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王宮奇恋怪異譚  作者: 埴輪庭


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3.フェリクス

 ◆


 五日目の夕方、その廊下に差しかかったとき──アレシアはひゅっと息を吸い込んだ。前とは違う。全く違うのだ。


 背中だけではない。奇妙な冷気が胸の高さから足元にかけて広がっている。冷たいというより、湿っているような感じだった。


 不意に息苦しくなったアレシアの足が自然と速まる。すると、廊下の奥から微かな音が聞こえた気がした。何かを口ずさむような──歌というには途切れすぎていて、呻きというには柔らかすぎる音。水が古い管を流れているだけかもしれない。足を止めて耳を澄ましたが、もう聞こえなかった。


 角を曲がって東翼に出ると、嘘のように温かい。冷え込んだ背が()()()()()()()()()()()()()


 ──早く殿下に逢いたい


 そんな事を思いながら、アレシアはルキウスの書斎へと急いだ。


 ◆


 この日の帰り、馬車の窓から何気なく外を眺めていたときのことだ。


 石畳の通りを抜けて城下町の外れにさしかかる。日が暮れかけていた。冬の薄闇が建物の隙間から滲み出すように広がり、街灯の火がまだ届かない路地の奥は黒く塗りつぶされている。


 その暗がりに──メイド服の女が立っていた。


 馬車は走っている。一瞬で通り過ぎるはずだった。なのにその女の姿だけが妙にはっきり見える。白い肌。黒い髪。両手を体の横に垂らして、こちらを向いていた。


 こちらを向いている──のだと思う。しかし顔が、おかしい。


 目がない。


 目があるべき場所に、二つの黒い穴が開いている。眼窩だけがぽっかりと空洞になっていて──。


「止めて!」


 声が出ていた。アレシア自分でも驚くほど甲高い声だった。御者台で御者の男──ヨアヒムが手綱を引く。馬がいなないて馬車が傾いた。


「アレシア様、いかがなされましたか?」


 ヨアヒムが窓から顔を覗かせる。白髪交じりの口髭を蓄えた初老の御者は、アレシアが幼い頃から公爵家の馬車を任されている男だ。


「あそこに──あの路地の奥に、変な、女の人が」


 ヨアヒムは言われた方角を見遣り、首を振る。


「誰もおりませんな。野良猫の一匹も」


「でも確かに、メイドの服を着た──」


「この辺りは日暮れが早うございます。影が人の形に見えることもありましょう」


 ヨアヒムの声は穏やかだ。穏やかで、少しだけ心配そうな顔をしている。


「……アレシア様、差し出がましいことを申しますが、ここのところ毎日お城に通われて、お顔に疲れが出ておいでです。たまにはお休みになられたほうがよろしいのでは」


「大丈夫よ、ヨアヒム。……ごめんなさい、驚かせてしまって」


「とんでもございません。お嬢様をお守りするのが儂の務めでございますから」


 馬車が再び動き出す。アレシアは窓の外を見ないようにして、膝の上で手を組んだ。指先が震えている。目を閉じても、あの顔が瞼の裏に残る。空洞の眼窩。見えないはずなのにこちらを見ている顔。


 あれは疲れのせいだ。ヨアヒムの言う通り、影が人の形に見えただけだ。


 ──だったら、なぜメイド服だと分かったの。影が人の姿に見えたなら、白を基調としたメイド服になんて見えるはずがない。


 アレシアはそこまで考えて──


 頭の中で、()()()()()とメイドが何か関係あるのではないか、思った。


 荒唐無稽な考えであることはアレシア自身も理解している。その二つには何の関係性もないのだ。


 それなのにどうしても繋げて考えてしまう。


 ──目が


 そうだ、目がなかった。


 あの女には目が無かった。だが()()()()──アレシアを。


 骨の芯まで凍てつくほどの何かを、不可視の視線に込めて。


 その冷たさ、寒さをアレシアは、いや、アレシアの背は覚えていた。


 ◆


 翌日。


 王妃教育の後、ルキウスの書斎でいつものように談笑をしていると、侍従が息を切らせて飛び込んできた。


 ノックはあった。あったが、返事を待たずに扉が開いた。それだけで異常だと分かる。ルキウスの書斎に無断で踏み込む者など、アレシアがこの城に通い始めてから一度も見たことがない。


 若い侍従だった。額に汗が浮いている。冬の城内で汗をかくには、よほど走ったか、よほど動揺しているか──おそらくその両方だろう。


「殿下、少々──」


 侍従はアレシアの存在に気づき、言葉を切った。ルキウスは杯を卓に置き、軽く顎を引いて侍従を手招く。侍従が早足で歩み寄り、ルキウスの耳元に口を寄せた。


 囁きは聞こえない。だがルキウスの横顔は見えた。


 変化は、ほんの一瞬だった。目がわずかに見開かれた。声も漏らさず、眉も動かさない。ただ瞳孔がすこし広がったように見えた。そしてすぐに元の顔に戻る。あまりにも速く戻るので、かえって不自然だった。


