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21 第一王子の休日

 朝の光が、薄いカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。


 チヨはゆっくりと目を開け、いつもの癖で「よっこらしょ」と小さく声を漏らしながら身を起こした。寝台の上で肩を回し、腰を軽く叩く。


「ふう。今日もいい朝ね」


 窓辺に置かれた鏡台の前に立つ。寝癖を直そうとして鏡をのぞきこんだチヨは、そこでふと首をかしげた。

 鏡の中に映るのは、つややかな髪に、張りのある白い肌。どう見ても、若い娘の姿だった。


 チヨはじっと鏡を見つめる。

 右から見て、左から見て、ほっぺたを軽くつまむ。


「……あら」


 もう一度、じっと見る。


 やはり若い娘だ。


 だがチヨは、ふっとため息をついて、納得したように頷いた。


「いやね、老眼って。都合のいいように見えるんだから」


 そう言って、何事もなかったように櫛を取った。


「まったく。朝から景気のいい幻覚だこと」


 ぶつぶつ言いながら髪を整え、服の裾を整える。鏡の中の少女はどう見ても若々しいが、本人はまるで気にしていない。


「まあ、見たいものが見えるのは悪いことじゃないわね」


 ひとりでそう結論づけると、チヨは朝の支度を済ませ、部屋を出た。


***


 廊下を歩いていると、向こうからレオンが来た。


 いつも通り整った身なりではあるが、今日はどこか顔色が悪い。目の下には薄く影が落ち、歩き方にも疲れがにじんでいた。


「おはよう、レオン。またずいぶん怖い顔ね」


「おはよう、チヨ。第一声がそれか」


 レオンは苦笑したが、その笑みも少しだけ力がない。


「少し寝不足なだけだ。この前の誘拐の犯人はまだつかまってなくてな。隣国の動きもあやしいし、即位式の準備もあって……仕事がたまっている」


「まあ」


 チヨは目を細めた。


「あなた、何でもひとりで抱えこみすぎなのよ」


 チヨはぴしゃりと言った。


「もっと周りを頼りなさい。あなたがひとりで全部背負わなくてもいいの」


「……それはできない」


「できない、じゃなくて、しなきゃ駄目よ」


 チヨは当然のように言い切る。


「働きすぎで、倒れたらどうするの。気分転換も大事な仕事よ。今日は休みなさい」

「そんな暇は――」

「あるわよ」

「ない」

「作るの」


 そして次の瞬間、チヨは当然のようにレオンの上着の留め具に手をかけた。

 レオンの肩がぴくりと跳ねる。


「ち、チヨ?」


「動かないの」


「いや、待て。何をする気だ。なぜ脱がそうとする」


 するすると上着を脱がされ、レオンは完全に固まった。


 耳までうっすら赤くなる。


「お、おい。朝から何を始めるつもりだ」


「何って、着替えよ」


「……着替え?」


「そう。王族の服なんて着ているから仕事をするのよ。今日はお休みの格好をするの」


 そこまで言われて、レオンはぱちぱちと瞬いた。


 数秒沈黙してから、ようやく意味を理解する。


「……そういうことか」


「どういうことだと思ったの?」


「それは……」


 言いかけて、レオンは口を閉じた。


「……頼むから、それ以上追及しないでくれ」


 珍しく本気で恥ずかしそうに視線を逸らすレオンに、チヨは首をかしげながら平民風の服を押しつけた。


「ほら、これに着替えて。今日は王子様はお休み。普通の男の子になりなさい」


