科学の証明
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
偽りの楽園の地下深くに、息を潜めていた『抵抗者』たち。イザベラたちは、絶望的な状況の中で、ついに仲間となりうる存在と出会いました。しかし、彼らの最後の聖域すらも、教皇の放った、静かなる科学の刃に蝕まれていました。
彼らの命綱である水耕農園を救うこと。それが、イザベラが彼らの信頼を勝ち得るための、唯一の試練となります。
「……これが、我らの絶望だ」
根のリーダー、カエルの声は、乾いていた。
彼の案内で、私たちは、地下集落の心臓部である、水耕栽培区画の最深部に立っていた。そこは、もはや希望の菜園ではなかった。死と、腐敗の匂いが満ちる、静かな墓場だった。
青白い光を放つ苔に照らされた、巨大な水槽の列。そのほとんどが、元気に育っていたはずの野菜の、見るも無残な残骸で満たされている。葉は黄色く萎れ、水に浸かった根は、あの忌まわしい、灰色のカビのようなものに覆われ、どす黒く腐り落ちていた。
「あんたの言う通りかもしれん。これが、教皇が放った、静かなる暗殺者だというのならな」
カエルは、水槽の縁を、指でなぞった。その指先には、ぬるりとした、灰色の粘菌が付着する。
「だが、我らにとっては、神罰も、科学も、同じことだ。我らは、ただ、ここで静かに死を待つしかない。……違うか?」
彼の瞳が、私を射抜く。その奥にあるのは、期待ではない。長年の絶望が生み出した、冷たい、試すような光だった。お前も、これまでの大人たちと同じように、口先だけの希望を語り、そして我々を見捨てるのだろう、と。
「……いいだろう。ならば、見せてもらおうか。あんたの言う、『科学』とやらが、我らの絶望に、光を灯せるのかどうかを」
私は、彼の挑戦を、無言で受け止めた。
言葉は、もはや不要だった。必要なのは、ただ一つ。再現性のある事実――すなわち、科学的な「結果」だけだ。
「アルフレッド、ハンナ。私の『診察道具』の準備を」
「承知いたしました、お嬢様」
「うん、おねえちゃん!」
私がこの地下に来てから、最初にしたこと。それは、ギムレックが残してくれた道具箱の中から、いくつかの精密な部品を組み合わせ、携帯用の、簡易的な顕微鏡を作り上げることだった 。ドワーフが磨き上げた水晶のレンズは、私の前世の研究室にあったものには遠く及ばない。だが、目に見えぬ世界の入り口を覗き込むには、それで十分だった。
私は、腐りかけた根に付着した、灰色の粘菌を、慎重に採取し、ガラスのプレパラートに乗せる。そして、顕微鏡のレンズを覗き込んだ。
そこに広がっていたのは、私が知る、いかなる菌類とも違う、異様な光景だった。
「……なんてこと……。これは、生き物ですらないわ……」
私の呟きに、カエルが、訝しげな視線を向ける。
「どういうことだ」
「見てください」
私は、彼に顕微鏡を覗き込むよう促した。彼は、戸惑いながらも、その片目をレンズに当てる。
「……なんだ、こりゃあ……。ただの、細かい砂みてえなものが、うごめいているだけじゃねえか……」
「ええ。その通りですわ。自然の菌類ならば、そこには必ず、細胞壁や、核といった、生命としての構造が見えるはず。ですが、この子たちには、それがない。ただ、寸分の狂いもない、同じ形の、機械的な粒子が、プログラムされた通りに、有機物を分解しているだけ。……これは、聖女セラフィナが創り出した、ナノマシンですわ」
それは、『沈黙の災厄』の、小型で、指向性を持たせた、亜種。教皇の管理下にない、あらゆる生命を、静かに、そして確実に排除するための、完璧な暗殺者。
カエルの顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼らの敵は、ただの病ではなかった。人の悪意が生み出した、科学の怪物だったのだ。
「……だが、どんなに完璧な暗殺者にも、必ず、弱点は存在する」
私は、思考を切り替えた。
このナノマシンは、教皇の管理する『浄化された水』の中で、最も効率的に活動するように設計されているはずだ。その水は、おそらく、不純物を一切含まない、中性の純水に近い。ならば……。
(……環境を、変える。彼らが、最も嫌う環境を、作り出す……!)
