黒い土と、緑の芽生え
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
第七話、ついに約束の三週間が訪れます。
イザベラは、絶望に慣れきった村人たちに、科学という名の「結果」を示すことができるのか。物語の最初のクライマックスです。
約束の三週間が満ちた日、ヴェルテンベルク領の空は、まるで私たちの未来を試すかのように、鉛色の雲に覆われていた。冷たい風が吹き荒れ、枯れ木が不気味な音を立てて揺れている。
村の広場には、ほとんど全ての村人たちが集まっていた。彼らは固唾を飲んで、広場の中央に鎮座する巨大な堆肥枠を見つめている。三週間前、私が村長に啖呵を切ったあの日から、この木枠は村の風景の中心となった。最初は嘲笑と侮蔑の対象でしかなかったそれは、発酵熱という目に見える「温もり」を生み出してからは、畏怖と、そして今や、かすかな期待の対象へと変わっていた。
「お嬢様、時間でございます」
アルフレッドが、緊張した面持ちで私に告げる。彼の忠実な手は、今や私の実験手順を完璧に覚え、私の右腕として機能してくれている。
「ええ、わかっているわ」
私は頷き、村人たちの前に進み出た。その視線は、三週間前とは明らかに違う。そこには、最後の希望を託すような、祈るような色が混じっていた。
「皆さん、お集まりいただき感謝します。本日が、約束の日です」
私は静かに告げると、エリックに目配せをした。彼は力強く頷き、数人の男たちと共に堆肥枠の側面に取り付けられた板を、慎重に取り外し始めた。
板が外された瞬間、集まった村人たちから、どよめきと、驚嘆の声が上がった。
堆肥枠の中から現れたのは、もはや枯れ草や糞尿の成れの果てではなかった。それは、しっとりとした湯気をまとう、漆黒の土の塊だった。灰色で砂のように乾ききったこの土地の土とは、全くの別物。生命力に満ち溢れた、豊かな森の奥深くにある腐葉土のような、濃厚で、甘い土の香りが広場に満ちていく。
「……なんだ、これは……」
村長が、震える声で呟いた。
「土……だよな? 俺たちの知ってる土とは、まるで違う……」
エリックが、その黒い土を両手ですくい上げ、村人たちに見せる。彼の武骨な手のひらの上で、それはまるで黒い宝石のように見えた。
「これが、私が言っていた『贈り物』です。この土地を蝕む毒――魔法機械を喰らい、養分へと変える微生物たちの働きによって生まれた、新しい命の土。私が『腐植土』と名付けたものですわ」
(正しくは完熟堆肥だけど、この世界の人々には、より分かりやすい言葉で伝える必要があるわね)
私は内心で補足しながら、説明を続ける。
「この土には、植物が育つために必要な栄養が、たっぷりと含まれています。ですが……」
私は言葉を切り、集まった村人たちの顔を一人一人見渡した。
「言葉だけでは、信じられないでしょう。科学とは、結果が全て。再現性のある事実こそが、その正しさを証明する唯一の術なのですから」
私はアルフレッドに合図を送る。彼が恭しく差し出したのは、小さな麻袋と、水で満たされた桶だった。
「この袋の中には、『ラディッシュ』の種が入っています。この辺りの地域でも、かつては栽培されていたと聞いていますわ。成長が早く、寒さにも比較的強い。最初の実験には最適な作物です」
私は袋から数粒の種を取り出し、村人たちに見せる。小さく、茶色い、何の変哲もない種だ。
「そして、この桶の水。これには、私が培養した別の微生物――植物の根の成長を助ける特殊な菌を溶かし込んであります。いわば、赤ん坊にとっての栄養満点のミルクのようなもの。これで、種が芽を出す力を、最大限に引き出してあげます」
私は種を桶の水に浸し、しばらく待つ。これは、前世の農業技術でいうところの「種子プライミング処理」に近い。発芽のスイッチを強制的に入れるための、科学的な下準備だ。
その間に、エリックたちが、村の片隅にあった古い木箱に、完成したばかりの腐植土を詰めていく。即席のプランターだ。
準備が整った。私は桶から種を取り出し、黒い土が満たされた木箱に、指でそっと穴を開け、一粒、また一粒と、丁寧に植えていく。
村人たちが、息を殺してその様子を見守っている。彼らの視線は、私の指先に集中していた。
