発酵熱と、人の温もり
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
第六話では、イザベラの科学が、思いもよらない形で村人たちの心に変化をもたらします。
冷え切った土地に生まれた、一つの温かな奇跡。どうぞお楽しみください。
エリックが堆肥枠の造成を始めてから、一週間が過ぎた。
村の広場の隅に設置された、粗末だが頑丈な木枠。その中には、エリックが毎日黙々と集めてきた枯れ草や落ち葉、家畜の糞尿などが、層を成して積み上げられている。そして、その各層には、私が教会で丹精込めて培養した雪のように白い種菌が、アルフレッドの手によって丁寧に振りかけられていた。
村人たちの反応は、予想通り冷ややかだった。
「見ろよ、エリックのやつ、まだやってるぜ」
「公爵令嬢の黒魔術にでもかぶれたか。あんな汚物を集めて、村に呪いを撒き散らす気だ」
「元は腕利きの兵士だったのにな。すっかり腑抜けちまった」
遠巻きに投げかけられる嘲笑と侮蔑の言葉。エリックはそれに一切耳を貸さず、ただ黙々と作業を続けていた。彼のその無骨な背中だけが、私の計画における唯一の希望だった。
変化の兆しは、思わぬ形で訪れた。秋が深まり、辺境の朝晩の冷え込みが、肌を刺すように厳しくなってきた頃のことだ。
その日の早朝、私はアルフレッドと共に、堆肥の様子を確認するために広場へ向かった。堆肥枠の中では、私の愛しい微生物たちが順調に活動しているはずだ。有機物の分解が進む過程で、彼らは熱を発生させる。いわゆる、発酵熱だ。この熱が、さらなる分解を促進し、良質な堆肥を作り出す鍵となる。
広場に近づくと、堆肥枠の周りに、数人の村人たちが集まっているのが見えた。また何か文句を言いに来たのかと身構えたが、様子が違う。彼らはただ、呆然とした表情で、堆肥枠から立ち上るうっすらとした湯気を眺めていた。
「……なんだ、ありゃあ……」
「湯気……? まるで、生き物が息をしているみてえだ……」
村人たちがざわめく中、輪の中心にいたのは、エリックとその娘、確かハンナという名の、まだ五歳ほどの小さな少女だった。ハンナは、父親の制止も聞かず、堆肥枠に駆け寄ると、その小さな両手を木枠にそっと触れた。
「……あったかい」
少女の無邪気な一言が、しんと静まり返った広場に響き渡った。
「お父さん、ここ、あったかいよ! ぽかぽかする!」
エリックは驚いた顔で、自らも堆肥枠に手を触れる。そして、目を見開いた。
「本当だ……。おい、みんな、来てみろ! ここは、暖かいぞ!」
彼の言葉に、恐る恐る近づいてきた村人たちが、次々に堆肥枠に手を触れていく。そして、誰もが驚きの声を上げた。
「本当だ! じんわりと温かい!」
「火も焚いてねえのに、なんでこんな……」
「これが……あの令嬢様の言っていた……」
私は、アルフレッドと共に、ゆっくりと彼らに近づいた。村人たちが、モーゼの海のように道を開ける。彼らの目に宿っていたのは、もはや侮蔑や敵意ではなかった。理解を超えた現象に対する、畏怖と、そしてほんのわずかな好奇心の色だった。
「おはようございます、皆さん。私の『実験』の経過は、順調なようですね」
私が穏やかに告げると、村長が代表して、震える声で尋ねてきた。
「こ、公爵令嬢様……。これは、一体……どのような魔法なのでございますか?」
「ですから、魔法ではないと申し上げたはずですわ。これは、科学。目に見えないほど小さな生き物たちが、この中で一生懸命に働いてくれている証拠なのですよ」
私は、集まった村人たち――特に、寒さに体を震わせる子供たちを見渡して、できるだけ分かりやすい言葉を選んで説明を続けた。