私の脳裏に、あの、メンテナンス通路で見た、一つの光景が蘇った。
壁に描かれた、麦の穂の紋様。そして、その傍らに落ちていた、食べかけの、本物のパン。
「カエルさん。あなた方が、隠れて作っているという、そのパン。それを作るための、『種』を、見せていただけますか?」
「……種、だと? なぜ、そんなものを」
「お願いですわ。それが、この暗殺者を打ち破る、唯一の鍵になるかもしれないのです」
私の、あまりにも真剣な眼差しに、彼は何かを感じ取ったのだろう。彼は、しばらく黙って私を見つめていたが、やがて、部下の一人に、小さな木箱を持ってこさせた。
箱の中には、布に大切に包まれた、どろりとした、白い生地のようなものが入っていた。そこから、鼻腔をくすぐる、芳醇で、そして、力強い、酸っぱい香りが立ち上る。
「……これは、我ら『根』が、代々、受け継いできた、パン種だ。地上にいた頃の、最後の麦から起こした、我らの、魂そのものだ」
「……素晴らしい……」
私は、その香りを吸い込み、恍惚とした。これは、ただのパン種ではない。様々な種類の野生酵母と、乳酸菌が、奇跡的なバランスで共生する、天然の複合発酵種――サワー種|だ。
「この酸っぱい香りの正体は、乳酸菌という、とても働き者の微生物が生み出す、乳酸ですわ。彼らは、パンを美味しくするだけでなく、その強い酸性で、他の雑菌が繁殖するのを、防いでくれる。いわば、天然の、守護者です」
私は、カエルに向き直った。
「カエルさん。賭けをしませんか」
「……また、賭けか」
「ええ。ですが、今度の賭けは、あなた方の、未来そのものですわ」
私の提案は、あまりにも大胆で、そして、彼らにとっては、冒涜的ですらあった。
私は、彼らの魂である、その貴重なパン種の一部を、分けてもらった。そして、それを、清潔な水で溶き、布で濾して、酸性の、そして乳酸菌が豊富に含まれた、濃縮液を作り上げた。
「……なんてことを……。母なる種を、水で薄めるなど……」
抵抗者の一人が、悲痛な声を上げる。
「ご安心を。すぐに、何倍にもして、お返ししますから」
私は、彼らの不安を意に介さず、その濃縮液を、ガラスの噴霧器に満たした。
そして、水耕栽培区画の中でも、最も症状がひどく、もはや枯死寸前となっている、一株のトマトの苗の前に、立った。その根は、灰色のナノマシンに覆われ、もはや生命の色を失っている。
「……見ていてください。私の科学が、この子の命を、救ってみせますわ」
私は、噴霧器を手に取ると、そのトマトの根元、ナノマシンに覆われた部分に、乳酸菌の濃縮液を、集中的に、そして、たっぷりと、吹き付けた。
シュウウウウウウ……
酸性の液体が、灰色の粘菌に触れ、微かな音を立てる。
だが、それだけだった。
劇的な変化は、何も、起きない。
「……なんだ。何も、変わらねえじゃねえか」
「やはり、気休めだったか……」
抵抗者たちの間に、失望のため息が広がる。カエルの顔にも、やはりな、という、冷たい諦観の色が浮かんでいた。
私は、しかし、慌てなかった。
「科学とは、地道なものです。結果が出るまでには、時間がかかることもありますわ。……ですが、必ず、結果は出ます」
私は、その場に座り込み、じっと、そのトマトの苗を、見つめ始めた。
一時間、二時間……。
時間は、拷問のように、ゆっくりと過ぎていく。抵抗者たちも、最初は遠巻きに見ていたが、やがて一人、また一人と、その場を去っていった。
それでも、私は、動かなかった。私の隣では、アルフレッドとハンナが、そして、ギムレックだけが、黙って、私に付き添ってくれていた。
「……お嬢ちゃん。本当に、大丈夫なんだろうな」
「ええ。大丈夫よ、親方。……だって、私は、科学を信じていますから」
そして、実験開始から、約六時間が過ぎた、その時だった。
「……おねえちゃん、見て!」
ハンナの、甲高い声が、静寂を破った。
彼女が指さす先。トマトの苗の、その根元。
灰色のナノマシンに覆われていた部分が、わずかに、本当に、ごくわずかに、その勢いを失い、後退しているように見えた。
「……まさか……」
私は、目を凝らす。
間違いない。乳酸菌が生み出した、強酸性の環境。それは、中性の純水の中で最適化されていたナノマシンにとって、耐え難い、生存不可能な環境だったのだ。彼らは、死滅したわけではない。ただ、その居心地の悪い場所から、逃げ出しているのだ。
そして、ナノマシンが後退した、その、ほんの数ミリの隙間。
その、黒く腐りかけていた根の、その先端から。
一本の、雪のように白い、産毛のような、新しい根が、力強く、顔を出していたのだ。
「……ああ……!」
私は、その光景に、思わず、声にならない声を上げた。
それは、あまりにも地味で、あまりにも静かな、勝利だった。
だが、それは、この絶望の地下で、私の科学が、教皇の悪意に満ちた科学に、初めて、打ち勝った、歴史的な瞬間だった。
「……カエルさん!」
私は、集落の中心に向かって、声を張り上げた。
「見てください! これが、私の、科学の『証明』ですわ!」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ついに、イザベラは、絶望の地下で、科学の正しさを証明しました。それは、派手な奇跡ではない。生命の理に基づいた、地道で、しかし、揺るぎない、真実の光です。
この小さな勝利は、抵抗者たちの、凍てついた心を、溶かすことができるのでしょうか。
次回「地下の同盟」。イザベラとカエル。二人のリーダーが、ついに手を取り合います。
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや↓の☆☆☆☆☆での評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります!




