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王宮奇恋怪異譚  作者: 埴輪庭


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最終話.蛇の子

 ◆◆◆


 冬至大宴から十日が過ぎた。


 公爵家の書斎には暖炉の火が静かに燃えている。パエノーラの薄い桃色の花が卓上の花瓶に活けてあり、蜜を薄めたような甘い香りがかすかに漂っていた。


 ダグラスは椅子に深く腰を下ろし、手元の書簡に目を落としていた。王宮からの公式通達だ。


 ルキウスは北の塔に送られた。


 北の塔というのは王都からやや離れた場所にある、言ってしまえば隔離施設で、処断されるほどでもない罪を犯した王族や重臣が収容される場所として古くから存在している。


 通達にはこうあった。ルキウスの症状は深刻であり、快復の見込みは現時点では立たない、と。冬至大宴のあの夜以降、ルキウスは一度も正気に戻っていないらしい。


 看守の報告がダグラスの手元にも回ってきている。ジャハールの配慮──いや、これは布石の一種だろう。宰相は今後の政局を見据えて公爵家との関係を再構築しにかかっている。まあ利害が一致するならば乗ればよい。


 看守の報告はこうだ。


 ルキウスは塔の一室で、居もしない誰かと話している。


 壁に向かって語りかけ、時に穏やかに微笑み、時に激昂して椅子を蹴り、時に床に額を擦りつけて謝罪し、許してくれと懇願する。その繰り返しだ、と。会話の相手の名を呼ぶ事もあるらしいが、看守には聞き取れなかったという。


 まあ──聞き取れなかったのか、聞き取れたが書けなかったのか。どちらでも良い。


 王太子の位は第二王子のピウスに移った。


 ピウスという男をダグラスはそれほどよくは知らない。社交の席で何度か顔を合わせた程度だ。印象としては──平凡。際立った才覚があるわけではなく、ルキウスの様な切れ者でもない。だが誠実だ、という評判は各方面から聞こえてくる。


 ──まあ、悪くはない。


 ダグラスが書簡を卓に置いたところで、ノックの音がした。


「入れ」


 扉が開き、アレシアが入ってきた。


 顔色は良い。ここのところ、妙なほどに良い。冬至大宴の前にあった凪──あの不自然な静けさは消えて、代わりに穏やかな、いつもの娘の顔がそこにあった。


「お父様、お呼びでしょうか」


「ああ。座りなさい」


 アレシアが向かいの椅子に腰を下ろす。ダグラスは紅茶を注いだ。自分の分を先に──いや、アレシアがダグラスの杯に先に注ぐのがいつもの流れだが、今日はダグラスのほうが手が早かった。


 アレシアが小さく笑う。


「……ありがとうございます」


「うむ」


 二人の間に沈黙が落ちた。暖炉の薪が小さく爆ぜる。パエノーラの香りが部屋の空気にゆるく溶けている。


 ダグラスは杯を一口含み、卓に戻した。


「殿下の件だが」


「はい」


「北の塔に移されたそうだ。回復の見通しは立っておらん」


 アレシアは頷いた。表情に動きはなかった。哀れみでも、快哉でもない。ただ聞いている。


「居もしない相手に話しかけ、怒鳴り、泣き、赦しを乞い──その繰り返しだと」


「……そうですか」


 ダグラスは杯の縁を親指でなぞった。なぞりながら、娘の顔を見ている。


 穏やかな顔だ。いつものアレシアだ。──いつものアレシアに、見える。


「アレシア」


「はい」


「一つ訊いて良いか」


「どうぞ」


「あの夜の事だが。全て計算の上だったのか」


 アレシアの指が杯の上で止まった。止まったのは一拍だけだったが、その一拍の中に色々なものが詰まっていた。


 ややあって、アレシアが口を開いた。


「お父様は──怒っていらっしゃいますか」


 声が小さかった。


 小さいだけではない。震えていた。あの冬至大宴の広間で王太子を追い詰めた時の凪はどこにもなく、ダグラスの前に座っているのは不安そうな顔をした娘だった。


 ダグラスは顎を撫でた。


「怒ってはおらん」


 アレシアの肩がわずかに下がった。


「怒ってはおらんが──少し驚いた。段取りに無かった三つ目を出した時はさすがに肝が冷えたぞ」


「……申し訳ございません」


「謝るな。結果を見れば文句のつけようがない」


 ダグラスは椅子の背にもたれた。


「そもそも──女を犯させ、捨て、その咎を死人に被せて知らぬ顔をする男だ。王太子だろうが何だろうが、そんな人間にお前を預けるわけにはいかん。許す許さぬ以前の話だ」


 声に怒気があった。押し殺してはいるが、隠しきれていない。ダグラスはこの件に関してはルキウスを人として軽蔑していた。


「だから婚約を切ると聞いた時、否とは言わなかった。破棄は成った。殿下は、いや、ルキウスは北の塔。公爵家に瑕はつかなかった。名分も立っている。結果だけ見るならば──うむ、文句はない」


