ドワーフの国へ
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
聖女と教皇が放った、最悪の一手、『沈黙の災厄』。物語は、もはや一国の存亡ではなく、世界の運命を賭けた、新たなステージへと突入しました。
イザベラは、この未曾有の脅威に立ち向かうため、世界を巡る旅に出ることを決意します。最初の目的地は、災厄の最前線、ドワーフの国。そこで、彼女が最初に目にするものとは。
王都エーデンガルドの城門は、夜明けと共に開かれた。
そこから滑り出すように出てきたのは、王家の紋章ではなく、ヴェルテンベルクとシュヴァルツェンベルク、二つの家の紋章を並べて掲げた、一団の小さなキャラバンだった。先頭を行くのは、私と、護衛を兼ねるクラウス副官。後方には、アルフレッドとハンナ、そして、私の研究機材を積んだ頑丈な馬車が続く。ハンナは、危険な旅になることを承知の上で、「おねえちゃんの助手だから」と言って、ついてくることを譲らなかった。その瞳に宿る強い光は、もはやただの村娘のものではなかった。
「……イザベラ」
城壁の上から、レオンハルトの声が降ってきた。見上げると、彼は摂政としての豪奢な装束ではなく、見慣れた黒銀の鎧を身に纏い、一人、私たちを見下ろしていた。
「必ず、戻れ。お前が戻るまで、この国は、俺が必ず守り抜く」
「ええ、わかっておりますわ、レオンハルト様。あなたという最強の『盾』がいるからこそ、私は、安心して『剣』を振るうことができるのですから」
私たちは、言葉少なだった。だが、それで十分だった。彼と私の間には、もはや多くの言葉を必要としない、絶対的な信頼関係が築かれていた。彼は王都で、貴族たちを抑え、国の秩序を維持するという、もう一つの戦場で戦ってくれる。私は、私の戦場で、科学の力で、この世界の未来を切り開く。
私たちは、それぞれの戦場へと、向かうのだ。
北へ。黒鉄山を目指す旅は、日に日に、その過酷さを増していった。
王都を離れて三日も経つと、大地の異変は、誰の目にも明らかになった。空は常に薄曇りで、太陽の光は弱々しい。そして、北の地平線の彼方には、オーロラのように揺らめく、不気味な光のカーテンが、昼夜を問わず見えるようになっていた。
「……イザベラ様。あれが……」
クラウスが、険しい表情で呟く。
「ええ。あれこそが、『沈黙の災厄』の本体。空気中に放出された、ナノマシンの集合体ですわ。あの光は、ナノマシンが互いに情報をやり取りする際に発する、微弱なエネルギー……。美しいけれど、決して触れてはならない、死の光よ」
さらに進むと、道端の木々や草の様子がおかしくなってきた。葉の緑が、まるで色褪せたように薄くなり、その先端が、微かに、しかし確実に、きらきらと光る結晶へと変わり始めているのだ。
「おねえちゃん、お花が……お花が、ガラスみたいになってる……」
ハンナが、馬車の中から、悲しそうな声を上げる。
私は、馬を止めさせると、厳重に手袋をした手で、その結晶化した草を一本、慎重に採取した。ガラスの小瓶に入れ、光にかざす。
(……間違いない。有機構造が、分子レベルで、珪素化合物へと置換されている。進行速度は、まだ遅い。だが、確実に、この大地は、内側から、静かに殺され続けている……)
聖女セラフィナと教皇ヴァレリウス。彼らは、この光景を、どこかで見ているのだろうか。自分たちが解き放ったものが、どれほど恐ろしいものであるのかを、理解しているのだろうか。私の胸に、科学者としての、静かで、しかし燃えるような怒りが込み上げてきた。
黒鉄山の麓にたどり着いたのは、旅を始めてから七日目のことだった。
そこにあるはずの、ドワーフたちが作った、活気ある麓の町は、ゴーストタウンと化していた。家々は固く扉を閉ざし、人の気配が全くない。そして、山全体が、まるで巨大な生き物が呻くかのように、低く、不気味な地鳴りを、絶え間なく響かせている。
「……ひどい有様だな」
クラウスが、警戒しながら周囲を見渡す。
「彼らは、山の奥深くにある、本拠地へと避難したのでしょう。ですが、問題は、ここからどうやって彼らに会うか、ですわね」
ドワーフの国、鉄槌の王国は、巨大な岩山をくり抜いて作られた、難攻不落の要塞都市だ。その入り口は、部外者には決して明かされない、秘密の場所にある。
「お嬢ちゃん! こっちだ、こっち!」
その声は、近くの岩陰から聞こえてきた。ひょっこりと顔を出したのは、見慣れた、赤茶色の長い髭。
「ギムレック殿!」
「おうよ! お前さんたちが来るって報せは、摂政殿下の早馬から聞いてたんでな。待ちくたびれたぜ!」
王立技術院長ギムレックは、もはや私の、そしてこの国の、かけがえのない仲間だった 。彼は、私たちを、巧妙に隠された岩の扉へと案内してくれた。
「……だが、お嬢ちゃん。ここから先は、俺もどうなるか分からん。王様も、長老たちも、この異常事態に、すっかり気が立っておられる。下手をすりゃ、人間のお前さんたちは、問答無用で牢屋行きだ。……それでも、来るか?」
彼の真剣な問いに、私は、迷いなく頷いた。
「ええ。そのために、ここに来たのですから」
鉄槌の王国の内部は、荘厳、という言葉が最も相応しい場所だった。
