土壌再生計画、第一段階
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第十話、ついにヴェルテンベルク領の再生計画が本格的に始動します。
しかし、イザベラの科学的アプローチは、辺境伯の部下たちとの間に新たな摩擦を生むことに……。
レオンハルト辺境伯からの『投資』が到着した翌朝、ヴェルテンベルク領の空気は、私がここに来てから初めて、確かな希望の熱気に満ちていた。夜明けと共に、村人たちは一人残らず広場に集結した。その顔には、長年の絶望に代わって、緊張と、そして自らの手で未来を切り開こうとする決意の色が浮かんでいる。彼らの隣には、辺境伯が残していった百名の騎士たちが、静かに、しかし寸分の隙もなく整列していた。
「皆さん、おはようございます。本日より、私たちの故郷を取り戻すための戦いを始めます!」
私が教会の階段の上から高らかに宣言すると、「おお!」という力強い歓声が上がった。私の手には、昨日レオンハルトに渡したものよりも、さらに詳細な指示が書き込まれた『領地カルテ』が握られている。
「計画は、昨日お話しした通り、三段階に分けて進めます。第一段階は、この土地を甦らせるための心臓部、『黒い土』の量産です! エリック!」
「はっ!」
私が名を呼ぶと、エリックが村の男たちを引き連れて前に進み出る。その手には、昨日届いたばかりの、真新しい斧や鋸が握られていた。
「あなたたちには、村の周辺にある枯れ木を伐採し、巨大な堆肥枠を新たに十基、設置してもらいます。場所と大きさは、この設計図の通りに。正確さが、成功の鍵です!」
「任せてください、令嬢様!」
エリックたちの力強い返事に、私は頷き、次に村の女たちと子供たちに向き直った。
「皆さんには、枯れ草や落ち葉、家畜の糞尿、調理クズなどを集めてきてもらいます。ですが、ただ集めるだけではありません。これは『緑の材料』、これは『茶色の材料』というように、私が指示する通りに分別してください。この分別が、最高の土を作るための、とても大切な下準備になりますの」
女たちは、戸惑いながらも、真剣な表情で頷いた。
そして最後に、私は辺境伯の騎士たちへと向き直った。その先頭に立つのは、レオンハルトの副官らしき、厳つい顔つきの壮年の騎士だった。
「騎士の皆様には、村の警備と、資材運搬の監督をお願いいたします。そして、もし余力があれば……」
私は、騎士たちにも堆肥の材料集めを手伝ってほしい、と頼もうとした。だが、その言葉は、副官の冷ややかな声によって遮られた。
「公爵令嬢殿。我々は、辺境伯様の命令により、貴殿の『計画』の支援と監視を命じられている。だが、我らはシュヴァルツェンベルク辺境伯家に仕える騎士だ。泥遊びや草むしりのような雑用をするために、ここにいるのではない」
その言葉には、あからさまな侮蔑が滲んでいた。騎士たちの間にも、同様の空気が流れる。彼らにとって、追放されてきた悪役令嬢の、ままごとのような農業計画に付き合わされるのは、屈辱以外の何物でもないのだろう。
村人たちの間に、緊張が走る。アルフレッドが、私の前に出て何か言おうとするのを、私は手で制した。
「……結構ですわ。あなた方には、あなた方の誇りがあるのでしょう。ならば、結構。私のやり方で、結果をお見せするだけです」
私は静かに告げると、踵を返した。背中に、騎士たちの嘲笑が突き刺さるのを感じた。
その日から、ヴェルテンベルク領では、壮大な土木作業が始まった。エリック率いる男たちは、驚くべき速さで巨大な堆肥枠を次々と組み上げていく。女子供たちは、私の指示通りに、枯れ草や野菜クズを『炭素資材』と『窒素資材』に分別し、山のように積み上げていった。
教会は、今や完全に私の研究室兼、作戦司令室となっていた。アルフレッドは私の忠実な助手として、培養した種菌の管理を完璧にこなしてくれている。
「お嬢様、A-3区画用の堆肥枠、資材の投入準備が整ったとエリックから報告が」
「わかったわ。では、C/N比を計算して、最適な混合比率を指示します。アルフレッド、種菌の準備を」
C/N比――炭素と窒素の比率。それは、堆肥の発酵を司る微生物たちの、最高の食事メニューを組み立てるための、最も重要なパラメータだ。私は、羊皮紙の上で、複雑な計算を素早くこなしていく。
騎士たちは、そんな私たちの様子を、腕を組んで遠巻きに眺めているだけだった。彼らは、村の警備という名目で持ち場についているが、その視線は明らかに「いつまでこんな茶番が続くのか」と語っていた。
