最高の研究室を手に入れる
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
イザベラが逆境の中で最初の研究拠点を確保します。
しかし、そこには新たな壁が……。彼女の科学的アプローチは、絶望に慣れた人々の心に届くのでしょうか。
アルフレッドに案内されたのは、村の外れにぽつんと建つ、石造りの古い教会だった。かつては村人たちの心の拠り所だったのだろうが、今は見る影もない。屋根にはところどころ穴が開き、壁を覆う蔦は枯れて黒ずんでいる。扉を開けると、ぎい、と耳障りな蝶番の音が響き、かびと埃が混じった空気が淀みとなって流れ出してきた。
内部は薄暗く、静まり返っていた。窓のステンドグラスはほとんどが割れ落ち、そこから差し込む夕暮れの光が、空気中に舞う無数の塵をきらきらと照らし出している。床に積もった埃の上には、私たちのもの以外の足跡はない。何年も、誰にも使われていないことは明らかだった。
「お嬢様、このような場所で……。申し訳ございません、私の不徳の致すところで……」
アルフレッドが悔しそうに唇を噛む。王都の公爵邸で、塵一つない環境で私を育ててきた彼にとって、この状況は耐え難いものだろう。
「いいえ、アルフレッド。謝らないで。むしろ、感謝しているわ」
「感謝、でございますか?」
「ええ。ここは、最高の研究室になるわ」
私は祭壇の方へ歩みを進める。そこだけは奇跡的に屋根の穴から逃れており、比較的状態が良い。埃をかぶってはいるが、頑丈な石造りの祭壇は、実験台として申し分ない強度と広さを持っていた。
「研究室……でございますか?」
「そうよ。見て、この広さ。それに石造りだから、火を使う実験にもある程度は耐えられる。換気は……まあ、窓が割れているから問題ないわね。水は近くの井戸から運ぶとして、あとは最低限の清潔さを確保できれば、基礎的な分析はここで十分可能よ」
私の言葉に、アルフレッドは目を白黒させている。彼の常識では、貴族令嬢の口から「実験」だの「分析」だのという言葉が出てくること自体が、天変地異に等しいのだろう。
彼が村長との交渉で手に入れてくれた、なけなしのガラス瓶と鍋、そして数本の匙。私はそれらを祭壇の上に並べ、持参した清潔な布で丁寧に磨き始めた。
「アルフレッド、お願いがあるわ。あの大きな鍋に井戸水を満たして、火を起こして煮沸してちょうだい。それから、これらの瓶と匙も、そのお湯で十分に煮沸消毒をお願い。作業の前に、あなたの手も石鹸でよく洗ってからにしてね」
「しゃ、煮沸消毒……でございますか?」
「ええ。コンタミネーションを防ぐためよ。目的外の微生物が混入してしまったら、実験データが汚染されて、正確な結果が得られなくなってしまうわ」
コンタミネーション、という言葉が通じなかったのは明らかだったが、アルフレッドは私の真剣な眼差しに何かを感じ取ったらしい。「承知いたしました」とだけ言うと、慣れた手つきで火の準備を始めた。さすがは万能の執事だ。
彼が作業をしている間、私は教会の外へ出た。夕闇が迫る中、私は目的のものを探す。そう、土壌サンプルだ。
私は、ただやみくもに土を採取するつもりはなかった。必要なのは、比較対照できる複数のサンプルだ。
まず一つ目は、教会のすぐそば、比較的植物の枯死が少ない場所の土。これをコントロール、つまり基準サンプルとする。
二つ目は、村の入り口で見た、完全に黒く枯れ果てた木の根元の土。ここは魔瘴の汚染が最も深刻だと推測される。
三つ目は、村の畑だった場所の土。痩せこけてはいるが、かろうじて雑草のようなものが生えている。わずかに生命力が残っている土壌だ。
そして四つ目。これが最も重要だった。私は村の古老に場所を聞き、ヴェルテンベルク領で唯一、聖女リリアナが「浄化の魔法」を試み、そして失敗したという曰く付きの畑へと向かった。
そこは、異様だった。他の土地がただ「死んでいる」だけなのに対し、その畑は「殺された」という表現がしっくりくる。土は不自然なまでに白く変色し、ガラス質のようなものが混じっている。聖女の魔法――気象コントロール衛星「エデン」のエネルギー照射が、土地のマナを根こそぎ奪い去った挙句、土壌の組成そのものを変質させてしまったのだ。
(ひどい……。これはもう、ただの土壌汚染じゃない。マナの枯渇による不可逆的な土壌変性だわ。だが、逆に言えば、ここにはもう魔法機械のエサとなるマナすら残っていないはず。だとすれば、ここに生息している微生物がいるとすれば、それはマナ以外の何かをエネルギー源とする、全く新しい代謝系を持つ菌かもしれない……!)
