古参の執事と、最初の味方
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
イザベラの科学が、長年彼女を支えてきた執事の心に大きな変化をもたらします。
そして、絶望に染まった村から、最初の協力者が現れます。
村長たちが、半信半疑といった様子で教会を去っていく。扉が閉まると、祭壇に灯された数本の蝋燭の炎だけが揺れる、静寂な空間が戻ってきた。私の目の前では、黒い枯れ枝に付着した白い菌糸が、糖分を糧にゆっくりと、しかし確実にその勢力を広げている。生命の営みとは、かくも静かで、力強いものか。
「お嬢様……」
背後から、アルフレッドのかすれた声が聞こえた。振り返ると、彼は見たこともないような、畏怖と混乱が入り混じった表情で私を見つめていた。
「先ほどのあれは……一体、どのような魔法なのでございますか? 私の知る限り、ヴェルテンベルク公爵家に、そのような力をお持ちの方はいらっしゃいませんでしたが……」
彼の問いはもっともだった。私が今日見せた現象は、この世界の人々の常識からすれば、魔法以外の何物でもないだろう。だが、私は静かに首を横に振った。
「魔法ではないわ、アルフレッド。これは、科学よ」
「かがく……?」
「ええ。この世界の誰もまだ気づいていない、世界の『理』の一つ。私の力は、その理を少しだけ知っていて、ほんの少しだけ、その力を借りることができる、というだけのこと」
私は彼に向き直り、その不安げな瞳をまっすぐに見つめた。彼には、真実の一部を話しておく必要があった。彼こそが、私の唯一の、そして最初の理解者なのだから。
「アルフレッド。あなたが知っているイザベラは、王太子殿下を愛し、妃になることだけを夢見る、か弱い令嬢だったかもしれない。でも、あの子は心の奥に、もう一人の自分をずっと隠していたの。物事の仕組みを知るのが好きで、なぜ空は青いのか、なぜ植物は育つのか、そんなことばかり考えている、少し変わった子をね」
これは、嘘ではなかった。茅野莉子の記憶が蘇る前のイザベラもまた、窮屈な貴族社会の中で、知的好奇心を押し殺して生きていたのだ。
「王都での生活は、その子にとっては息の詰まる鳥籠だった。でも、このヴェルテンベルクに来て、あの子はついに自由になったのよ。だから、今の私は、あなたが知っているイザベラであり、あなたが知らなかった、もう一人のイザベラでもある。そう、思ってちょうだい」
私の言葉に、アルフレッドは目を見開いたまま、しばらく黙り込んでいた。やがて、彼は深く、深く、頭を下げた。その肩が、わずかに震えている。
「……左様でございましたか。……知りませなんだ。このアルフレッド、長年お仕えしていながら、お嬢様の真のお心に気づけなんだこと、万死に値しまする。ですが……ですが、今のお嬢様のお姿は、なぜでしょう、亡き奥様が夢見ておられた、聡明で、自由な貴婦人のお姿に、重なって見えまする」
彼は顔を上げ、その目には涙が浮かんでいた。だが、それは悲しみの涙ではなかった。安堵と、そして新たな忠誠を誓う、決意の涙だった。
「アルフレッド、これより先、私がやろうとしていることは、この世界の常識から外れたことばかりよ。それでも、私を信じて、ついてきてくれる?」
「どこまでも。この身が朽ち果てようとも、お嬢様の道行きをお供させていただきます。どうか、この老いぼめに、お嬢様の『かがく』とやらをお教えください。最初の生徒として、お側に置いてはいただけませぬか」
私は、彼の差し出してくれた、皺の刻まれた手を取った。その手は、温かかった。
「ええ、お願いするわ、アルフレッド。私の、最初の助手になってちょうだい」
翌朝、事態は新たな局面を迎えた。教会の扉を叩く音がしたのだ。アルフレッドが応対に出ると、そこに立っていたのは、一人の屈強な男だった。昨日、村長と共に乗り込んできた男たちの一人で、確か、元兵士のエリックと名乗っていたはずだ。