最初の堆肥枠に、計算し尽くされた比率で資材が投入され、私の育てた白い種菌が振りかけられてから、数日が過ぎた。村人たちは、以前のように、そこから立ち上る温かな湯気に希望を見出していた。だが、騎士たちの態度は変わらない。
問題が起きたのは、最初の堆肥投入から一週間が過ぎた頃だった。
「令嬢様! 大変です!」
血相を変えたエリックが、教会に駆け込んできた。
「堆肥枠から、ひどい匂いが……! 村の者たちが、何かが腐っているのではないかと、騒ぎ始めています!」
私はすぐさま広場へと向かった。巨大な堆肥枠の周りには、村人たちと、そして「見たことか」と言わんばかりの表情を浮かべた騎士たちが集まっている。堆肥枠からは、確かに、鼻を突くような、アンモニアに似た強烈な臭気が立ち上っていた。
「やはり、黒魔術だったのだ……」
「土地の次は、我々の鼻を腐らせる気か……」
村人たちの間に、再び不安と疑念が広がり始める。副官の騎士が、勝ち誇ったように私に言った。
「公爵令嬢殿。これが、貴殿の言う『科学』とやらの結果かね? 我々の目には、ただのゴミの山が腐敗しているだけに|見えるが」
その言葉に、他の騎士たちから、くすくすという笑い声が漏れる。
私は、しかし、慌てなかった。それどころか、その臭いを一嗅ぎすると、確信を持って頷いた。
「いいえ、副官殿。これは、腐敗ではありませんわ。むしろ、私の計画が完璧に進んでいる証拠ですの」
「……何だと?」
「この臭いの正体は、窒素が分解される過程で発生するアンモニアです。これは、微生物たちが、極めて活発に働いてくれている証拠。言わば、彼らの『元気な雄叫び』のようなもの。ですが、このままでは、大切な窒素分が空気中に逃げてしまう……」
私は、エリックに向き直った。
「エリック! すぐに、男たちを集めて! この堆肥の山を、全て切り返します!」
「き、切り返す、ですか?」
「ええ! 山を一度崩し、中と外を入れ替えるように、もう一度積み直すのです! これを『攪拌』と言います。中に空気を取り込み、好気性菌の活動をさらに活発にさせるのです。そうすれば、この臭いは収まり、発酵は次の段階へと進みます!」
私の迷いのない指示に、エリックは一瞬戸惑ったが、すぐに力強く頷いた。
「わかった! やってやる!」
エリックの号令で、男たちが鍬を手に堆肥の山へと向かう。だが、その巨大な山を前に、明らかに人手が足りていなかった。
副官の騎士が、嘲るように言った。
「無駄なことだ。そんなことをして、臭いが消えるものか」
私は、その騎士をまっすぐに見据えた。
「ならば、賭けをしませんか、副官殿」
「……賭けだと?」
「ええ。もし、私の言う通り、明日までにこの臭いが収まらなかったら、私はこの計画の一切を諦め、潔くこの土地を去りましょう。ですが、もし、臭いが収まり、発酵が順調に進んだなら……」
私は、騎士たち全員を見渡して、はっきりと告げた。
「あなた方も、私の『科学』の兵士となって、この計画にその力を貸していただきます。誇り高きシュヴァルツェンベルクの騎士として、この賭け、お受けいただけますわね?」
私の挑戦的な言葉に、副官の顔色が変わった。彼は、この小娘が、まさか自分たちに真正面から勝負を挑んでくるとは思ってもいなかったのだろう。彼のプライドが、この賭けから逃げることを許さなかった。
「……よかろう。受けて立つ。だが、覚えておけ。我らは、まやかしには力を貸さん」
「望むところですわ」
その日の午後、ヴェルテンベルク領の広場では、村の男たちと、そして、最初は不承不承ながらも、やがてその圧倒的な膂力で作業の中心となっていく騎士たちが、一つの巨大な堆肥の山を切り返すという、奇妙な光景が繰り広げられた。
私も、スカートの裾をまくり上げ、彼らと共に汗を流した。科学とは、机上の空論ではない。実践と、そして共に働く仲間がいてこそ、初めて形になるのだ。
その様子を、少し離れた場所から、レオンハルト辺境伯が、静かに見つめていることなど、この時の私は知る由もなかった。
後書き
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
イザベラは、科学的な知識と、そして何よりその胆力で、誇り高き騎士たちとの賭けに挑みました。彼女の周りに、少しずつ、だが確実に、仲間が増えていきます。
次回は、本日のお昼に更新予定です。
次回「賭けの行方と、新たな仲間」。果たして、堆肥の臭いは収まるのか。そして、氷鉄の騎士たちの心は動くのか。
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