追放の馬車と、死んだ土の匂い
仮説——追放された土地に、希望は芽生えるか。
王都を離れるための準備は、驚くほど速やかに進められた。いや、進められたというよりは、まるでゴミを掃き出すかのように、私は王宮から追い立てられたのだ。
与えられたのは、ヴェルテンベルク公爵家の紋章が入った、古びた一台の馬車だけ。護衛の騎士も、侍女の一人も付けられなかった。
王家が私という存在を、いかに早く視界から消し去りたいかが透けて見えるようだ。
だが、そんなことは今の私にとってはどうでもよかった。
「お嬢様、寒くはございませんか? ひざ掛けをもう一枚お持ちしましょうか」
向かいの席で、心配そうにこちらを窺う老紳士。彼が、私の唯一の味方であり、幼い頃から仕えてくれている執事のアルフレッドだ。
両親が早逝し、公爵家を継いだ叔父夫婦に疎まれていた私を、ずっと陰ながら支えてくれた忠義の臣でもある。
今回の追放劇にも、彼は自らの意志で付き従うことを選んでくれた。
「ありがとう、アルフレッド。でも大丈夫よ。それより、あなたこそ長旅は体に障るでしょう。無理はしないでちょうだい」
「とんでもない。お嬢様にお仕えできることが、この老いぼれの何よりの喜びでございますから」
そう言って深く頭を下げる彼に、私は内心で感謝の念を抱く。彼がいなければ、私の計画は始動する前に頓挫していただろう。
何しろ、私の頭の中にあるのは前世の科学知識ばかり。
この世界の貴族社会の作法や、領地へ向かうための実務的な手続きについては、アルフレッドの助けがなければどうにもならなかった。
アルフレッドが目を閉じた隙に、私は持ち出した手帳を開いた。
馬車の揺れに合わせて、文字が震える。だが構わない。頭の中に溢れる計画を、一つでも多く書き留めておきたかった。
第一段階——土壌サンプルの採取と成分分析。魔瘴汚染の正体を突き止める。
第二段階——土着微生物の探索。極限環境に適応した菌株がいるはずだ。
第三段階——バイオレメディエーション。微生物の力で、土壌を浄化する。
前世の卒業論文で夢見た研究計画が、異世界で実現しようとしている。
(……茅野莉子。あなたの研究は、無駄じゃなかったわ)
覚悟。
馬車がガタガタと音を立てて進む。窓の外の景色が、王都の華やかな街並みから、次第にのどかな田園風景へと変わっていく。
黄金色に輝くのは、この国の経済を支える『マナ・ウィート』の畑だ。聖女の魔法によって、本来の収穫期を無視して豊作が約束された、王国の富の象徴。
(象徴、ね……)
私は冷めた目でその光景を眺める。私の目には、あれが黄金の畑には見えなかった。
土地の生命力を根こそぎ奪い取り、数年後には不毛の地へと変わる、死の宣告を受けた畑にしか見えない。
聖女の魔法は、気象コントロール衛星「エデン」の出力を、彼女の血筋に刻まれた「魔力変換遺伝子」をキーにして無理やり引き出す。
土地のマナを数十年分も前借りする禁断の技術。
その結果、マナを失った土地は魔瘴――古代文明の遺した魔法機械への抵抗力を失い、汚染されていく。
国民も、貴族たちも、そして王太子でさえ、その場しのぎの豊かさに酔いしれ、自分たちが座る枝を自らの手で切り落としていることに気づいていない。
「……ひどい」
奥歯を噛む音。
アルフレッドが、窓の外を見ながら小さく呟いた。
王都を離れて三日。景色は一変していた。黄金色だった畑は姿を消し、代わりに広がるのは、灰色がかった土がむき出しになった荒れ地だ。
まばらに生える木々は黒く枯れ、まるで骸骨のようだ。ヴェルテンベルク公爵領が近づいている証拠だった。
「これが、魔瘴の汚染……。噂には聞いておりましたが、これほどとは」
「ええ、そうね」
私は冷静に相槌を打ちながら、その光景を網膜に焼き付ける。研究者としての血が騒ぐのを抑えられない。