 侍従が一歩下がる。


 ルキウスは数秒ほど黙って、それから侍従に短く何事かを指示した。侍従は一礼して足早に出ていく。


 書斎に二人だけが残る。


「──殿下?」


 ルキウスはアレシアのほうを向いた。が、すぐには話さなかった。右手の指先が卓の上で一度だけ小さく叩かれる。何かを量っている()だった。言うべきか、言わざるべきか。あるいは、どこまで言うか。


「フェリクスが死んだ」


 平坦な声だった。


「──え?」


「屋敷の自室で見つかったそうだ。詳しいことはまだ分からない」


 アレシアは言葉が出なかった。つい先日、この書斎で三人で茶を飲んだばかりではないか。フェリクスはあのとき、新しい税制の草案について早口でまくし立てていて、ルキウスが苦笑していて、クレメントが欠伸を噛み殺していた。あの怜悧な目をした男が──死んだ? 


「そんな──どうして」


「分からない。だからまず状況を把握しなければならない」


 ルキウスは立ち上がった。その動作はいつもと同じように滑らかで、いつもと同じように無駄がない。声も手も震えていなかった。


「すまない、今日はここまでにしてくれるか」


「もちろんです。……殿下」


 何か気の利いたことを言おうとした。だが出てこなかった。フェリクスはルキウスの友人だ。その友人が死んだのだ。それに対して何を言えば良いのか、アレシアにはまだ分からなかった。


「フェリクス様のこと、お悔やみ申し上げます」


 結局、それしか言えなかった。ルキウスは小さく頷いた。


「──ありがとう」


 その声だけが、ほんの少しだけ低い。


 アレシアは書斎を辞した。扉が閉まる直前に振り返ると、ルキウスは窓のほうを向いて立っていた。左手で肩を押さえて、首をやや傾げさせている。その仕草にアレシアはふと父親の事を思い出す。それは彼女の母が亡くなって一年後くらいの事だった。


 ・

 ・

 ・


 書斎の扉を開けると、ふわりと甘い香りがした。


 アレシアの父の書斎には、亡くなった母が好きだったパエノーラという薄い桃色の花が活けてある。蜜を薄めたような香りなのだが、どこか清涼感もあってアレシアも気に入っていた。


 だがそんな香りを楽しむのもつかのま、父が机に向かったまま左手で右の肩を押さえているのが目に入り、アレシアは小走りに机へと駆け寄った。眉間に皺を寄せ、首をゆっくりと傾げている。本が好きな人だった。放っておけば一晩中でも頁をめくっている。


「お父様、どうなさったの」


「ああ、アレシアか。──いや、昨晩つい読み耽ってしまってね。どうにも肩が」


 父は苦笑した。苦笑というよりは、娘に弱いところを見せた気恥ずかしさを誤魔化すような顔だった。


「肩こりって、どんなかんじなの」


「そうだな……何か重いものがずっと乗っかっているような感じだよ。ここから、このあたりにかけて」


 父は首の付け根から肩の端までを指でなぞってみせた。


「見えない荷物を背負わされているようなものでね。下ろしたいのに下ろせない。下ろし方が分からない。仕方ないから肩が重くなった時はもう寝るしかないのだが──」


「どうすれば治るの?」


 父は少し考えるふりをして──ふりだと分かるのは、目の奥がもう笑っていたからだ──それから悪戯っぽく口の端を持ち上げた。


「そうだなあ。アレシアが叩いてくれたら、治るかもしれないな」


「ほんとう?」


「ほんとうだとも」


「ふうん、ではわたくしが叩いてあげます」


 言うが早いか、アレシアは父の背に回っていた。小さな拳で肩を叩くと──


「おお、これは効く」


「嘘。ぜんぜん力入れてないもの」


「嘘ではないよ。アレシアの手は温かいからな。温かい手で触れられると、それだけで凝りがほぐれるものだ」


「じゃあ冷たい手で触れられるともっといっぱい凝ってしまうのですか?」


「うむ、うむ……そうかもしれんな」


「お父様はいまもずっしりと重そうなのに、これ以上重くなってしまうということですか?」


 悪意があっての言葉ではない事は父も分かっているので、苦笑しながら自身の腹に軽く触れ──


「うむ、うむ……? まあ、そうかもしれんな」


 とだけ答えるに留まった。


 ・

 ・

 ・


 ふと、そんな昔の思い出を思い出すアレシア。自身でもこんな時に、と思わないでもなかったが、思い出してしまったのだから仕方がない。 


 ちなみにフェリクスの死については、アレシアは残念だという以上の感情を持たなかった。感情移入するほどの関係性は両者の間には構築されていないのだ。


 だが、ルキウスは落ち込んでいるだろう──そう思ったアレシアは、ルキウスの傍にいてやりたいと思った。辛い時、悲しい時、話を聞いてくれる者がいるだけでも大分違うものだ。アレシアは母の死によって落ち込んだ父を随分と慰めた経験からそれを知っている。


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