ビーフシチュー
私には誰にも話すことのできない趣味があります。それは、世間一般では悍ましいと言われる行為であります故、私はとても苦々しく、狭苦しい日々を送っていました。
「ねぇ、君、そこの喫茶店の新作メニュー食べたかい」
大学の食堂で昼食を摂っていると、同じ科で同じサークルに属している彼が話掛けてくれました。
「いいや、食べてないよ。第一そんな金、今の私にはないよ」
「そうか。そりゃ、残念だ。とても美味かったんだよ、新作」
「その新作とやらはなんなんだい? パンケーキかい? それともご飯系なのかい?」
「ご飯系だ。 君の好きなビーフシチューだ」
私は大してビーフシチューが好きなわけでは無いのですが、彼から見る私は、心底ビーフシチューが好きなようでした。何故そう思ったのかと言いますと、彼の目です。彼の目が、『お前、心底ビーフシチューが好きだろう』と言う目をしていたのです。
「そんなに美味しかったのかい」
「嗚呼、もう絶品だ。ソースは濃厚だが胃にもたれる事なくスッキリで、肉は口に入れた瞬間、ホロホロと崩れて喉に流れていく。そんでもって、マッシュルームが入ってるんだ。そのマッシュルームもまた程よくとろけるんだ。どうだ、食べたくなっただろう」
確かに美味しそうです。思わず話を聞いているだけで、唾を飲んでしまいました。
「嗚呼、食べたくなった。とても、とても。だがさっきも言ったが、今は金が無いんだ。素寒貧だ。ほら見てみろ、もう298円しか入ってないだろう」
財布を限界まで広げ、彼の目の前に押し出し見せますと、彼は目を丸くし驚いていました。
「君、これは小学生の財布かい? 大学生でこの量の金ってのは些かどうかと思うぞ」
「色々あるんだよ、私にも。ところでそのビーフシチューは幾らだったんだい」
「650円」
「650円か、無理だな」
彼は一息吐いてから口を開きました。
「そりゃ無理だろうな」
「だがまぁ、近々金が入る予定はあるんだよ。ほんの小遣い程度だがね」
彼の顔は疑いに満ち満ちておりました。無理もありません。何せ、財布の中身が298円なのですから。
「本当だよ? 本当に入るんだよ。ちっと友人の手伝いをしたんだ」
「友人? 君に?」
何と失礼なのでしょう。私にだって友人の一人や二人おります。少々癖が強く、人に紹介できないだけなのです。
「いるよ友人くらい。まぁともかく、今月の末には入るから、その時食べてみるよ」
「おう、まぁ、食べてくれるんなら良いんだ。共感してくれるなら」
「共感できるかは保証しかねるぞ」
「するさ。俺の勘は鋭いんだ」
そう言いますと、彼は手をヒラヒラと左右に振り食堂を出て行きました。私はそれを見届け、昼食へともどりました。
昼食を終え、午後の講義を受けようと廊下を歩いておりますと一人の女性が私に話し掛けてきました。
「あの、298円さんですか」
「え、は、はい?」
突然の私の財布の中身を問われ酷く狼狽しました。何故私の財布の中身を知っていて、そしてそれが何故私のニックネームになっているのだろうかと、酷く困惑しました。まあ、答えは分かり切っているのですが。女性はキャッと声を上げて手を差し出してきました。
「よかったらこの飴受け取ってください」
差し出された包みには紅茶味と記されています。
「あ、ありがとうございます」
私はありがたく包みを受け取りました。すると女性はクスクスと笑いながら走って行ってしまいました。それを見届け終わる頃には私の顔は紅色へと変わっておりました。急いで講義場へ行き、先に来ているはずの彼の姿を探していると、向こうの方が先に私を見つけていたらしく、手をひらひらと振っておりました。
「君ね、あんな女性に教えるなんてどういった了見だい。恥ずかしくて死んでしまうかと思ったぞ」
「勝手に言って悪かったね。だが飴を貰えたろ。彼女は困っている人間に飴をやるって有名なんだよ。だから話したんだ」
「少しでも腹の足しになれば良いと思ったってことかい?」
「腹の足し云々というよりは、嗜好品の一つもないと詰まらんだろうと思ったんだ」
「君は本当憎めない奴だな」
「そりゃどうも」
彼の返事は少々ぶっきら棒に感じられました。きっと言われ飽きているのでしょう。
「ところで、もう誰にも言ってないだろうね」
「言ってないよ。言ったろう、彼女は施しで有名だったって」
「いや、一応ね一応」
彼は気を悪くしたようで、仏頂面で黒板を見つめて黙ってしまいました。私は何か話題を振り、気を取らねばと思い口を開きました。
「あ、そうそう。先程は濁したがね、金は実は明々後日に入るんだ。だから明々後日金が入ってすぐビーフシチューを食べに行こうと思うよ」
「そうかい。そりゃあ良い」
こういった反応を見る度に私は胃が縮まる思いになるのです。といいますのも、この些細なわだかまりから、私の弱みを握り、貶めようと探られ、その果てに趣味がばれてしまうのではないかと思うのです。ですが過度なご機嫌取りは逆効果になることを私は知っております。ですので、私はこれ以上彼に話し掛ける事が出来ないのでした。
結果、その日彼に話し掛ける事は之っきりありませんでした。故に私の気もまた重いままなのでした。そしてこうも気が重いと、またあの趣味に走ってしまうのです。
私は急いで我が家へと走り、鍵を開け、襖を勢いよくスライドさせ押し入れからマネキンを取り出すのでした。