「男の子という歳でもないだろう」


「私からみたら、あなたぐらいの子はみんな男の子よ」


 いつもの調子で言い切られ、レオンは大きく息をついた。


 だがその顔には、さっきより少しだけ軽い色が戻っていた。


***


 その日、城の仕事はセドリックに任せることになった。


「兄上が休み? へえ、珍しいね」


 執務室でそう言ったセドリックは、書類の束を軽く持ち上げて笑った。


「任せてくれよ。今日は俺が優秀なところを見せてやる」


「言ったな。投げ出すなよ」


「ひどいなあ。俺だってやるときはやるんだ」


「普段からやれ」


 セドリックは肩をすくめ、それからチヨに向かってにやりと笑った。


「チヨ。エスコートをお願い。兄上、案外世間知らずだからさ」


「ええ、しっかり連れ回してくるわ」


「ほどほどにしてくれ」


 レオンはそう言ったが、チヨに腕を引かれるまま、結局おとなしく城を出た。


***


街は朝から賑やかだった。


露店からは香ばしい匂いが漂い、通りには買い物客や子どもたちの笑い声が満ちている。城の中とは違う、人の息づかいのある熱気だった。


チヨはあちこちきょろきょろ見回しては、楽しそうに足を止める。


「まあ、この果物きれいねえ」

「この焼き菓子、いい匂いだこと」

「見て、レオン。この布、手触りがよさそうだわ」


レオンは最初こそ不満そうにしていたが、チヨに振り回されるうちに、少しずつ肩の力が抜けていった。


店先で小さな花飾りを見ていた時、露店の女主人がにこにこと笑って言った。


「まあ、お似合いの恋人さんだこと」


レオンが固まる。


チヨはきょとんとしたあと、ふっと笑った。


「いやだわ。五十年早いわね」


レオンは軽くむせた。


「ご、五十年……」


なぜかそこだけやけに正確な数字で刺され、レオンは地味に傷ついた顔をした。


***


しばらく歩いたあと、少し人通りの少ない路地に差しかかった時だった。


背後から、男が現れた。


レオンの表情が変わる。


とっさにチヨを自分の後ろへかばおうとした――その瞬間。


「師匠!」


妙に元気な挨拶が飛んできた。


レオンはぴたりと動きを止める。


「……は?」


目の前にいたのは、以前チヨを攫ったあのチンピラだった。


だが今は、妙にこざっぱりした格好をしている。髪も整えられ、顔つきまで少し穏やかになっていた。


レオンは目を細める。


「チヨを攫ったチンピラじゃないか」


「いやあ、その節はどうも!」


「どうも、じゃないだろう」


レオンの声は冷たかったが、当の本人はへらへらしている。


するとチヨが、その横からひょいと顔を出した。


「この子ね、あれから家にお邪魔して家事を手伝ってるの。今ではすっかり状況もよくなったわ」


「家に……?」


レオンが呆然と復唱する。


チンピラ――元チンピラは胸を張った。


「師匠に掃除と洗濯と節約を叩きこまれまして! 今じゃ妹たちも腹いっぱい食えてるんです!」


「お野菜もちゃんと食べるようになったのよ」


「はい! あと、床に物を散らかすとすげえ怒られます!」


「当たり前でしょう」


チヨはぴしゃりと言ったが、その目はどこかやさしい。


青年は頭をかいた。


「いやあ、最初は怖かったっすけど、師匠の言うこと聞いてたら、家ん中も暮らしもずいぶんましになって。今じゃ近所の婆……じゃなくて、おばさまたちにも可愛がられてます」


