終幕 黒鉄王子は恋をする
フィル様と、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえてきた。さざ波のように寄せては返っていくその愛らしい声を、もっと聴いていたい。
『フィル』と自分のことを呼ぶことを許したのは、フィルエステルにとってたった一人だ。誰よりも何よりも大切なその“特別な相手”が、フィルエステルのことを呼んでいる。本当はこのまま、まろく甘やかな響きに耳を傾けていたかったけれど、その相手はフィルエステルにそれを許してくれるほど、声音通りに甘い相手ではなかった。
「――ル様、フィル様、起きてくださる?」
何度目かも知れない呼び声に、やっとフィルエステルは重い瞼を持ち上げる。頭の下に感じるぬくもりを存分に堪能するフィルエステルの視線のすぐ先では、そのフィルエステルに膝枕をしているアウラローゼが、フィルエステルの顔を見下ろしていた。
「……アウラ?」
「ええ、フィル様。お目覚めかしら?」
確かめるように彼女の“特別”な名を呼べば、アウラローゼはその薄紅に色付く唇に笑みを刻んでことりと小首を傾げる。
その肩口からこぼれ落ちる、深く暗い赤茶色の、豊かに波打つ見事な髪の流れに目を奪われながら、ぼんやりとフィルエステルは呟いた。
「夢、を、見ていたんだ」
未だ夢と現のあわいを彷徨っているかのような、ほとんど独り言と言っても過言ではないフィルエステルの呟きに、ぱちりとアウラローゼは長い睫毛を瞬かせる。
「夢?」
「うん。私が初めて君に恋した時の夢だった」
「それは光栄だこと。でも、それだけじゃないでしょう?」
笑みを含んだその指摘に、フィルエステルは不覚にも言葉に詰まってしまった。その通りだ。その通りなのだが、それをアウラローゼに聞かせるつもりなどなかったフィルエステルにとっては、その沈黙は致命的だった。
様々な色彩が遊ぶ黒蛋白石の瞳を逸らすフィルエステルを見下ろして、アウラローゼは溜息を吐いた。フィルエステルの鼻先をくすぐったその吐息には、呆れという感情が非常に分かりやすく滲み出ていた。
「貴方の最近のご不調は、やっぱり私だったのね」
「そんなこと……」
「ない、とは言わせないわ。騎士団の皆が言っていたわよ。毎年この時期のフィルエステル殿下はまずいって」
「まずいとは酷いな」
「そう? 的確だと思うわよ」
上半身を起こしてアウラローゼの膝を解放したフィルエステルが苦笑すれば、しわの寄ってしまったドレスのスカートを片手で払いながらアウラローゼは、彼女らしくもなく困ったように肩を竦めた。
「私が気にしないでって言っても、貴方には無理なお願いなのでしょうね」
ほう、ともう一度溜息を吐くアウラローゼに、フィルエステルは大層居心地が悪くなる。基本的にフィルエステルはアウラローゼの望みはなんでも叶えたいと思っているが、アウラローゼの台詞通り、そればかりは無理な話だった。
毎年、この時期、フィルエステルは精神的に少々不安定になる。アウラローゼを喪ってしまった記憶に苛まれ、眠れなくなってしまう。
それを解消するために王宮騎士団で指南という名の八つ当たりをして、ありあまる体力を消費して、なんとか夜をやり過ごしているのが現状だ。
そのことをフィルエステルはアウラローゼには知られたくなかったというのに、彼女はそんなフィルエステルのささやかな意地など知ったことではないとでも言いたげにあっさりと、その薔薇色の瞳でフィルエステルの真実を見抜いてしまう。
まいったな、と苦笑を深めることしかできないフィルエステルの顔を、アウラローゼがじっと見つめてくる。薔薇色の瞳の中のフィルエステルの顔に、戸惑いが滲んだ。
「アウラ?」
何か言いたいことでもあるのだろうかという意図を込めてその名を呼ぶと、アウラローゼは何やら一人で決意した様子で、一つ頷いた。
何だろう、とフィルエステルが疑問に思うのとほぼ同時に彼女はソファーから立ち上がり、フィルエステルの前に立つ。アウラローゼの、白くほっそりとした、それでいて剣を握る者としての特徴も持ち合わせる手が、フィルエステルに向かって差し伸べられる。
「出かけましょうか、フィル様」
反論など最初から受け入れる気などなさそうな、有無を言わせないその台詞に、フィルエステルはまたしても瞳を瞬かせる。出かけましょうか、と、言われても。
「出かけるって、こんな時間に? もう城門を閉まるのに」
