076 谷底
滑落して気絶したらしく、気付けば見知らぬ場所に倒れていた。
例えるならば南部地域の密林のように見たこともない植物が茂っており、そこよりも圧倒的に色彩にあふれていた。
「ここは、一体……?」
上を見上げれば太陽のようなものがある。
しかし、谷の中は真っ暗だった。
ここが谷底なのであれば太陽が見れるはずなどない。
ならばここはどこなのだろうか。
観察するために体を動かせば全身が殴られた後のように痛んだ。
転がりながら落ちた影響かもしれない。
生憎と治癒魔法は使えない。
仕方なく、痛みを堪えて行動を始めた。
状況もわからないので慎重にあたりを探索する。
谷を下りている最中にあった視線も不快感も今はない。
谷から落ちてそのまま全く違うところに来てしまったのだろうか。
例えば隣国とか。
「——そんなわけないか……」
自身の考えにひとりごちる。
谷から落ちて隣国にたどり着くなどどこのおとぎ話だ。
そんなあるはずもないことを現実で体験するわけがない。
そうともなれば今いるのは〝古代竜の爪痕〟の底ということになるのだが、それはそれで頭上の光景が納得いかない。
考えられるのは魔法による幻覚、もしくは環境の創出なのだが、これほどの規模の魔法を常時使い続けるのは相当負荷がかかっているはずだ。
それもやはり現実的ではない。
一歩踏み出せば、柔らかな土の感触が伝わってくる。
谷の崖壁のような冷たく硬い印象はない。
これが幻覚だというのであれば出来すぎている。
何一つわかることがないまま歩き続ける。
草花をかき分け、道なき道を進み、やがて岩壁がむき出しとなった薄暗い空間にたどり着いた。
見えない境界線があるかのように、そこには先程までの植物も明るさも入り込んでいない。
そこにあるのは一つだけの圧倒的に大きくて強大な気配のみ。
「——ようやっと来おったか。竜殺しよ」
何もないはずの暗闇からぬるりと何かが動いた。
そこからは燃えるような赤い眼が現れ、やがて輪郭を帯びていく。
そして現れたのは漆黒の鱗に覆われた巨大な竜だった。
その大きさは火竜など比べ物にならない。
人の体など、その指ほどもないのではないかと思えるほどだ。
「……あなたが、王竜……ですか?」
震えてカチカチと歯が鳴るのを堪えながらなんとか言った。
全身が震えて膝から崩れそうになるのは怪我のせいではないだろう。
「いかにも。最低限の礼儀はあると認めよう。して、このような場所に何用だ」
ようやく来たと言いながら用件を聞くとは、一体どうなっているのだ。
竜にとっての様式美か何かだろうか。
「——先日、火竜を殺してしまったことへの謝罪と、罪を償いに、参りました……」
「ははははは! 人とは実に滑稽だ。人は他者を殺しても謝って済むのか? 贖罪も相応のものであろう」
地の底から這い上がるような笑い声に身震いする。
楽しげな雰囲気など微塵もない。
あるのは見下し、愚かさを嫌悪する負の感情のみ。
わかってはいたが歓迎されていないのは明確だ。
守り神を殺したなど謝って許されることだとは思っていない。
どんな贖罪をすれば良いかなど想像もできない。
王竜の正論に返す言葉もなく、ぎゅっときつく拳を握った。




