1.陳腐なセリフ
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──酸っぱい。
葡萄酒を一口含んだ瞬間にアレシアはそう思った。
まあ酸っぱいだけならばよいのだが、自身のものではない黒い髪の毛が二本、三本と入っていたのをみつけ、壁際の席で顔をしかめる。
──風に流れて……? いえ、でも。
すわ嫌がらせか、と周囲を見回す。
『貴族というのは陰険な者が多いからな、アレシアも気をつけなさい』
そんな事を言っていた父の言葉を思い出す。
周囲では他家の令嬢たちが扇の陰で囁き合い、若い貴族が踊りの相手を探していた。アレシアはこういった場がどうも苦手で、父に引っ張られてくるたびに壁に寄るのだが──それはそれで、どこかいたたまれない気持ちになる。結句、杯の底を見つめて時間をやり過ごす夜が今年もまた始まったという次第だ。
早く帰りたい──そう思った矢先の事だった。
入口の空気が動いた。ひらひらと蝶の様に揺らいでいた幾つもの扇が止まる。
金の髪をした男が広間に入ってきた。燭台の光を吸い込んで髪が鈍く光る。礼服の仕立てに華美なところはないのに布地の落ち方が違う。
王太子ルキウスだった。名前は知っている。顔を見るのは初めてだった。──酸っぱい葡萄酒をもう一口飲み、卓上のチーズに手を伸ばしたところで、不意に声をかけられた。
「そこの席は空いているかな」
ルキウスが隣に立っていた。近くで見ると目尻に薄い笑い皺がある。笑みが口元ではなく目に出る顔だった。
「空いております、殿下」
「正直に言うと、踊りの申し込みが多くて疲れた」
王太子が壁際に逃げてくるのはこの社交界では前代未聞で、アレシアの背中に幾つもの視線が突き刺さる。ルキウスは気にした様子もなく杯を一口含んで、顔をしかめた。
「──酸っぱいな」
「……殿下もそう思われましたか」
「思った。帰ったら会計官に苦情を入れる。社交の場の酒がまずいのは国家の面目に関わる」
真顔だった。真顔なのが可笑しくて声を殺して笑い、笑ってからしまったと思ったが──ルキウスもつられて目を細めた。ああ、この人は笑うとこういう顔をするのだと、そのとき思った。
「君とは感性が合いそうだ。また顔を合わせたらよろしく頼むよ」
そう言って手を差し出してくるルキウス。この国では様々なシーンで握手が用いられる。まあそういう文化なのだ。
「はい、こちらこそ」
答えながらも手を握り返し、その手の冷たさに内心でびっくりとしてしまう。とはいえ不快感はない。この国では手が冷たいほど心が優しいとも言われている──まあ、何の根拠もない与太話なのだが、そんな話はどこの国にもごまんと転がっているはずだ。
それに、手と手がつながれてじんわりと温かくなっていく感覚は、二人の間に何かが育っていくような感もあり、アレシアは内心で少しだけ頬を赤らめたのだった。
◆
それから婚約に至るまでの三ヶ月を、アレシアは後になってもうまく説明できなかった。というのも、あれからあれよあれよという間に話が弾んでしまったのだ。そしてなにやらとんとん拍子──と言っていいのかは分からないが、何というか距離が縮まっていった。
で、二人はどうなったかというと──ルキウスが月に二度は公爵家を訪れる、そんな関係になったわけだ。
二人は書庫で王太子と公爵令嬢という立場にふさわしい堅苦しく生真面目で知的な話をし、一通り話すと母の墓前に手を合わせてルキウスが帰っていく。
「私は君を大切にする。何があっても守る」
婚約が決まった日に、庭園でアレシアはルキウスにそう言われた。
陳腐なセリフではある。
しかしアレシアには殊更強く突き刺さる言葉でもあった。幼い頃、彼女は似たような事を言われた事がある。その時の安心感たるや。だが物心つくにしたがって、その相手が決して結ばれぬ相手であると理解したときの絶望感が彼女の心に決して言えない穴を、瑕をつくった。
それがルキウスによって埋められていく、その心地よさ。
だから、アレシアはその誓いを受け入れた。