「ミラとユーゼフに協力してもらえばなんとでもなるわ」
窓の外を見遣れば、既に日が暮れていた。どうやら自分は、随分と長い間、アウラローゼの膝を占領していたらしい。こんなにも長く眠れたのは、ここ最近では本当に久々だった。
これ以上アウラローゼを拘束することなど本意ではないのだが、そんなフィルエステルの考えは、アウラローゼによって、いつかと同じように笑顔で覆されてしまう。
「夜のお忍びデートなんて、素敵だと思わない?」
恋しい女性にそんな風に言われて断れる男がどこにいるのかと、フィルエステルはもう笑うことしかできなかった。
* * *
渋るミラとユーゼフを説き伏せて、彼らを王宮に残し、フィルエステルとアウラローゼは二人きりで王宮を発った。二人がやってきたのは、先達てのフィルエステル曰くのデートの目的地……すなわち、城下町を見渡せる展望台だ。
空には月はない。朔夜だからだ。だから月の代わりに、普段は月の光にかき消されてしまう星々が輝いている。城下町の明かりに匹敵するような眩さを持つ、満天の星空である。フィルエステルが初めてアウラローゼと出会った時と同じだ。あの夜と同じ星空が、頭上にどこまでも広がっている。
「前にフィル様が仰っていた通りね。見事なものだわ」
夜風に遊ぶ長い髪を押さえながら、アウラローゼは感嘆の吐息を吐いて呟いた。アウラローゼの薔薇色の瞳の中で、街明かりと星明かりがきらめいている。その美しさに図らずも見惚れるフィルエステルに向かって、アウラローゼは笑いかけた。強く美しく輝かしい、アウラローゼだからこそ浮かべられる、フィルエステルの不安も焦燥も何もかも、綺麗に拭い去ってしまう笑顔だ。
「大丈夫よ、フィル様」
何が、とは、アウラローゼは言わなかった。フィルエステルが瞳を瞬かせれば、アウラローゼはフィルエステルの正面に立ち、その手を両手で包み込んだ。待つばかり、守られるばかりの姫君の手とは程遠い、戦うことを知っている美しい手で、フィルエステルの手を持ち上げたアウラローゼは、そのまま自身の額にフィルエステルの手を押し当てる。
「【鳥待ちの魚】が愛し子、アウラローゼ・ジェムナグランの名の元に。私はフィルエステル・オルタニアのことを、必ず守り抜くことを誓います」
それはいつかを思い出させる誓いだった。力強いその言葉に、フィルエステルは息を呑む。そうして、今にも泣き出しそうに、くしゃりとその甘い美貌を歪めた。
「君が、私を守ってくれるの?」
「ええ、そうよ」
「私が君を守ると誓ったのに?」
「お互いに守り合うことができるなら、私達は誰よりも強くなれるわ。そう思わない?」
にっこりと笑顔でそう言い放つアウラローゼに、フィルエステルは思わず天を振り仰いだ。星々が、そんなフィルエステルをからかうようにきらきらときらめいている。まったく、本当に敵わない。“黒鉄王子”と呼ばれるこの自分を守るだなんて、なんて勇ましい姫君か。なんて愛おしい姫君か。いつだってアウラローゼは、フィルエステルにとっての救世主なのだ。
「アウラ」
「何かしら」
「口付けてもいいかな?」
「な……っ!」
夜闇の中でもそうと分かるほど、アウラローゼの顔が赤くなった。薔薇色の瞳がうろうろと周囲をさまよい、やがてキッときつくフィルエステルを睨み付ける。
「そういうことは、いちいち訊くものじゃないでしょう!」
そう怒鳴りつけられても、そんなにも赤い顔では、ちっとも怖くなんてない。むしろなんてかわいいのだろう、と笑ったフィルエステルは、アウラローゼと繋いでいない方の手を、彼女の頰にあてがった。
一瞬びくりとアウラローゼは肩を竦ませるが、すぐに彼女はまるで挑むようにフィルエステルを真っ直ぐに見上げてくる。その瞳に、拒絶の色はない。少なくともフィルエステルはそう思った。
それをいいことに、フィルエステルは少しばかり身を屈めてアウラローゼの唇に自身の唇を寄せようとする。アウラローゼの薔薇色の瞳が閉ざされた。星明かりの下で影を落とす、けぶるような彼女の長い睫毛が、とても美しいとフィルエステルは思った。
そうして、フィルエステルとアウラローゼの唇が重なる。その甘さに、眩暈がした。
だが、そんな蜜のような時間は、長くは続かなかった。
フィルエステルとアウラローゼの間を、ビュウッと突風が駆け抜けていったからだ。
まるで意思を持っているかのようなその風に、反射的に二人は寄り添い合っていた身体を離す。風の吹き抜けていった方向を見遣ったアウラローゼは、その薔薇色の瞳を見開いた。