彼は武器を持っていなかった。その代わり、その手には、使い古された鍬が一本握られていた。
「……公爵令嬢様に、お目通りを願いたい」
教会の中へ通されたエリックは、祭壇に並ぶ瓶と、昨日の枯れ枝を見て、ごくりと喉を鳴らした。枯れ枝は、一晩でその半分以上が白い菌糸に覆われ、もはや元の黒い色を判別できないほどになっていた。
「昨日のあれが、まやかしでないのなら……。いや、まやかしでも構わねえ。あんたが、本物の悪女だろうが、黒魔術師だろうが、どうだっていい」
彼は、私をまっすぐに見据えて言った。
「俺には、妻と、まだ小さい娘がいる。このままじゃ、この土地で冬は越せねえ。俺たちは、飢えて死ぬのを待つだけだ。……だから、あんたに賭けてみることにした」
彼の瞳には、昨日の村長と同じ、絶望の色があった。だが、その奥に、ほんのわずかな、藁にもすがるような光が灯っていた。
「俺に、何をさせたい? 力仕事なら、誰にも負けねえ。あんたの言う『ちりょう』とやらに、この腕が必要なら、使ってくれ」
私は、彼の申し出を静かに聞いていた。そして、祭壇から一枚の羊皮紙を取り、彼に差し出した。そこには、私が夜を徹して描いた、一枚の設計図があった。
「ありがとう、エリック。では、早速お願いするわ。ここに描いたものを作ってほしいの。これは、『堆肥枠』。枯れ草や、村から出る調理クズ、家畜の糞尿などを集め、層になるように積み重ねて、土に還すための箱よ」
「堆肥……でございますか?」
隣にいたアルフレッドが、怪訝な声を上げる。
「ええ。ただ積み重ねるだけでは、完全に土に還るまで何年もかかるわ。でも、そこに、この子――私が育てた白い菌を少量混ぜてあげるの。そうすれば、発酵が促進され、わずか数週間で、どんな痩せた土地をも甦らせる、極上の『黒い土』が完成する」
私はエリックに向き直る。
「あなたには、この堆肥枠を村の広場に設置し、村人たちから材料を集めてきてもらいたい。もちろん、最初は誰も協力しないでしょう。それでも、あなた一人でもいい。来る日も来る日も、黙々と作業を続けてほしいの。背中で語るのよ。言葉よりも、行動で、私たちが本気なのだと、村人たちに示して」
エリックは、しばらく黙って設計図を眺めていたが、やがて、力強く頷いた。
「……わかった。やってやる。どうせ、このまま何もしなければ死ぬだけだ。だったら、あんたの言う『黒い土』とやらに、俺たちの未来を賭けてみる」
彼は鍬を肩に担ぎ、力強い足取りで教会を後にして行った。
その日から、村の風景は少しだけ変わった。広場の隅で、エリックが黙々と堆肥枠を作り、枯れ草を集め始めたのだ。村人たちは、遠巻きに彼を眺め、愚か者だと嘲笑う者もいた。
そして、教会の中では、私とアルフレッドによる、白い菌の大量培養が始まっていた。村中から集めた古い樽を煮沸消毒し、小麦粉と果実の培養液を満たしていく。
「お嬢様、まるでパン屋の工房のようでございますな」
「ふふ、そうね。でも、私たちが作っているのは、パンじゃないわ。この国を、飢えから救うための、希望という名の種菌よ」
私は、種菌の入った瓶を掲げ、窓から差し込む光にかざした。ガラスの中で、雪のように白い菌糸が、静かに、しかし力強く、未来へと向かって伸びていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ついにイザベラは、執事アルフレッド、そして村人エリックという、最初の協力者を得ました。彼女の孤独な戦いは、チームとしての改革へと変わろうとしています。
次回は、明日更新予定です。
次回「発酵熱と、人の温もり」。堆肥作りが進む中、村人たちの心に少しずつ変化が生まれていきます。
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