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『追放悪役令嬢の発酵無双 〜腐敗した王国を、前世の知識(バイオテクノロジー)で美味しく改革します〜』  作者: 杜陽月
黒い土に種を蒔く

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発酵熱と、人の温もり

実験条件: 科学が生む熱は、人の心にも届くか。

エリックが堆肥枠の造成を始めてから、一週間が過ぎた。

 村の広場の隅に設置された、粗末だが頑丈な木枠。その中には、エリックが毎日黙々と集めてきた枯れ草や落ち葉、家畜の糞尿などが、層を成して積み上げられている。

 そして、その各層には、私が教会で丹精込めて培養した雪のように白い種菌が、アルフレッドの手によって丁寧に振りかけられていた。

 村人たちの反応は、予想通りの冷淡さ。


「見ろよ、エリックのやつ、まだやってるぜ」


「公爵令嬢の黒魔術にでもかぶれたか。あんな汚物を集めて、村に呪いを撒き散らす気だ」


「元は腕利きの兵士だったのにな。すっかり腑抜けちまった」



 決意。

 遠巻きに投げかけられる嘲笑と侮蔑の言葉。エリックはそれに一切耳を貸さず、ただ黙々と作業を続けていた。

 彼のその無骨な背中だけが、私の計画における唯一の希望だった。



 凍りつく思考。

 変化の兆しは、思わぬ形で訪れた。秋が深まり、辺境の朝晩の冷え込みが、肌を刺すように厳しくなってきた頃のことだ。

 その日の早朝、私はアルフレッドと共に、堆肥の様子を確認するために広場へ向かった。堆肥枠の中では、私の愛しい微生物たちが順調に活動しているはずだ。

 有機物の分解が進む過程で、彼らは熱を発生させる。いわゆる、発酵熱だ。この熱が、さらなる分解を促進し、良質な堆肥を作り出す鍵となる。

 広場に近づくと、堆肥枠の周りに、数人の村人たちが集まっているのが見えた。また何か文句を言いに来たのかと身構えたが、様子が違う。

 彼らはただ、呆然とした表情で、堆肥枠から立ち上るうっすらとした湯気を眺めていた。


「……なんだ、ありゃあ……」



 胸騒ぎ。

 揺るぎない、事実。

「湯気……? まるで、生き物が息をしているみてえだ……」


 村人たちがざわめく中、輪の中心にいたのは、エリックとその娘、確かハンナという名の、まだ五歳ほどの小さな少女だった。

 ハンナは、父親の制止も聞かず、堆肥枠に駆け寄ると、その小さな両手を木枠にそっと触れた。


「……あったかい」


 少女の無邪気な一言が、しんと静まり返った広場に響き渡った。


「お父さん、ここ、あったかいよ! ぽかぽかする!」


 エリックは驚いた顔で、自らも堆肥枠に手を触れる。そして、目を見開いた。


「本当だ……。おい、みんな、来てみろ! ここは、暖かいぞ!」


 胸の痛み。

 彼の言葉に、恐る恐る近づいてきた村人たちが、次々に堆肥枠に手を触れていく。そして、誰もが驚きの声を上げた。


「本当だ! じんわりと温かい!」


「火も焚いてねえのに、なんでこんな……」


「これが……あの令嬢様の言っていた……」


 私は、アルフレッドと共に、ゆっくりと彼らに近づいた。村人たちが、モーゼの海のように道を開ける。彼らの目に宿っていたのは、もはや侮蔑や敵意ではなかった。

 理解を超えた現象に対する、畏怖と、そしてほんのわずかな好奇心の色だった。


「おはようございます、皆さん。私の『実験』の経過は、順調なようですね」


 長い、沈黙。

 私が穏やかに告げると、村長が代表して、震える声で尋ねてきた。


「こ、公爵令嬢様……。これは、一体……どのような魔法なのでございますか?」


「ですから、魔法ではないと申し上げたはずですわ。これは、科学。目に見えないほど小さな生き物たちが、この中で一生懸命に働いてくれている証拠なのですよ」


 私は、集まった村人たち――特に、寒さに体を震わせる子供たちを見渡して、できるだけ分かりやすい言葉を選んで説明を続けた。


