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杏の思い出  作者: 神井
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教会にはパイプオルガンの音色がよく似合う。



日の沈んだ教会で練習に励む二人を



絵の中の殉教者たちだけが見守っていた。





「音程のことはこの際忘れてくれ。この歌は子供になったつもりで無邪気に歌って欲しい。」




こんなことを言うのは彼方くらいである。



講師からは「音痴」、「つんぽ」、「鈍感」などのけなし言葉ばかり言われていた。



「でも発音だけは注意して。

ラテン語の"u"はすごく綺麗な音なんだ。なるべく口を尖らせずに発音してくれ。そもそも口を尖らせて『ウ』と言うのは日本語くらいだから。」





彼方の声はしっかりしていた。




美笛はホッとしていた。




いつものサバサバした彼方だと。




手首にも新しい傷はなかった。




癖というわけではなくて




きっとあのときだけ特別だったんだろう。





「…何ボーっとしてんの?」




彼方がやや厳しい声で言った。



彼女の大きな瞳がキッと光る。




「…あっ…ごめんなさいっ。」




美笛は肩をすくめると照れながらこう言った。




「カナちゃんの声、聞き心地がよくて、ついぼんやりしてしまったの。」




確かに、彼方は歌が上手いだけでなく、




声そのものが美しい。




歯切れもよく、どこか威厳を感じる低音だ。





「そう?こないだセールスの電話に出たら、『息子さんですか?』って言われたんけど。」




彼方は眉間にシワをよせ、不愉快そうな顔をした。




「まあ!やだあ!」




美笛はくすくす笑った。




「笑わないでくれよ。」




事実、彼方の声は一瞬少年か少女か迷う。




見た目はモデル系の美少女であるのに。




「何で今ごろそんなこと言うのさ。僕の声ならこの3年間、ほぼ毎日聞いてたじゃん?」




そりゃそうだ。




何で今更。




彼方がそう思ったのも無理はない。




「ううん、いままでずっと思ってたの。急に言ってみたくなっただけよ。」




美笛はにこにこしてそう言った。




彼方は何かひっかかるような感じがしたが、




受け流すことにした。




いままで何気なく聞いていた彼方の声を改めて美しいと感じた。




それは美笛があることを決心していたからだ。








続く。

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