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杏の思い出  作者: 神井
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その日の夕方





彼方は杏の教会の床に寝そべっていた。




目に入るのは地上を覗き込む天使たち。






あれから約5時間。





彼方はやっと事の重大さを理解した。





美笛に自分の汚らわしい想いを知られてしまったこと。



さらに妄想でなく、現実に美笛を汚してしまったこと。




そして何よりも……








もう美笛に会えないこと。




彼方にとって美笛は聖域だった。




ずっと妹のように思ってはいた。



だが自分が美笛を支える以上に



美笛は自分を支えてくれていたのではないか。



確かに美笛にずっと声楽の指導をしてきたのは彼方だ。



しかし、二人の繋がりはそれだけではない。








表向きは自分が一方的に世話をしているようだったが、



精神的には彼方の方がずっと美笛に依存していた。



彼方はいつも自分を強そうに見せつけていた。




特に人前では気丈に振る舞っていた。



姉だから、特待生だから……



しっかりしなくてはいけない、



馬鹿にされてはいけないと



いつも気をはっていた。



しかし、内面は弱さでいっぱいだった。




だから時々お風呂や杏の教会の裏庭で一人涙していた。




そんな彼女にとって純粋で無邪気な美笛は心のよりどころだった。




癒しだった。




最初は美笛の照れ屋で可愛らしいところを好きになったのだが、




本当にそれだけだったのだろうか?




なぜ彼方はあんなに美笛の歌声が好きだったのだろう。




お世辞にも上手いとは言えない歌を。




なぜ美笛が輝いて見えたのだろう。




一見なんの特徴もない地味な美笛が。





美笛はあれだけ教師たちに詰られても



馬鹿にされても



成績が悪くても



聖歌隊で足枷扱いされても




恨み言も言わずに声楽を続けた。




3年間無遅刻無欠席を通した。




厭味を言われてもレッスンを投げ出すことはなかった。




彼女のそんな「芯の強さ」に惹かれていたのではないか。



彼方は改めてそのことに気づいていた。



美笛が捨て子だったと知ってから。



美笛の芯の強さはキリスト教信仰に基づくものだと考えていたが、




それは半分間違っていた。




彼女はクリスチャンだから強くいられるのではない。




強いからクリスチャンでいられるのだと。



強いから神の愛を信じて生きていられる。




何しろ、自分が美笛と同じ立場だったら




クリスチャンになるどころか神を呪っていた。




「なぜ自分ばかりこんな目に合うのだ」と。




神の愛を信じ、



前向きに生きていく美笛は



清く



強く



美しいと思った。





彼女の無邪気さ、天真爛漫さは




けして単純さからくるものではなかった。




それは強さだったのだ。








(わかっていたのに…)




なぜ美笛にあんな野蛮なことをしてしまったのだろう。





『京香、それは確かか!?』



『ええ……。先生たちが言うんだから間違いないわ。』




京香から美笛のウィーン行きのことを聞いて、




つい血圧を上げてしまった。




なぜ自分に黙って行こうとするのかと。




しかし、それは美笛が内気で気遣い屋だから




きっと言いづらかっただけなのだろう。




冷静に考えれば簡単なこと。




なんて自分は馬鹿なんだ。




なんて自分は幼稚なんだ。




まるでけだものじゃないか。




…美笛はどんな気持ちがしただろう。




とても想像がつかない。







彼方は立ち上がると





教会の門の外へ出た。





もう日が沈んでいて空には月が浮かんでいた。





ブワッと潮風が彼方の長い髪を揺らした。





3月はまだ春になりきれてないから風が冷たい。






彼方は何か覚悟を決めたように





ポケットから銀色のはさみを取り出した。






(…美笛…………君への想いを切りとらせて。)






潤んだ瞳を月に向けると





長い鳶色の髪を掴み






はさみを入れた。












続く。

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