第二王子の危機
セドリックの部屋は広かった。
王子の私室と聞いて誰もが思い浮かべるような、豪奢で美しい部屋だった。
高い天井には繊細な装飾が施され、壁には上質な織物が掛けられている。窓辺には重たげなカーテンが垂れ、磨かれた床には深い色合いの絨毯が敷かれていた。奥には大きなベッド、手前には来客用のソファと小卓。どこを見ても気品と贅沢が行き届いていて、王族にふさわしい空間だった。
けれど、チヨにはその部屋が、少しだけ寒々しく見えた。
整いすぎていて、誰かが心からくつろいだ気配が薄い。
まるで、きれいに飾られたまま、ずっと誰にも触れられていない部屋のようだった。
チヨは静かに室内を見回し、それから感心したように頷いた。
「まあ、立派なお部屋だこと。……掃除が大変そうね」
セドリックは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「そんな感想を言う女性は初めてだよ」
肩を揺らしながら笑う。けれどその笑みは、どこか作り慣れたものにも見えた。
「……ここに来る女性はたいてい、自分が王妃になれるんじゃないかって期待してるからね」
セドリックは小さくつぶやいた。
そんなセドリックを気にも留めず、チヨはベッドに座り込んだ。
「何をしているの?早くベッドに来なさい」
ムードも何もない提案に、セドリックは少し目を丸くする。
「この世でいちばん気持ちいいこと、知りたいんでしょう」
セドリックはその言葉を聞いて、ふっと口元を緩めた。
「俺の先生はずいぶん大胆だね」
セドリックはくすりと笑った。
軽口を返しながらも、どこか気を抜いたようにベッドへ向かい、その端に腰を下ろす。
「それで?」
「うつぶせになりなさい」
「……俺が?」
「そうよ」
迷いのない声だった。
セドリックは少しだけ肩をすくめる。
「リードされるのは初めてだな」
そう言って、素直にうつぶせになった。
柔らかなマットレスが、その体を静かに受け止める。
次の瞬間、チヨはためらいなくベッドに上がり、セドリックにまたがった。
「えっ、ちょ──」
驚いて顔を上げかけたセドリックに、チヨは落ち着いた声で言う。
「ほら、力を抜いて」
ぐっ、と指が入った。
「っ……あ!」
短い悲鳴が漏れる。
「若いのに、ずいぶん固いのね」
ぐり、ぐり、と遠慮なく押す。
押されるたびに、セドリックがびくりと揺れた。
「ここよ。ここが固いの」
「っ、ま、待っ……そこ、ほんとに……」
ぐっ、ぐっ、と、ためらいなく押し込まれる。
最初は跳ねるようにこわばっていた体が、少しずつ、少しずつ沈んでいく。
体に、知らず知らずのうちに積もっていたものが、ゆるんで流れていくようだった。
「……あ」
しばらくして、セドリックが小さく呟いた。
「……何これ」
チヨは当然のように言う。
「肩たたきともみほぐしよ」
そのまま肩から背中へ、ゆっくりと手を移していく。
力強いのに、不思議と痛いだけではない。
押されるたび、胸の奥に張りつめていたものまでほどけていく気がした。
やがてセドリックは目を閉じ、深く息を吐いた。
「……気持ちいい」
その声は、もうさっきの軽薄な笑いを含んでいなかった。
肩の力を抜いた、年相応の青年の声だった。
チヨは満足そうに頷く。
「でしょう? この世でいちばん気持ちいいことよ」
セドリックは苦笑するように、顔を枕に埋めた。
「これは反則だ……。こんなの、太刀打ちできるわけない」
「なにも考えなくていいの」
チヨの声は、どこまでも穏やかだった。
「少し、休みなさい」
「……ん」
短い返事。
それだけで、もう十分だった。
チヨは背中をほぐしながら、静かに言った。
「若いのに無理をしているのね。作り笑いばかりしている人ほど、こういうところに出るものよ」