確信。
(土壌の色から見て、pHはかなり酸性に傾いているはず。魔法機械は活動の過程で、土壌のアルカリ金属イオンを消費するのかもしれない。)
(だとすれば、最初の土壌改良には石灰の投入が有効か?いや、待って。まずはサンプルを採取して、正確な成分分析を行わなければ。仮説を立てるのはそれからだ)
馬車が止まったのは、ヴェルテンベルク領の入り口にある、寂れた小さな村だった。領主である私の到着を歓迎する者は誰もいない。
それどころか、家々の窓は固く閉ざされ、物陰からこちらを窺う村人たちの視線には、諦めと、そしてわずかな敵意が混じっていた。
「お嬢様、ここは私にお任せを」
アルフレッドが先に馬車を降り、村長らしき老人の元へ向かう。
馬車の扉を開けた瞬間、鼻を突く匂いが押し寄せた。硫黄に似た刺激臭と、腐葉土とも違う、有機物が分解されずに滞留した重い空気。風すら澱んでいる。
魔瘴の匂いだ。
私はその隙に、スカートの裾が汚れるのも構わず、地面にそっと指を触れた。
ひんやりとして、乾いている。生命の温もりが感じられない、死んだ土。だが、私の目には、その土くれの一つ一つが、解析を待つ貴重なデータに見えた。
小さな、溜息。
(面白い……)
思わず笑みがこぼれそうになるのを、扇子で隠す。
(この土壌には、通常の微生物はほとんど存在しないはず。)
(だとすれば、ここで生き残っている菌類がいるとすれば、それは魔法機械を分解、あるいは共生関係にある極めて特殊な存在。)
(極限環境微生物である可能性が高い。)
(それこそが、この土地を、いえ、この国を救う鍵になるかもしれない)
当然の帰結。
アルフレッドが戻ってきて、沈痛な面持ちで報告した。
「お嬢様、村長が、今夜のお宿として古い教会を使ってほしい、と。……まともな宿屋は、もう何年も前に廃業してしまったそうで」
「構わないわ。屋根と壁があるだけありがたいもの。それよりアルフレッド、お願いがあるの」
「なんでしょうか」
「ガラス瓶と、煮沸消毒できる鍋、それから清潔な匙をいくつか用意してちょうだい。できるだけ急ぎで」
「は、はあ……それは、一体何に?」
怪訝な顔をする彼に、私は悪役令嬢としてではなく、一人の研究者としての笑みを浮かべてみせた。
「決まっているでしょう? これから始まる壮大な実験の準備よ」
私の言葉に、アルフレッドはますます混乱した表情を浮かべた。
だが、彼の瞳の奥に、ほんの少しだけ、かつての聡明だった頃のお嬢様が戻ってきたような、そんな期待の色が宿ったのを、私は見逃さなかった。
古い教会は、思ったよりもしっかりしていた。
石壁は厚く、屋根の隙間から星が見える程度の損傷。祭壇の埃を払い、アルフレッドが持ち込んだ燭台に火を灯すと、小さいながらも温かな空間が生まれた。
彼が寝息を立て始めた後、私は教会の裏手に出た。
夜空は、驚くほど澄んでいた。王都では見えなかった星々が、頭上いっぱいに散らばっている。その中に、ひときわ明るく、ゆっくりと動く光点が一つ。
気象コントロール衛星「エデン」。
聖女の奇跡の源。この世界の歪んだ繁栄を支える、古代文明の遺物。
(……いつか、あなたの正体も暴いてみせるわ)
足元の土を、もう一度、指先で掬った。冷たく、乾き、生命の気配がない。
だが——科学者の目には、この土の中に、まだ見ぬ可能性が眠っているのが見える。
私の逆転劇は、まだ誰にも気づかれていない。この死んだ大地の上で、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。
追放は、科学者にとって最高の贈り物だった。
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