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3 皇帝の庭

「来たか、チヨ」


 帝国の城門を抜けた先で、ゼノヴァルトは待っていた。


 黒と金を基調にした衣をまとい、背後には整然と並ぶ近衛兵。広すぎる石畳の広場には、風ひとつ乱れることを許さないような緊張が張りつめている。


「ずいぶん立派なお出迎えね。お茶を飲みにきただけなのに」


 チヨがのんびりと言うと、ゼノヴァルトは楽しげに目を細める。


「お前を迎えるのだ。この程度では足りぬくらいだ」

「そうかしら。お茶菓子があれば十分だけれど」

「茶菓子か。もちろん用意させている」


 ゼノヴァルトが指を鳴らすと、控えていた従者が一歩前に出た。


「帝都一の菓子職人を呼び寄せた。さらに、南方の果実、北方の蜜、東方の茶葉もそろえてある。今すぐ宮殿の大広間を貸し切りにしよう」

「あらまあ」

「それだけではない」


 ゼノヴァルトは、まるで戦場で兵を並べるような顔で言った。


「サーカスを呼んである。空中芸、猛獣使い、炎の舞。楽団もいる。帝国一の歌姫も呼べる。望むなら、夜空に花火を打ち上げさせよう。宝石、絹、珍しい魔道具、黄金の馬車。お前が望むものなら何でも用意する」


 チヨはぱちぱちと瞬きをした。


「さあ、チヨ」


 ゼノヴァルトは一歩近づいた。

 その瞳には、勝利を確信する者の光がある。


「どれがいい。お前が望む願いを叶えよう」

「そうねえ」


 チヨはにっこり笑った。


「じゃあ、散歩をしましょう」


***


 帝国の庭園は、見事だった。

 白い石畳の小道。左右に並ぶ赤薔薇。噴水の水音。刈り込まれた低木は寸分の乱れもなく、まるで定規で測ったようにまっすぐ続いている。


「……私にはお前がわからない」


 だが、ゼノヴァルトはふてくされながら庭を歩いていた。


「あら。散歩は体にいいのよ」


「そういう話ではない」


 帝国一のサーカスも、楽団も、歌姫も、宝石も用意した。

 それなのに、チヨが選んだのは散歩。


 勝利を確信して差し出した剣を、花切り鋏に持ち替えられたような気分だった。

 そんなゼノヴァルトの悔しさも知らず、チヨはにこにこと庭を歩いている。


「すっごく綺麗なお庭だと思っていたの。一度散歩をしてみたかったのよ」


 チヨが感心したように言うと、ゼノヴァルトは少しだけ満足げに顎を上げた。


「当然だ。帝国の庭園だぞ。半端なものは許さぬ」


 ゼノヴァルトは城に目を向ける。


「庭だけではない。城も、兵も、文官も、すべて完璧に整えさせている。ミスをした者には厳しい罰を与える。乱れは国を腐らせる。小さな雑草を見逃せば、いずれ庭すべてが荒れる」