セドリックの呼吸が、わずかに止まる。
「……なんで分かった?」
「年を重ねるとね、見えるようになるものがあるの」
チヨは手を止めなかった。
まるで言葉を急かさないように、一定の優しさで肩を押し続ける。
「セールスとか保険とか、いろんな人が来るでしょう?自分を押し殺して人をだまそうとする人が」
少しだけ、懐かしむような目をした。
「あの子たちも必死だったんでしょうね。自分が生きるために」」
それから、やわらかな声で続ける。
「でもね、人を騙すことは、たいてい長続きしないでうまくいかないものよ」
セドリックは、しばらく黙っていた。
その沈黙は重くはなかった。
むしろ、初めて安心して黙っていられるような静けさだった。
やがて、彼はぽつりと呟く。
「……兄上は優秀すぎるんだ」
チヨは何も言わず、続きを待った。
「強くて、正しくて、賢い。だからこそ、貴族たちは怖がる。自分たちの思い通りにならない王は都合が悪いからな」
少し苦く笑った。
「だから俺は、遊び人のふりをしてる。王位に興味なんてない、女遊びしか頭にない馬鹿な王子だって、そう思わせておけばいい」
チヨは黙って背中を押す。
その沈黙に促されるように、セドリックの声がさらに低くなる。
「貴族令嬢の相手をして、貴族どもの機嫌を取って、ガス抜きをして……そうしていれば、兄上に向くはずの敵意が少しは逸れる」
そこで一度、言葉が途切れた。
「兄上は、いい王になる。だから俺は、悪い王子でいい」
その声には誇りがあった。
けれど同時に、誰にも言えなかった疲れと、寂しさも混じっていた。
チヨはぽん、と軽く肩を叩いた。
「偉いのね」
そのたったひと言が、思いがけず深く刺さったのか、セドリックの指先がわずかにシーツをつかんだ。
「……そんなふうに言われたの、初めてかもしれない」
かすれた声だった。
「皆、俺のことを遊んでいるだけの男だと思ってる。そう見えるようにしてきたのは俺だけど……でも、たまに分からなくなるんだ」
チヨは静かに聞いていた。
「俺、本当にこれでよかったのかなって。誰にも本当のことを言わないまま、笑ってばかりいて……気づいたら、自分でも何が本音か分からなくなる時がある」
その言葉は、弱音というより、ようやく零れ落ちた本心だった。
チヨは背に触れたまま、やさしく言った。
「では、なおさら正直に言わなくてはだめね」
「……誰に?」
「お兄さんに、よ」
セドリックは目を閉じたまま、弱く笑った。
「無理だよ。兄上はきっと、俺のこと軽蔑してる」
その瞬間だった。
「軽蔑などしていない」
低い声が、扉の方から響いた。
部屋の空気がぴたりと止まる。
振り向くと、そこにレオンが立っていた。
開いた扉の向こうで、まっすぐにセドリックを見ている。
「兄上……!」
セドリックが目を見開く。
レオンは静かに一歩、中へ入った。
その顔はひどく苦しそうだった。
「お前の苦悩に気づいてやれなくて、すまなかった」
セドリックは言葉を失った。
しばらくして、ようやく掠れた声を絞り出す。
「……いつから?」
チヨがあっさり答える。
「最初からよ」
兄弟そろってチヨを見る。
チヨは悪びれもせず肩をすくめた。
「あなたのことが心配だったのでしょう。扉の外で、ずっと落ち着きなくうろうろしていた気配がしたもの」
セドリックは呆然とした。
「俺の心配……?」
「そうよ。あなたが悲鳴をあげた時なんて、外ですごい音がしたわ。慌てて何かにぶつかったのじゃないかしら」
その言葉に、セドリックは思わずレオンを見る。
「兄上が……?」
レオンは咳払いした。
「……あんな状況で平然としていられる方がおかしいだろう」
あまりにも不器用な言い訳だった。
セドリックは一瞬きょとんとして、それからふっと笑った。
