足りすぎて足りなくなるもの
ハジメがまた来た。
今度はノックした。前は勝手に入ってきたのに。
「珍しいね、ノックなんて」
「大輔に怒られた。研究室はノックしろって」
「大輔くんに?」
「この前ここで会ってさ。あいつ、礼儀にうるさいのな」
大輔がまるくなったと思ったけど、ハジメにはまだ厳しいらしい。
「で、今日も土運び?」
「もう終わったよ。今日は詩織と一緒じゃないの?」
「家にいる。最近、一人で出かけることが増えた」
ハジメがそう言って、椅子に腰をおろした。
ハジメがボーッと植物をしばらく見ていた。
「なあレン」
「なに?」
「彼女と喧嘩したことある?」
「彼女いないけど」
「あ、そっか。じゃあ家族でもいいや。喧嘩する?」
「姉さんとはたまに。母さんとも」
「どんな喧嘩」
「喧嘩というか。たとえば、母さんが片付けろって言って、僕が後でって言って、っていう」
「それで?」
「それで、後で片付ける」
「最終的に片付けるんかい」
「そりゃね。ただ自分の主張はしないと」
ハジメが笑った。それから、少しだけ真顔になった。
「詩織とは、喧嘩しないんだよ」
「そうだろうと思うけど、仲が良くていいんじゃない」
「いや、そうじゃなくて。喧嘩にならないんだ」
ハジメがため息をついた。
「俺が何か言うだろ。詩織はそれを否定しない。俺が間違ってても、そうだねって言う。俺が機嫌悪くても、合わせてくれる。
喧嘩にならない。喧嘩する隙がない」
「いいことじゃないの?」
「いいことなんだよ。たぶん」
ハジメが額の汗を拭った。
「でも、なんか、違うんだよ。物足りないんだ」
涼香さんが少し離れたところで水やりをしていた。聞いているのか、いないのか分からない顔だった。
シャーロットはフィカスの前にいた。ミドリ先輩はノートを見ていた。
「そっか。でも、なんて言えばいいかわからないよ」
「俺にもわからん。わからんが欲しいものじゃない」
ハジメがその場に座り込んだ。土の上に。
「レンの母さんのカレーの話、前にしてたよな」
「したよ。味は完璧だけど物足りないって」
「そうそう。詩織がそれなんだ。完璧なんだよ。欲しかったものなんだけど、欲しいものじゃなかったって」
「いろいろ考えたんだね」
「うん、考えた。で、分かったことがある」
「何?」
「詩織と一緒にいると気分が沈まないんだ」
「いいことじゃないの?」
「だから、気分が上がらないんだ」
ミドリ先輩がノートから顔を上げた。聞いていた。
「詩織は失敗しない。家事も完璧、話し相手としても楽しい。毎回同じ完璧。それが、なんか」
ハジメが言葉を探した。
「つまんない」
その一言で、LMCが静かになった。
ハジメ自身、その言葉に驚いた顔をしていた。
自分で言って、自分でその言葉に引っかかっていた。
「完璧な彼女がいて、何不自由なくて、なのにつまらんって、贅沢だよな」
「贅沢かどうかは分からないけど」
僕は言った。
「それがわかったのならいいんじゃないの」
ハジメが僕を見た。
「お前、たまにいいこと言うな」
「たまにって何」
「いつもは何も言わないだろ」
「言うことがないだけ」
ハジメが笑った。
「ありがとう。また来るわ」
ハジメが言いたいことだけ言って出ていった。
ミドリ先輩と涼香さんがこちらを見た、聞いていたみたいだ。
シャーロットは知らんぷり。
2人はなんと言うかな。