「彼らは、皆さんが集めてくれた枯れ草や落ち葉を『ごはん』として食べて、体を動かしています。人間が食事をして体を動かすと、体が温かくなるでしょう?」


 一拍の間があった。


「それと全く同じこと。たくさんの小さな生き物たちが、この中で一斉にごはんを食べているから、こんなにも温かくなるのです。これは、生命が生み出す温もりなのですよ」


 凍りつく空気。

 私の言葉に、村人たちは完全に理解したわけではないだろう。だが、「ごはんを食べて温かくなる」という比喩は、彼らの心にすとんと落ちたようだった。

 ハンナが、母親の背後からひょっこりと顔を出し、尋ねてきた。


「おねえちゃん。この子たち、たくさんごはんを食べたら、どうなるの?」


「良い質問ね、ハンナ。彼らは、たくさんごはんを食べた後、とても素晴らしい『贈り物』をしてくれるのよ。」


(……この子。「すごい」でも「こわい」でもなく、「どうなるの?」と聞いた)


 その問いの立て方に、私は一瞬、息を呑んだ。

 前世の、まだ小さかった頃の私——茅野莉子が、初めて顕微鏡を覗いた日のことを、思い出したからだ。あの日も、私は「きれい」ではなく「なぜ動いているの?」と聞いた。


(……この子には、「なぜ」を問う力がある。科学者の、最も大切な種が)


 一拍の間があった。


「それは、どんな痩せた土地でも、美味しい野菜がたくさん育つようになる、魔法のような黒い土。あなたたちが、もう二度と、お腹を空かせなくても済むようになるための、大切な贈り物よ」


 私の言葉に、ハンナの母親――エリックの妻が、はっとした顔で私を見た。彼女は、この村に来てから、私が初めて目にする、希望の色を宿した瞳をしていた。


 覚悟。

 その日を境に、村の空気は劇的に変わった。

 エリックが一人で続けていた堆肥作りは、いつしか村の男たちの共同作業になっていた。

 女たちは、調理で出た野菜のクズを、子供たちは、森で集めた落ち葉を、毎日堆肥枠へと運んでくるようになった。

 彼らの目的は、まだ「黒い土」への期待よりも、発酵熱が生み出す「温もり」にあったかもしれない。

 冷たい風が吹く日には、堆肥枠の周りが、自然と村人たちの憩いの場になった。

 子供たちはそこで暖を取り、大人たちは、立ち上る湯気を眺めながら、ぽつりぽつりと、未来の話をするようになった。


「この土ができたら、まずはカボチャを植えたいもんだな。あれは、冬まで持つから」


「俺は、娘に腹いっぱい芋を食わせてやりてえ」


 それは、私がこの村に来てから、初めて聞いた、前向きな言葉だった。


 そして、私の研究室にも、変化が訪れた。


「お嬢様、本日の培養液の糖度、測定いたしました。昨日より0.5ポイント低下しております」


「ありがとう、アルフレッド。菌の活動が活発になっている証拠ね。そろそろ、次の段階に移りましょうか」


 アルフレッドは、今や私の最も信頼できる助手となっていた。

 彼は驚くべき速さで科学的な手順を覚えた。

 私が前世の記憶から再現した簡易的な糖度計やpH測定紙(リトマスゴケという植物の色素を利用したものだ)を、完璧に使いこなしている。


「それにしても、不思議でございますな。目に見えぬほど小さなものが、これほど大きな熱を生み出すとは。かがく、とは、実に奥が深い」


「ええ、そうよ。そして、人の心も同じかもしれないわね、アルフレッド」


 私は、窓の外で、堆肥枠を囲んで談笑する村人たちの姿を眺めながら言った。


「たった一つの小さな希望の熱が、凍てついた人の心をも、ゆっくりと溶かしていくのかもしれないわ」


 私の言葉に、アルフレッドは深く頷いた。

 約束の三週間まで、あと一週間。堆肥枠の中では、枯れ草や落ち葉が、徐々にその形を失い、黒く、しっとりとした塊へと変わり始めていた。

 それは、この土地で、何十年も忘れ去られていた、豊かな土の匂いだった。

発酵は、待つことだ。——そして、待った者だけが知る味がある。


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