「よかったじゃない」


「はい!」


礼儀正しく頭を下げる青年を見て、レオンはしばらく言葉を失っていた。

青年が去ったあとも、しばらく立ち尽くしていた。


「……本当に、チヨはすごいな」


チヨが瞬く。


「私?」


「人を救う、というのは、ただその場を助けることじゃないんだな。ああやって、その先まで変えてしまう」


レオンは自嘲気味に笑った。


「それに比べて、私は駄目だ。弟のことも、城のことも、全部抱えてうまくやっているつもりで……結局、チヨに助けられてばかりだ」


珍しく、まっすぐ弱音だった。


チヨは少しだけ目を細めて、やわらかく微笑む。


「そんなことないわ」


「チヨ」


「私を教育係に選んだのは、あなたでしょう?」


レオンは黙る。


「私がここでこうして、あの子たちと関わっていられるのは、あなたが選んでくれたからよ。だから、これはあなたのおかげでもあるの」


チヨは空を見上げるように、少し顔を上げた。


「それにね。久しぶりなの。こんなふうに毎日が楽しいの」


その声音は、しみじみとあたたかかった。


「誰かとお茶を飲んで、叱って、笑って、困ってる子に口を出して。そういうの、とても久しぶりだわ。だから私は、あなたに感謝しているのよ」


レオンは静かにその横顔を見る。


チヨは続けた。


「それに、あなた自身も変わってるわ」


「……私が?」


「ええ。最初より、ずっとやわらかくなった。弟たちを見る目も、自分を見る目も。最近はルカとアルベールに気持ちをしっかり伝えられていたじゃない」


チヨはそこで、少しだけ厳しい顔になる。


「でも、まだ抱えこみすぎね」


レオンはわずかに目を伏せた。


「私は王室付き教育係よ。でもね、あなたの教育係でもあるの。だから、ひとりでなんでも背負わないこと。ちゃんと頼ること。弱音を吐くこと。それも教えないといけないわ」


しばし沈黙が落ちる。


通りを吹き抜ける風が、チヨの髪をさらりと揺らした。


やがてレオンは、少し困ったように、少し諦めたように笑った。


「……チヨには、かなわないな」


その言い方は、どこか意味深で、やわらかかった。


チヨは胸を張る。


「当たり前でしょう。年の功よ」


「いや、それはおかしいんだが」


呆れて言いながらも、レオンの顔にはもう、朝の疲れきった色は残っていなかった。


***


 その夜。


 執務机の上に積まれた書類は、昼のうちにセドリックがだいぶ片づけてくれていた。残っているのは、どうしても自分で目を通さなければならないものだけだ。


 レオンは最後の一枚に視線を走らせ、静かに羽ペンを置いた。


 窓の外は、すっかり暗い。


 城の庭に落ちる夜気は冷たく、遠くで噴水の音がかすかに聞こえてくる。


「……静かだな」


 誰に言うでもなく呟いて、レオンは椅子の背にもたれた。


 朝のあの重さが、嘘のようだった。


 街を歩いて、くだらないことで言い合って、笑って。

 ただそれだけのことが、妙に胸に残っていた。


「五十年早い、か……」


 思い出して、思わず苦笑がこぼれる。


 ああいうところだ、とレオンは思う。

 五十年長く生きていると言われても違和感のない、こちらの奥底までのぞき込むような目。

 人の気も知らず、ずけずけと踏みこんでくるくせに、肝心なところではこちらの心の奥にするりと入りこんでくる。


 抱えこみすぎるな。頼れ。弱音を吐け。


 あんなふうに、まるで当然のように言われたことは、これまでなかった気がした。


 王子だから。

 長兄だから。

 いずれ王になるのだから。


 そう言われ続けてきた。


 それは正しい。間違っていない。

 だからこそ、誰にも言えなかったのだろう。


 苦しいとも、重いとも。

 もう何もかも投げ出してしまいたいと思ったことさえ。


 レオンはそっと目を閉じた。


 脳裏に浮かぶのは、チヨと出会ったあの川のことだった。


 あの人は何も知らない顔で現れて、川に流された自分を救って、勝手に騒いで、勝手に人の人生の中へ入りこんできた。

 あまりにも騒がしくて、あまりにも図々しくて。


 だが少なくとも、あの日あの川辺で、止まっていた何かが少し動き出したのは確かだった。


「……チヨ」


 名を呼んでみる。

 返事があるはずもないのに、それだけで胸の奥がわずかにあたたかくなる。


 王城で最も手がかかるのは、弟たちではなく、自分かもしれない。


 だからあの人は言ったのだ。

 王室付き教育係ということは、自分の教育係でもあるのだと。


「本当に、かなわないな」


 レオンは立ち上がり、窓辺へ歩いた。


 夜風が頬を撫でる。


 あの人に「抱えこまないで」と言われたことが、妙に胸に残っていた。


 まるで、見透かされたようで。


 もし本当に、あの人がこちらの奥底まで覗きこんでいるのだとしたら。

 

「私の嘘に、気づいているのだろうか」


 レオンはしばらく夜空を見つめ、それからそっと窓を閉めた。


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