「あははっ...はははははっ!」
「なぜ笑う」
「ふっ...くく、あの冷静沈着な兄上が、そんなふうになるなんて」
レオンは眉を寄せた。
「私は昔から、そう器用な人間じゃない」
「嘘だろ。ずっと完璧だったじゃないか」
「お前にはそう見せるしかなかっただけだ」
そのひと言に、セドリックの表情が揺れた。
レオンは弟を見つめたまま、静かに続ける。
「父上が亡くなってから、私はずっと考えていた。王になる者が弱さを見せてはいけないと。迷いも不安も、誰にも見せずにいなければならないと思っていた」
少しだけ声が低くなる。
「だが、そのせいで……お前にまで、何も言わせない兄になっていたのかもしれない。俺は、お前の兄失格だ」
レオンの目には、はっきりと後悔がにじんでいた。
部屋の中が、しんと静まる。
セドリックはゆっくりと身を起こした。
その目は赤くなりかけていたが、必死にこらえているのが分かった。
「違う……兄上は、何も悪くない。俺は……兄上の役に立ちたかっただけなんだ」
ぽつりと落ちたその言葉は、あまりにも幼く、まっすぐだった。
「兄上が立派だから。すごいから。だからせめて……兄上のためになる弟でいたかった」
声が震える。
けれどもう、止められなかった。
レオンは息を呑み、それからゆっくりと弟のそばまで歩み寄った。
「……馬鹿だな」
その声音は、叱るものではなく、どうしようもなく愛しいものを見るような響きだった。
「お前も立派な、私の弟だ」
レオンはセドリックの肩に手を置く。
「お前が私のために動いてくれていたことを、私は誇りに思う。苦しいやり方だったとしても、それでもお前は、国と私を守ろうとした」
セドリックの目から、とうとう一筋、涙がこぼれた。
「兄上……」
「ありがとう、セドリック」
たったそれだけの言葉だった。
けれど、それはセドリックがずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。
彼は顔を伏せ、肩を震わせた。
泣くまいとしているのに、もう抑えきれなかった。
レオンはそんな弟を見て、一瞬ためらい、それから静かに抱き寄せた。
セドリックは驚いたように息を呑み、次の瞬間、子どものようにその胸元をつかんだ。
「……っ、兄上……!」
ずっと強がってきたものが、そこでようやくほどけた。
「すまなかった」
レオンは弟の頭に手を置き、低く言った。
「これからは、一人で背負うな。私も背負う。お前は私の弟だ」
セドリックは何も言えず、ただ頷いた。
肩を震わせながら、何度も、何度も。
少し離れた場所で、その様子を見ながら茶をすすっていたチヨは、そっと目を細めた。
それから、しみじみと言う。
「やっぱり、似たもの兄弟ね」
兄弟ははっとして顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃのまま見られていたことに気づき、セドリックが慌てて顔を拭った。
「……先生、なんでお茶飲んでるの?」
「こんな場面でもまた茶か」
「まぁまあいいじゃない。泣いた後は、ホッとするお茶で水分補給よ」
レオンが小さく息を吐く。
「私とセドリックの分もあるんだろうな」
「ええ。ちょうど飲み頃よ」
セドリックが鼻をすすりながら、少しだけ笑った。
「兄上、不思議な人を拾ってきたな」
チヨはすぐに言い返す。
「拾ったのはわたしよ。川から流れてきたのだから」
セドリックは涙のあとを残したまま、くしゃりと笑う。
レオンも呆れたように額を押さえたが、その口元には確かに笑みがあった。
泣いて、笑って、ようやく胸のつかえが取れたような空気が、部屋の中に満ちていく。
豪奢なのにどこか冷たかったその部屋が、今は少しだけ、あたたかく見えた。