巨大な地下空洞には、何層にもわたって、石と鉄でできた建造物が立ち並び、地底湖の水を動力源とした、巨大な水車や歯車が、ゆっくりと、しかし力強く回転している。だが、その活気は、どこか空虚だった。ドワーフたちの顔には、いつものような職人としての誇りはなく、自分たちの聖域が脅かされていることへの、深い不安と、焦りの色が浮かんでいた。
私たちが通されたのは、王城の最も奥深くにある、大評議会だった。
中央の、黒曜石を削り出して作られた玉座に座るのは、ドワーフの王、ブロック・アイアンハンマー。その白銀の髭は、床に届くほど長く、その瞳は、何百年もの時を見てきた、賢者の光を宿していた。
「……よく来たな、人間の娘よ。そして、シュヴァルツェンベルクの騎士。ギムレックから、お主の噂は聞いておる。我らの長年の悩みであった『赤錆病』を、奇妙な『科学』とやらで解決した、と」
王の声は、地鳴りのように、低く、重かった。
「だが、今、我らが直面しておる問題は、錆などという、生易しいものではない。……この山の、魂そのものが、病に侵されておるのだ」
彼は、玉座の横に置かれた、一つの鉄の塊を指し示した。それは、昨日、この山の最も深い鉱脈から掘り出されたばかりの、最高品質の鉄鉱石だという。だが、その表面は、まるで癌細胞のように、不気味な結晶体に、まだらに侵食されていた。
「……これは……!」
私は、王の許可を得て、その鉄鉱石に近づき、携帯用のルーペで、その結晶体を観察する。
(間違いない……! 『沈黙の災厄』だわ……! 無機物であるはずの鉄鉱石までもが、その結晶構造を、内側から破壊され、ナノマシンに置換され始めている……!)
「イザベラ・フォン・ヴェルテンベルクと申します、国王陛下」
私は、ドワーフの王に向き直り、深く礼をした。
「私は、この現象の正体を知っております。そして、それを止めるための、方法を探しに参りました」
私の言葉に、王の周囲を固める、長老らしきドワーフたちが、ざわめく。
「馬鹿な! 人間の小娘に、何が分かると言うのだ!」
「これは、山の神の怒りじゃ! 人間が、聖女の魔法などという、小賢しい力で、大地の理を乱したことへの、天罰なのじゃ!」
「その通りだ! この娘も、その聖女とやらの、同類ではないのか!」
彼らの、人間への不信感は、根深い。ギムレックが、何か言おうとするのを、私は手で制した。
「皆様のお考え、ごもっともですわ。ですが、これは天罰などではありません。あなた方が『山の神の怒り』と呼ぶものは、聖女の魔法とは、似て非なる、もっと恐ろしい、科学の暴走なのです」
私は、持参した石盤に、チョークで、『沈黙の災厄』の概念図を描き、そのメカニズムを、できるだけ分かりやすく、しかし、科学的な正確さを失わずに、説明した。自己増殖、有機物分解、結晶化。そして、その最終的な目的が、世界の支配にあることを。
私の説明が終わっても、長老たちの疑念は、晴れなかった。
「……ナノマシン、だと? 目に見えぬほどの、小さな機械とな? 馬鹿馬鹿しい! 我らが信じるのは、この手で触れられる、鉄と、炎だけだ!」
やはり、言葉だけでは、彼らの心を動かすことはできない。
私は、最後の切り札を切ることにした。
「国王陛下。ギムレック殿。あなた方は、私の『科学』の力を、一度、その目で見てくださったはずですわね?」
「……うむ。確かにな」
「ならば、もう一度だけ、私に、それを証明する機会をいただけますか?」
私は、懐から、一つの、小さなガラス瓶を取り出した。中には、ヴェルテンベルクの教会で培養した、あの『雪のように白い放線菌』が入っている 。
「この子たちは、魔法機械を分解する力を持っています。そして、『沈黙の災厄』もまた、同じ古代文明が生み出した、魔法機械の一種。ならば……」
私は、王の前に進み出ると、その病に侵された鉄鉱石の上に、白い放線菌を、数滴、そっと垂らした。
「……この子たちが、あの災厄を、喰らってくれる可能性が、あるはずですわ」
評議会の全てのドワーフが、息を殺して、その様子を見守っている。
白い菌糸が、鉄鉱石の表面で、ゆっくりと、しかし、力強く、広がり始める。
そして、不気味な結晶体に覆われた部分に、菌糸が到達した、その瞬間。
ぱち、と。まるで、小さな火花が散るような、微かな音がした。
結晶体が、その輝きを、わずかに、失ったのだ。
それは、あまりにも地味で、あまりにも静かな変化だった。だが、そこにいた、全てのドワーフが、それを、確かに、見た。
「……おお……」
誰かが、畏敬の念に満ちた、声を漏らした。
私の科学は、まだ、この災厄に、完全には敗北していなかったのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
災厄の最前線、ドワーフの国で、イザベラは、自らの科学が、この未曾有の脅威に対抗できる、かすかな可能性を示しました。
彼女の言葉と、目の前で起きた小さな奇跡は、誇り高きドワーフたちの心を、動かすことができるのでしょうか。
次回「世界同盟、第一歩」。物語は、大きな一歩を踏み出します。
明日7時10分に更新予定です。
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