらく彼を見つめ、それからふわりと笑った。
「とても似合っているわ」
ルカは少しだけ頬を赤くした。
「でも」
チヨは一歩近づき、彼の襟を整える。
「可愛いものを好きな気持ちまで、捨てなくていいのよ」
ルカは目を見開く。
「好きなものは好きなまま、それでも強くなれるわ」
しばらく黙っていたルカは、やがてゆっくりうなずいた。
「……うん」
そのとき、回廊の向こうから声がした。
「へえ。ずいぶん男前になったじゃないか」
セドリックだった。隣にはレオンもいる。レオンはルカを見て、小さくうなずく。
「ああ。ようやく覚悟が決まった顔だ」
以前のルカなら、その言葉に気圧されて俯いていただろう。だが今日は違った。ルカは兄たちをまっすぐ見返した。レオンがわずかに眉を上げる。セドリックは面白そうに目を細めた。
ルカは一度だけチヨを見た。それから、はっきりと言った。
「兄上たちに言っておく」
「なんだ?」
レオンの問いに、ルカは一歩前へ出た。まだ背は高くない。剣だって弱い。王子としても未熟だ。けれど胸の中には、昨日までなかった熱がある。
「僕はもう、守られているだけの弟じゃ終わらない」
セドリックの口元がにやりと上がる。
「おや」
「強くなる。ちゃんと王族として立てるようになる」
ルカはそこで一度息を吸い、兄たちを真正面から見据えた。
「それから――」
頬は少し赤かった。それでも視線は逸らさない。
「チヨのことは、兄上たちにも譲らない」
一瞬、空気が止まった。セドリックが吹き出した。
「ははっ、これはすごい」
レオンはこめかみを押さえた。
「……一体何を言い出すんだ、お前は」
「本気だよ」
ルカはきっぱりと言い切った。昨日の自分なら、絶対に口にできなかった言葉だ。でも今は違う。泣いて、悔しがって、ようやく手に入れた気持ちだから、隠したくなかった。
「兄上たちが相手でも、負けない」
セドリックは楽しそうに肩をすくめる。
「宣戦布告ってわけか」
「そうだよ」
レオンは深くため息をついたが、その目にはわずかに感心したような色があった。チヨはそんな三兄弟を見比べてから、困ったように、でもどこか嬉しそうに笑った。
「まあまあ、朝からにぎやかねぇ」
そののんきなひと言に、張りつめていた空気がふっとゆるむ。セドリックは笑い、レオンはまた額を押さえた。
ルカはまっすぐにチヨを見つめたまま、心の中で静かに誓う。今度こそ守れるようになる。誰にも負けないくらい、強くなる。兄たちにだって、譲らない。
春の朝の光の中で、第三王子の初恋は、幼い憧れでは終わらない本物の決意へと変わっていた。