「……そう」

「だが、それは私とて同じだ」


 ゼノヴァルトは噴水の水面に映る自分を見る。


「私も間違えれば、私自身を罰する。だから私は何も間違えない。すべて完璧だ」


 チヨは赤薔薇を見た。

 蕾の形も、花の向きも、ほとんど同じ。咲いていない花などない。


 美しい。

 だが、どこか息苦しかった。


「……この庭は、あなたそのものね」


 ゼノヴァルトが、わずかに眉を動かした。


「どういう意味だ」

「とても綺麗だわ。完璧で、雑草一つない」


 チヨはそこで、やわらかく微笑んだ。


「だけど、とても寂しい場所だわ」

「寂しい?」


 ゼノヴァルトの声が低くなる。

 近衛兵たちの空気が、ぴんと張りつめた。

 けれどチヨは、まるで近所の子に話しかけるように続ける。


「ええ。だってあなた、この庭のこと、ちっとも好きじゃないでしょう」

「……何?」

「綺麗に整ってはいるわ。でも、花が咲くのを楽しみにしたり、雨上がりの匂いを喜んだり、花にやってくるミツバチたちをかわいがったりはしていないでしょう」


 チヨは一輪の薔薇に顔を近づけた。


「この子たち、綺麗だけれど、楽しそうに咲いていないわ」

「……花に感情などない」


 ゼノヴァルトは呆れたように言ったが、怒りはしなかった。


 不思議だった。

 普段なら、こんなことを言う者は即座に黙らせる。

 この庭を寂しいなどと評する者など、許すはずがない。


 だが、チヨの言葉は不思議と腹の底まで届いて、そこに小さなさざなみをたてた。


 寂しい。その言葉を、ゼノヴァルトは嫌った。

 弱者が口にする言葉だと思っていた。

 だが、この完璧な庭を見渡したとき、胸の奥に生まれた微かな空洞を、彼は否定できなかった。


「決めたわ」


 チヨが顔を上げた。


「この庭に、もっといろんな花を植えましょう」

「……何?」

「色とりどりの花よ。赤い薔薇だけじゃなくて、ピンクの花もいいんじゃないかしら」

「ピ、ピンク!?」


 完全無欠の皇帝らしからぬ声が出た。

 背後の近衛兵たちが今度こそ肩を震わせた。


「この私の庭にか?」

「ええ」

「帝国の中枢たる皇城の庭園に」

「ええ」

「ピンクの花を」

「ええ。かわいいじゃない」

「かわいい……」

「他にも黄色や紫もいいわね。季節ごとに咲く花を変えても素敵だわ。あとは、少し背の低い花も植えましょう。歩いていて楽しいもの」

「待て。勝手に話を進めるな」

「あら、私の望みをかなえてくれるっていったじゃない」


 ゼノヴァルトは言葉に詰まった。


 確かに言った。

 お前が望む願いを叶えよう、と。


 この女は、本当に恐ろしい。

 剣も持たず、魔法も使わず、帝国の皇帝が築いた完璧を、にこにこしながら崩していく。


 それなのに。

 なぜだか、目が離せなかった。


***


「わ、私の完璧な庭園が……」


 数日後、ゼノヴァルトは庭の中央で立ち尽くしていた。


 赤薔薇だけだった庭に、淡い桃色の花が植えられている。紫の小花が小道の端に揺れ、黄色い蕾が日向に並んでいる。まだ咲いていない苗もあれば、少し斜めに伸びた枝もある。


 統一感というのもは皆無となり、完璧な庭とはほど遠い空間になっていた。


「……だが」


 風が吹く。

 花が揺れる。

 その揺れに、庭全体が息をしたように見えた。


「……だが、美しいな」


 ゼノヴァルトがぽつりと言う。

 チヨは満足げに頷いた。


「ええ。そうでしょう」


「咲いていない花があるな」


 ゼノヴァルトは一つの苗を見下ろした。

 まだ固い蕾のままの花だった。


「切り落としてしまうか」

「だめよ」

「咲かぬ花に価値はないだろう」


 チヨはしゃがみこんで、その蕾をそっと見た。


「いいの。毎日この庭を歩いて、いつ咲くんだろうって楽しみにして歩くの。昨日より少しふくらんだわね、とか、今日は色が見えてきたわね、とか。花を愛でるって、そういうことをいうのよ」

「咲いた瞬間だけが価値ではないと?」

「ええ。待つ時間も楽しいのよ」


 チヨは立ち上がり、ゼノヴァルトを見た。


「人も同じね。すぐに完璧に咲かなくてもいいのよ」


 ゼノヴァルトは黙った。


 チヨは花の話をしている。

 だが、それだけではないことくらい、彼にもわかった。


 彼はずっと、咲かないものを切り落としてきた。

 遅い者を罰し、迷う者を見限り、弱さを許さなかった。

 自分にも、他人にも。

 そうしなければ、生き残れないと思っていた。

 そうしなければ、国は保てないと思っていた。


 だが、チヨは言う。


 完璧に咲かなくとも、待つ時間にも意味がある、と。


「……お前は」


 ゼノヴァルトは、色づき始めた庭を見渡した。


 完璧ではない。

 統一もされていない。

 それでも目を奪われる。


 赤だけではなくなった庭には、今、いくつもの色がある。

 それはまるで、彼の世界に勝手に差し込んできたチヨそのものだった。


「お前は、私にとってのこの花だ」


 ゼノヴァルトはチヨを見た。


 その瞳には、これまでのからかいや余裕とは違う熱があった。


「この庭園に咲く色とりどりの花のように、私の完璧を壊す。だが、美しい」


 ゼノヴァルトは低く笑った。


「何かをこんなにも愛でたいと思ったのは、お前が初めてだ」


 庭師たちが、さっと顔を伏せた。

 従者も空を見た。

 誰も聞いていないふりをしているが、全員聞いていた。


「帝国へ来てくれ。チヨ」


 ゼノヴァルトは一歩近づいた。

 皇帝としてではなく、一人の男として。

 そんな顔をしていた。


「私にはお前が必要だ」


 チヨは彼を見上げた。

 少し考えるように首をかしげる。

 そして、にっこり笑った。


「ええ。いいわよ」


「……!」


 ゼノヴァルトの目が見開かれた。

 が、次の瞬間。


「だって、庭師の人に指導が必要だもの」


「……何?」


「あなたみたいに、咲いていない花を切っちゃいそうだし。肥料のあげ方も教えないといけないでしょう? それに、植えたばかりの花はしばらく様子を見ないと」


 ゼノヴァルトは固まった。


「……そうではない。そうではないの、だが……」


 ゼノヴァルトは低く呟いた。


 だが、次の瞬間、喉の奥で笑いが漏れた。


 最初は小さく。


 やがて、こらえきれないように。


「……く、くく。そうだな、お前はそういう女だったな」


「あら、どうしたの」


「いや」


 ゼノヴァルトは顔を上げた。

 その笑みは、いつもの支配者の笑みとは少し違っていた。

 完璧ではない庭に立つ、少しだけ楽しそうな男の顔だった。


「一旦、それでもいい」


「そう?」


「ああ。庭師の指導だろうが、花だろうが、肥料だろうが構わぬ」


 ゼノヴァルトはチヨの手元の小さな苗を見下ろした。


「お前がこの庭に来る理由になるならな」

「まあ。そんなにお花が気に入ったの?」

「……そういうことにしておく」


 ゼノヴァルトは、庭に目をやる。

 赤一色ではなくなった庭を見て、まだ咲かない蕾を見て、彼はふっと笑った。


 明日、この蕾は少し開くだろうか。

 それをチヨは、どんな顔で見るのだろうか。


 完璧な庭園は、もう戻らない。

 だが、不思議と惜しくはなかった。

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