19 第四王子の消失
貴婦人たちとの短いやりとりを終え、チヨはすぐに元の場所へ戻る。
「ごめんなさいね、お待たせ――」
言いかけて、足が止まった。
さっきまでそこにいたはずのアルベールの姿が、ない。
柱のそばにも、壁際にも、小さな金色の頭は見当たらなかった。
チヨはきょろりと辺りを見回した。
「……アルベール?」
返事はない。
胸の奥が、ひやりと冷える。
近くを通りかかった給仕の青年に、チヨはすぐ声をかけた。
「ねえ、アルベールを知らない?」
青年は一瞬きょとんとしたあと、思い出したように答える。
「第四王子殿下でしたら、侍女の方とご一緒に、先ほどあちらへ」
「侍女の方と?」
「はい。レオン殿下がお呼びだとか」
その瞬間、チヨの胸騒ぎがはっきりと形を持った。
視線を上げると、少し離れた場所にはまだレオンがいる。貴族たちに囲まれながら、今まさに別の会話をしているところだった。
チヨの表情が変わる。
「……レオン?」
ちょうど近くで貴族たちに囲まれていたレオンの姿が見える。その表情は相変わらず硬いままだが、少なくともアルベールと話したあとの顔ではない。
嫌な予感が、今度ははっきり形を持って胸に落ちた。
チヨはすぐにレオンへ近づいた。
「レオン、あなた、アルベールを呼んだの?」
「呼んだ?」
レオンの眉が寄る。
「いや。まだ話していない」
「侍女が、あなたが呼んでいるって」
その瞬間、レオンの顔色が変わった。
「いつだ」
「さっきよ。ほんの少し前」
返事を聞くより早く、レオンは周囲の空気を切り裂くように声を落とした。
「セドリック」
離れた場所にいた弟がすぐに気づき、歩み寄ってくる。
「どうした、兄上」
「アルベールがいない。私の名を使って連れ出された」
セドリックの笑みが消えた。
「……それは、面倒どころじゃないな」
レオンは即座に周囲の護衛へ指示を飛ばした。
「東棟、西棟、庭園、渡り廊下を確認しろ。出入口の見張りもだ。誰が第四王子を見たか、すぐ集めろ」
いつもの冷静な命令だった。だがその声には、押し殺しきれない焦りが混じっていた。
チヨはその横顔を見て、昼の言い争いを思い出す。
レオンもきっと、同じことを思い出している。
「あいつは他人について行くような素直な性格じゃない」
「きっと、兄弟喧嘩のことを利用されたのね」
その言葉に、レオンのまなざしがさらに冷たくなる。
「そういえば、あいつは妙なことを言っていた。自分が父と母を殺した呪われた王子だと」
「誰かが噂を流したんだろうな。兄上とアルベールを仲違いさせるために」
「……城内の人間を探れ。妙な動きをした者がいるはずだ」
「任せてくれ、兄上」
セドリックはひらりと身を翻し、人混みの中へ消えていった。
「僕も情報を集めてくる!」
ルカも走り出す。
レオンの目には、鋭い焦りと、悔いがはっきりと浮かんでいた。
「私が――」
言いかけて、彼は口を閉ざす。
言葉にするまでもないのだろう。昼の喧嘩が頭を離れないのは明らかだった。
「反省はあと。その言葉は、アルベールに会った時にとっておきましょう」
レオンは短く息を飲み、それから小さくうなずいた。
***
その頃。
アルベールは侍女の後ろを歩きながら、胸の奥がずっと落ち着かなかった。
「まだ?」
ぶっきらぼうに訊くと、侍女は振り返りもせずに答えた。
「もうすぐでございます」
その声音はやわらかく、落ち着いていて、怪しいところなどない。
けれど、アルベールの足は少しずつ遅くなる。
チヨが言っていた。
『こじれたまま長く置いておくと、謝るのがもっと難しくなるの』
だから来たのだ。
呼んでいると言われたから。今なら謝れるかもしれないと思ったから。
でも、こんなところまで来るなんて聞いていない。
「兄上、どこにいるの」
今度は少し強い口調で言うと、侍女はようやく立ち止まった。
そこは南棟の、人気のない細い廊下だった。普段ほとんど来ない場所だ。廊下の先には古い木の扉がある。
「こちらでお待ちです」
「こんなとこで?」
アルベールは眉をひそめる。
侍女がゆっくり振り返った。
整った笑みが、さっきよりも少しだけ冷たく見えた。
「ええ。人目がございませんので」
その瞬間、ぞわりと背中が粟立つ。
違う。兄上はいない。
アルベールは一歩下がった。
「……お前、だれだ」
そのとき、侍女の手がぐいと彼の腕をつかんだ。
「っ!」
細い腕なのに、驚くほど力が強い。
「離せ!」
アルベールは反射的に振り払おうとしたが、もう片方の手で口を塞がれそうになり、息が詰まる。必死に身をよじると、侍女は低い声で囁いた。
「大声を出さないでくださいませ、殿下」
アルベールは夢中で噛みつこうとし、足をばたつかせる。子どもでも、王子として鍛えられた反射はある。小さな靴で相手の足を思いきり踏みつけると、侍女がわずかに顔をしかめた。
その隙に、アルベールは叫ぶ。
「やだ! はなせ!」
しかし次の瞬間、背後の扉が開き、もう一人の影が現れた。
暗がりの中、顔が見えない黒い影。
「手間をかけさせるな」
アルベールの心臓がどくんと跳ねた。
昼間、兄から言われた言葉と同じだった。
だがその言葉は兄とはくらべものにならないくらい、ぞっとするほど冷たい声だった。
この人、こわい。
「やだぁっ!」
アルベールは必死にもがく。
だが小さな体は簡単に抱え上げられ、そのまま部屋の中へ押し込まれた。扉が重たく閉まる音がして、閂の落ちる鈍い音が続く。
薄暗い小部屋の中で、アルベールは床に膝をついた。
「……っ、う、うぅ……」
目の前の扉へ飛びつき、両手で叩く。
「開けて! 開けろ!」
返事はない。
扉の向こうに、遠ざかる足音だけがかすかに聞こえた。
もし、このまま誰も来なかったら。
もし、ほんとうに兄上が自分を探さなかったら。
もし、チヨとも会えなくなったら。
そこまで考えた瞬間、涙が一気にこぼれた。
「う、っ……」
膝を抱えるようにその場にしゃがみ込み、ぐしゃぐしゃに顔を歪める。
「兄上……チヨぉ……!」
その声は、誰にも届かなかった。