「シルフィード!?」
高く伸びやかな鳥の鳴き声が耳朶を打つ。その単語にフィルエステルもまた目を見開いてそちらを見遣れば、そこには見覚えのある鳥……風鳥シルフィードが悠々と宙を舞っていた。
続けて、高らかないななきと共に蹄が石畳の上を駆ける音が近付いてくる。まさか、とフィルエステルとアウラローゼが背後を振り返ると、この展望台に続く階段を駆け上ってくる一頭の馬がいる。あれは水馬ウンディーネだ。
そして、その背に乗っている、二人の青年は。
「ウンディーネまで……!? って、カルバ兄様、キリエ兄様!?」
驚きも露わにアウラローゼが叫ぶのとほぼ同時に、ウンディーネは展望台へと到着する。
間を置かずしてその背から飛び降りてきた長い金髪を高い位置でまとめた美貌の青年と、その美貌と瓜二つの顔を持つ長い銀髪を首元で緩く結った青年が、それぞれ腰に下げていた剣を抜き払った。
彼らの二対の薔薇色の瞳が、ぎらりと輝きフィルエステルを射抜く。
「フィルエステル! 貴様、よくも俺達のかわいい妹を、二度も殺してくれたな!」
金髪の青年、すなわちカルバリーエ・ジェムナグランがそう怒鳴ると同時に、彼は双子の弟である銀の青年、キリエルーバ・ジェムナグランと共に、剣を構えて地を蹴った。
「お兄様方!?」
アウラローゼの、その驚きと戸惑いが入り混じる、悲鳴のような叫びと共に、金と銀の青年は、躊躇うことなくフィルエステルに斬りかかる。
金属と金属がぶつかり合う、高く硬質な音が平和であったはずの展望台に響き渡った。
フィルエステルは、カルバリーエとキリエルーバが繰り出す剣戟を、腰から抜き払ったたった一振りの剣で易々といなす。だが、いなすことはできても、反撃に転じるまでは至らない。これくらい受け止めるべきなのだということを、フィルエステルは誰よりもよく解っていた。
あの“金の王子”と“銀の王子”、二人がかりの猛攻を、攻め返すことなく余裕を保ちながらいなし続けるのはなかなか一苦労だが、この双子の王子には、フィルエステルにそうすることが許されるべき理由がある。
一太刀くらい受け入れるべきか、とフィルエステルはなかなかに物騒なことを内心で考えるが、それは叶わなかった。
「フィル様、お兄様方! いい加減になさってくださいませ!」
アウラローゼの凛とした声が、フィルエステル達の剣を止めたからだ。そちらへと揃って視線を向けると、両手を腰に当て、肩を怒らせてアウラローゼがフィルエステル達を睨み付けている。
そして彼女はためらうことなく足を踏み出し、未だ剣を構えたままのフィルエステルと兄王子達の間に割り込んだ。
フィルエステルを背後に庇うようにして兄王子達を見上げるアウラローゼに、カルバリーエとキリエルーバは一瞬鼻白んだようだったが、すぐに気を取り直してアウラローゼを睨み返した。
「そこをどけ、アウラローゼ!」
「邪魔をするな、アウラローゼ」
「お断りしますわ、お兄様方。私の大切な方にこれ以上剣を向けたいのでしたら、その前に私を斬り捨ててからになさいませ」
その迷いのない台詞に、チィッ!と忌々しげにカルバリーエが盛大な舌打ちをし、キリエルーバが重々しくこれまた盛大な溜息を吐く。そして二人は、いかにも渋々といった様子で剣を下げる。
「俺達が、お前を斬れる訳がないだろう!」
「俺達は、もう、十分すぎるほどにお前を傷付けてきた。これ以上は頼まれてもごめんだ」
その言葉に、今度はアウラローゼの方が鼻白んだようだった。大きな薔薇色の瞳をますます大きくさせ、言葉を失ったままカルバリーエとキリエルーバの顔を交互に何度も見比べる。
まさか彼らがこんなことを言うなんて思いもしなかった、とでも言いたげな妹の態度に、兄二人は大層居心地悪そうにそれぞれ顔を背ける。
そんな兄達をしばし見つめていたアウラローゼは、やがてゆっくりとその薄紅に色付く唇を開いた。
「――カルバ兄様もキリエ兄様も、どうしてここに?」
アウラローゼの質問は、至極ごもっともなものだった。少なくともフィルエステルはそう思った。ここはオルタニアだ。本来ジェムナグランにいるべきこの二人の王子が何故この場にいるのか。事の次第によっては非常にまずい問題になるかな、と内心で呟きつつ、実際に口を挟むことはせずに金の王子と銀の王子をアウラローゼの背後から見つめる。
彼らはフィルエステルの視線を無視して、その瞳を、彼らにとってもフィルエステルにとっても大切な姫君へとやっと向けた。