全ての種を植え終えると、私は桶に残った栄養豊富な水を、上から静かに注いだ。黒い土が、命の水をごくりと飲み込むように吸収していく。
「……これで、終わりですわ」
私が立ち上がると、村人たちの間に、失望とも困惑ともつかない空気が流れた。
「終わり……ですと? 令嬢様」
村長が、訝しげに尋ねる。
「何か、こう……光ったり、奇跡が起きたりはしないので?」
「ええ。科学とは、地道なものですから。ですが、ご安心を。この土の中で、今、確かに新しい命が目覚めようとしています。結果は、必ず現れます」
だが、長年の絶望は、そう簡単には拭えない。村人たちの間に、ざわめきが広がる。
「やっぱり、口だけだったんじゃないか……」
「俺たちの期待を弄びやがって……」
不穏な空気が流れ始めた、その時だった。
「待て!」
声を張り上げたのは、エリックだった。彼は、不満を口にする村人たちの前に立ちはだかった。
「あんたたちは、もう忘れたのか! この三週間、俺たちが何を見てきたかを! あの冷たい堆肥が、生き物のように温かくなったのを、この手で触れたじゃねえか! あの令嬢様は、一度だって俺たちに嘘をついたか? 俺は、信じる。この人が、俺たちの最後の希望なんだ。だから、黙って待て!」
彼の魂からの叫びに、村人たちは押し黙った。
私は、静かに彼に感謝の視線を送る。そして、村人たちに向かって告げた。
「ありがとうございます、エリック。ですが、長くお待たせはしませんわ。明日の朝、もう一度、ここにお集まりください。その時には、私の言葉が真実であったと、皆さんのその目で確かめることができるでしょう」
その夜、私はアルフレッドと共に、教会の蝋燭の灯りの下で、静かに時間を過ごしていた。
「お嬢様、本当に……明日には芽が?」
「ええ、きっと。私が育てた根粒菌と、プライミング処理の効果は絶大よ。それに、あの腐植土の窒素・リン酸・カリのバランスは、私が計算した通りなら、完璧なはずだから」
私は自信を持って答えたが、心の片隅に、わずかな不安がなかったわけではない。ここは異世界だ。前世の常識が、全て通用するとは限らない。もし、明日、何も起きていなかったら……。
いや、弱気になってはダメだ。科学を信じるのよ、茅野莉子。
翌朝。夜明けと共に、私は広場へと向かった。すでに、昨日よりも多くの村人たちが、遠巻きに木箱を囲んでいた。
私は人垣をかき分け、木箱の前に膝をつく。
そして、息を呑んだ。
黒い土の表面を突き破って、小さな、しかし力強い、二葉の緑の芽が、いくつも顔を出していたのだ。夜露に濡れたその葉は、まるで生まれたての赤ん坊のように、朝日を浴びてきらきらと輝いていた。
「……芽だ」
誰かが、かすれた声で言った。
「芽が出てる……!」
「おお……神よ……」
村人たちが、次々に木箱の周りに駆け寄る。誰もが、信じられないものを見るような目で、その小さな緑を見つめている。
村長が、震える指で、そっとその芽に触れた。
「……本物だ。幻じゃない……」
次の瞬間、広場は、歓喜の渦に包まれた。泣き出す者、抱き合う者、天に感謝を捧げる者。
エリックの妻が、ハンナを抱きしめながら、私の前に来て深く頭を下げた。
「ありがとうございます……令嬢様……ありがとうございます……!」
その声は、涙で震えていた。
私は、静かに立ち上がり、歓喜に沸く村人たちを見渡した。
これは、奇跡じゃない。魔法でもない。
絶望の淵に立たされた人間が、知識と、勇気と、そして諦めない心で掴み取った、科学の勝利なのだ。
私の頬を、一筋の温かいものが伝っていく。それは、悪役令嬢イザベラのものでもなく、研究者・茅野莉子のものでもない、ただ、目の前の光景に心を揺さぶられた、一人の人間の涙だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ついにイザベラは、科学の力で「結果」を示し、村人たちの心を完全に掴みました。彼女の逆転劇の、本当の第一歩です。
次回は、本日のお昼に更新予定です。
次回「領地改革、始動」。村人という強力な味方を得たイザベラが、本格的な領地の再生計画に着手します。
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