 文句はない、と言った。言ったが、ダグラスの視線はアレシアの顔から外れていた。暖炉の炎を見つめている。


 あの時のルキウスの様子が頭にこびりついて剥がれない。


 金の髪を石の床に散らし、四つん這いで壁に這いずり、居もしない相手に絶叫した男。あれは演技ではなかった。政略が崩れた事への動揺でもない。もっと根の深い壊れ方だった。


 アレシアは広間の中央に立っていただけだ。一歩も動いていない。声を荒げてもいない。三つ目の理由を述べていたのは確かだが、あの程度の言葉で人間がああまで壊れるものか。


 ──壊れない。壊れるはずがない。


 ルキウスはアレシアの言葉以外の何かを見たのだ。アレシアの背後に、あるいはアレシアの中に、あるいは──アレシアと共にあの場にいた何かを。


 ダグラスの親指が顎の下で止まった。


「お父様」


 アレシアの声でダグラスの意識が引き戻される。


「お父様は以前、幽霊を信じないと仰っていましたね」


「ああ、言ったな」


「今もそうですか」


 ダグラスは答えなかった。


 暖炉の炎が揺れた。窓の外では冬の風が庭園の樫の木を揺すっている。


 長い沈黙だった。アレシアは急かさなかった。父がこうして黙り込む時は、言葉を選んでいるのではなく、言葉の重さを量っているのだと知っているからだ。


 ややあって、ダグラスの唇が動いた。


「儂は──自身の目で見た事がないものを軽々には信じぬ。経験した事がない事を容易く認める事もせぬ。それは今も変わっておらん」


 ダグラスは暖炉から目を離し、アレシアを見た。


「が──儂が知らぬ物事もある、というのは理解している。あれは、そういうものであった、と。そう理解している」


 信じるとも信じないとも言わなかった。理解している、とだけ言った。それがダグラスの精一杯であり、同時にダグラスの誠実でもあった。見ていないものを見たと言う気はない。だが娘の周囲で起きた事を、無かった事にする気もない。


 アレシアはしばらく父の顔を見つめていた。


 それから杯に口をつけ、一口含み、杯を卓に戻した。


「では──また同じような事が起きたならば」


 アレシアが椅子から腰を浮かせた。浮かせたというほど大袈裟な動きではない。ほんの少しだけ身を乗り出してきたのだ。卓を挟んだ距離が半歩分だけ縮まる。


「お父様は、信じないながらも──私を守ってくださいますか」


 声は穏やかだった。穏やかだが、問いの芯は硬い。


 そして──その目だ。


 ダグラスは娘の目を見て、一瞬だけ息を詰めた。


 何がどうという話ではない。アレシアの目に怒りがあるわけでも、涙があるわけでもない。ただ、こちらを見つめる瞳の温度が──()()のだ。娘が父に向ける甘えともまた違う。もっとこう、何というか。


 この感覚をダグラスは知っている。知っているが、それをアレシアの目に見るのは初めてだった。


 ──メリッサ


 妻の名が脳裏をかすめたのは、似ていたからではない。似ていたからではないのだが、同じ種類の()がそこにあった。奪われまいとするような、あるいは──繋ぎ止めようとするような。言葉にすると陳腐になるが、要はこちらの退路を塞ぐ目だ。この目で見つめられて否と言える男がどれほどいるかと問われれば、ダグラスは正直に言って自信がなかった。


 ──おかしいな


 父と娘の会話だ。父に守ってほしいと娘が言っている。それだけの話ではないか。


 それだけの話のはずなのに、ダグラスの喉の奥が妙に乾いた。


 アレシアはまだ身を乗り出したまま、ダグラスを見ている。


 ダグラスは杯に手を伸ばしかけ、やめた。紅茶で間を繋ぐのは逃げだと分かっていたからだ。何から逃げるのかは自分でもよく分からなかったが。


 暖炉の薪が爆ぜた。小さな火の粉が二つ三つ舞い上がり、煙突の闇に吸い込まれていく。


 ダグラスは暫く黙っていた。黙って、娘の目を見ていた。見返すうちに、あの妙な圧がじわりと胸の奥に染みてくるのを感じた。


 そうして結局──。


「うむ」


 とだけ頷いた。


 ダグラスは──自分がいま、かなり重い約束をしたのだという自覚だけはあった。


 ──『まあ、私によく似ているよ。いずれはお前の喉を切り裂く短剣にもなるだろうと見込んでいたのだがこの様だ』


 かつての政敵(とも)の言葉が、脳裏を過ぎる。

 

 アレシアはと言えば、ダグラスの返事に満足をしたのか身を引き──ほんの一瞬、ちろりと。


 まるで蛇のように自身の唇に赤い舌を這わせた。


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