「彼らは、皆さんが集めてくれた枯れ草や落ち葉を『ごはん』として食べて、体を動かしています。人間が食事をして体を動かすと、体が温かくなるでしょう? それと全く同じこと。たくさんの小さな生き物たちが、この中で一斉にごはんを食べているから、こんなにも温かくなるのです。これは、生命が生み出す温もりなのですよ」
私の言葉に、村人たちは完全に理解したわけではないだろう。だが、「ごはんを食べて温かくなる」という比喩は、彼らの心にすとんと落ちたようだった。ハンナが、母親の背後からひょっこりと顔を出し、尋ねてきた。
「おねえちゃん。この子たち、たくさんごはんを食べたら、どうなるの?」
「良い質問ね、ハンナ。彼らは、たくさんごはんを食べた後、とても素晴らしい『贈り物』をしてくれるのよ。それは、どんな痩せた土地でも、美味しい野菜がたくさん育つようになる、魔法のような黒い土。あなたたちが、もう二度と、お腹を空かせなくても済むようになるための、大切な贈り物よ」
私の言葉に、ハンナの母親――エリックの妻が、はっとした顔で私を見た。彼女は、この村に来てから、私が初めて目にする、希望の色を宿した瞳をしていた。
その日を境に、村の空気は劇的に変わった。
エリックが一人で続けていた堆肥作りは、いつしか村の男たちの共同作業になっていた。女たちは、調理で出た野菜のクズを、子供たちは、森で集めた落ち葉を、毎日堆肥枠へと運んでくるようになった。彼らの目的は、まだ「黒い土」への期待よりも、発酵熱が生み出す「温もり」にあったかもしれない。冷たい風が吹く日には、堆肥枠の周りが、自然と村人たちの憩いの場になった。子供たちはそこで暖を取り、大人たちは、立ち上る湯気を眺めながら、ぽつりぽつりと、未来の話をするようになった。
「この土ができたら、まずはカボチャを植えたいもんだな。あれは、冬まで持つから」
「俺は、娘に腹いっぱい芋を食わせてやりてえ」
それは、私がこの村に来てから、初めて聞いた、前向きな言葉だった。
そして、私の研究室にも、変化が訪れた。
「お嬢様、本日の培養液の糖度、測定いたしました。昨日より0.5ポイント低下しております」
「ありがとう、アルフレッド。菌の活動が活発になっている証拠ね。そろそろ、次の段階に移りましょうか」
アルフレッドは、今や私の最も信頼できる助手となっていた。彼は驚くべき速さで科学的な手順を覚え、私が前世の記憶から再現した簡易的な糖度計やpH測定紙(リトマスゴケという植物の色素を利用したものだ)を、完璧に使いこなしている。
「それにしても、不思議でございますな。目に見えぬほど小さなものが、これほど大きな熱を生み出すとは。かがく、とは、実に奥が深い」
「ええ、そうよ。そして、人の心も同じかもしれないわね、アルフレッド」
私は、窓の外で、堆肥枠を囲んで談笑する村人たちの姿を眺めながら言った。
「たった一つの小さな希望の熱が、凍てついた人の心をも、ゆっくりと溶かしていくのかもしれないわ」
私の言葉に、アルフレッドは深く頷いた。
約束の三週間まで、あと一週間。堆肥枠の中では、枯れ草や落ち葉が、徐々にその形を失い、黒く、しっとりとした塊へと変わり始めていた。
それは、この土地で、何十年も忘れ去られていた、豊かな土の匂いだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
イザベラの科学が生み出した「発酵熱」が、村人たちの凍てついた心を少しずつ溶かし始めました。彼女の周りに、温かなコミュニティが生まれようとしています。
次回は、明日更新予定です。
次回「黒い土と、緑の芽生え」。ついに、約束の三週間が訪れます。イザベラは、村人たちに「結果」を示すことができるのか。
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