第90話 ある神の視界➁ ~我がエリスを選んだ理由~
エリスを探すと、彼女はいつも通り後宮にいた。
彼女の腕に抱かれているリリアは、くぅくぅと可愛らしい寝息を立てている。
「大きくなりましたね、リリア様も」
「えぇ、子どもの成長は早いものね」
感慨深そうに言うエリスに、メイドのアンがふわりと笑う。
「王妃様も、すっかりお母様業が板につきましたね」
その声に、エリスはちょっと目を見開いた。
驚いた様子だったものの、すぐに目を緩め抱いている我が子に目をやる。
「そうね。私、あまり小さな子を抱く事がなかったから」
そこにはリリアに対する慈しみと、そうできなかったもう一人の子どもロディスへの後悔の念が滲んでいた。
……本当ならば、ロディスが生まれる季節に時戻りさせてやれればよかったのだろう。
そう、時戻りをさせた当初は思わなかった事を、今更ながらに考える。
しかし、たとえ神といえど理を歪める以上、一定の制約を受ける。
我らが母・創造神ならそのような些事も簡単に飛び越えてしまうのだろうが、あの人は頼まれてもそのような事はしないだろう。
だからこそ、彼女は創造神足り得る。
「ロディス様もお優しく育っています。とても聡い子で、私が教えた事をすぐに覚えてしまって。先日また新しい事を教えたら『これでまたお母さまとリリアを守る力が増えた!』と喜んでいらっしゃって」
「そう」
エリスは言いながら、座る椅子の前にあるベッドで眠る我が息子に手を伸ばした。
彼の頭を撫でる手付きは優しい。
向けた視線はその色だけで、心など読まずとも「愛おしい」と思っているのが分かる。
「この子が優しいのは、この子の気質よ。他のどんな事も起因にはならない」
あんな状況でさえ、あの子は妹の事を構い、守ってくれる優しい兄だったのだから。
そんな言葉を隠した彼女は、おそらく「自分の愛が彼を優しく成長させた」と思われることを嫌っている。
アンはロディスに物を教えている。
主に、毒草と薬草について。
幼い頃からここまで周到にこういった物騒な事を教えておくのは、おそらくエリスの、時戻り前の子どもたちへの後悔があるのだろう。
今度こそ、この子が非業の死を遂げないように、と思っている。
だからこそ、可能な限りの予防線を、なるべく多く張り巡らせようとしている。
直接的な原因を遠ざけても尚、彼女は安心しきれない。
しかし、エリスはその知識が彼やその周りの命を救う事を祈りながらも、そんな事など起きなければいいと思っている。
母親の心とは、これ程まで複雑なものなのか。
我には『母』と呼べるような相手はいない。
神は生まれたその時から、役割を全うするために成熟した状態で存在するから。
――もしかしたら、だからこそ我はエリスを選んだのかもしれなかった。
我は、エリスを通して、『母親』というものの正体を知りたいのかもしれない。
「もうすぐロディスの誕生日だわ」
「そうですね。あとひと月ですか」
「何かいいプレゼントをあげられればいいのだけど」
「ご本人にお聞きには?」
「聞いてみたら、『お母様とリリアとアンとアランと、皆でお外に行ってみたい』って」
「慈善事業の時が初めての外出でしたものね」
「そして、その時は私が忙しくて、ちゃんと構ってあげられる時間が少なかった」
今度は一日中、ロディスのために時間を使ってあげたいわ。
彼女の心がそう呟く。
そこにあるのは純粋な愛情で、それが少し眩しく思えた。
我は時の神。
彼女がこの後辿るだろう道を、時戻りをした事で変わった先にどのような苦難が待ち構えているのか。
新たに生まれるのか。
彼女が行動する度に、何かを変え、賭けるその度に、生まれていく選択肢や消えていく選択肢すら、観測できる存在だ。
彼女の前にはまだ多くの苦難が――子どもたちを幸せにするために立ちはだかる弊害が、罠が、悪意が立ち込めている。
「盛大にお祝いしましょうね!」
黒い靄に隠れた感情に何故かギュッと胸をわしづかみにされているような感覚に陥っていた我は、アンのその言葉に微笑んだエリスを見て、何故か僅かだけ安堵した。
「えぇ、ありがとう。アンにも一緒に祝ってほしいわ」
言いながら、彼女は腕に抱くリリアの額とベッドに眠るロディスの頬に、それぞれ軽いキスを落とす彼女が、遠い記憶の中の誰かに薄っすらと被ったような気がした。
~~第二部、Fin.
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