私は興奮を抑えながら、それぞれの場所から慎重にサンプルを採取し、持参した羊皮紙の小片に場所と特徴を書き込んで、瓶に貼り付けた。
教会に戻ると、アルフレッドがちょうど煮沸消毒を終えたところだった。湯気の立つ清潔な瓶を受け取り、私は採取してきた土壌をそれぞれ移し替える。
「お嬢様、本当に……何をなさるおつもりで?」
私の常軌を逸した行動に、さすがのアルフレッドも不安を隠しきれないようだ。私は彼を安心させるように、穏やかに微笑んだ。
「アルフレッド。私はね、この土地の『お医者様』になろうと思っているの」
「お医者様……でございますか?」
「ええ。病気の人間を診察するように、私はこの土地を診察しているのよ。まずは問診と検査。これらの土は、患者さんの血液のようなもの。これを調べれば、病気の原因がわかるわ。原因がわかれば、治療法も見つかるはずよ」
私の説明は、科学というよりは比喩に近かったが、アルフレッドの表情は少しだけ和らいだ。彼が理解できる言葉で伝える努力は、信頼関係を築く上で不可欠だ。
その時だった。教会の入り口に、松明を持った数人の村人たちが立っていた。その中心にいるのは、昼間アルフレッドが話した、村長らしき老人だ。
「……公爵令嬢様。夜分に失礼いたします」
村長は、敵意と警戒をない交ぜにした目で、祭壇に並べられた土の入った瓶を一瞥した。
「先ほど執事殿から、奇妙なものを集めておられると伺いました。瓶や鍋を煮立てて、我らの土地の土を……。一体、何をなさっておられるのですかな? 我々を呪うための、黒魔術の儀式ででもないでしょうな?」
村人たちの間に、緊張が走る。無理もない。追放されてきた悪役令嬢が、夜の教会で土を集めて煮沸しているのだ。黒魔術を疑われても文句は言えない状況だ。
アルフレッドが前に出て、私を庇おうとする。
「無礼者! お嬢様に向かって何たる言い草か!」
「まあ、アルフレッド。お下がりなさい」
私は彼を手で制し、村長の前に進み出た。そして、悪役令嬢の仮面を外し、一人の科学者として、真摯に、しかし毅然として告げた。
「黒魔術などという非科学的なものではありませんわ、村長。私は、この土地を調査しています。この土地がなぜ死んでしまったのか、その原因を突き止めるために。そして、この土地を再び緑豊かな大地に甦らせるために」
私の言葉に、村長は鼻で笑った。
「甦らせる、ですと? 聖女様ですらお見捨てになったこの土地を? お戯れを。お嬢様、我々は王都の貴族の方々の気まぐれには、もううんざりなのです。どうか、我々に無用な期待を抱かせ、これ以上苦しめるのだけはおやめください」
彼の瞳に宿るのは、長年虐げられてきた者だけが持つ、深く、冷たい絶望の色だった。
言葉だけでは、彼らの心は動かせない。必要なのは、ただ一つ。
再現性のある客観的な事実――すなわち、科学的な「結果」だけだ。
「……よろしいでしょう。ならば、見ていてください。一月……いいえ、三週間だけ時間をください。この土地で、必ずや『命』を芽吹かせてみせますわ」
私は、祭壇に並んだ四つの瓶に視線を落とす。
私の城、私の最高の研究室。そして、私の最初の、最も重要な被験者たち。
ここから、全てが始まるのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ついにイザベラの最初の研究が始まりましたが、村人たちの冷たい視線という新たな壁が立ちはだかります。
次回は、お昼に更新予定です。
次回「顕微鏡なき世界の微生物学」。限られた設備で、彼女は一体どうやって土を分析するのか。
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや↓の☆☆☆☆☆での評価をいただけますと、執筆の大きな励みになります!