「【鳥待ちの魚】の計らいだ。結婚前にちゃんとお前達と会っておけと」
「当然これは非公式訪問だ。ゆえにすぐにジェムナグランに帰らなくてはならないがな」
なるほど、あの森の貴人の計らいか。何らかの人知を超えた力が行使されたおかげで、カルバリーエとキリエルーバはここまで誰に見咎められることもなくやってこれたという訳らしい。
そう納得したフィルエステルは、その甘い美貌に微笑を浮かべ、アウラローゼを後ろから抱き締めた。
驚きに身体を竦ませて、顔を赤らめて自分を見上げてくるアウラローゼを抱き締めながら、フィルエステルは、殺気を放ちながら睨み付けてくる隣国の双子の王子に向かってにっこりと笑みを深めた。
「それではもう目的は果たされたということですね。ならばもうお帰りになるべきでは?」
「貴様が言うな!」
「貴様は黙っていろ」
「いいえ、黙っていられません。これでアウラを連れ帰られてはたまったものではないですから」
本当は、こんなことを言う権利など自分にはないことなど、フィルエステルには解っていた。自分は、アウラローゼに相応しい男になると誓っておきながら、彼女を守りきることができなかった。そんな自分から、カルバリーエとキリエルーバは、アウラローゼを取り上げる権利を持っている。
今ここで、彼らにアウラローゼを返すべきなのかもしれないと思わない訳ではない。本当にアウラローゼの幸せを思うのならば、きっと。
だが、嫌なのだ。誰に何を言われても、どうしても手放せないのだ。
たとえアウラローゼ自身に拒絶されたとしても、もうフィルエステルはアウラローゼを手放せない。それがきっと、フィルエステルがこの七年もの間抱えてきた恋の、譲れない答えだった。
そんなフィルエステルをもう一度睨み付け、カルバリーエとキリエルーバは、その視線をアウラローゼへと向けた。緊張していることを隠そうとして思い切り失敗している、余裕なんてまったくない視線だった。
「アウラローゼ」
「俺達はお前に訊きたいことがある」
「……何でしょうか、カルバ兄様、キリエ兄様」
アウラローゼが小首を傾げれば、ごくりとカルバリーエが喉を鳴らし、キリエルーバがその拳をそっと握りしめるのがフィルエステルの目に映った。そうして彼らは、大層重々しく、恐る恐る口を開く。
「お前が、この男を望んだのか?」
「お前が、この男を選んだのか?」
「「お前は、幸せか?」」
その問いかけに、反射的にぎくりとしてしまったフィルエステルに、アウラローゼは気付いていたのだろうか。
カルバリーエ達の問いかけは、フィルエステルもまた知りたかった問いかけだ。けれど、答えを聞くのが恐ろしくて訊けなかった問いかけである。
口の中がカラカラに乾いていくのを感じながらアウラローゼを見下ろせば、こちらを見上げてきた彼女の瞳とばちりと目が合った。その唇が、また、音もなく「大丈夫」と動く。そうして再びアウラローゼは、兄王子達へと視線を向けた。
「はい、お兄様方」
それは、力強い肯定だった。
「私はフィル様に望まれ、フィル様に選ばれました。ですが、それだけではありません。私はフィル様に望まれ選ばれると同時に、私自身もまた、フィル様のことを望み、選んだのです。これ以上幸せなことがありましょうか?」
気付けばアウラローゼを抱き締めるフィルエステルの腕に力がこもる。そんなフィルエステルの手に、アウラローゼの手が重なった。思ってもみなかったそのぬくもりに腕の中の存在を見下ろせば、彼女は困ったような……それでいてとても気恥ずかしげな笑みを浮かべて、兄王子達に笑いかけていた。その笑顔に、カルバリーエとキリエルーバの美貌が、忌々しげに歪む。
「フィルエステル。貴様の執念深さには辟易する!」
「まったくだ。かわいげの欠片もない」
「お褒めに預かり光栄です」
「「褒めてない!!」」
異口同音の怒声に対し、フィルエステルは笑った。何を言われても痛くも痒くもない。ただ彼らがアウラローゼのことをもう奪うつもりがないことが確かであったから、それだけでよかった。十分だった。
やがて、シルフィードがまた高く鳴いてカルバリーエの肩に止まり、ウンディーネがそっとキリエルーバにその頭を擦り寄らせた。金の王子と銀の王子は、そんな自身の半身達に答えるように彼女達を撫でた。その姿が、少しずつ透明になっていく。まるで星明かりに溶かされていくかのようだった。
ぱちぱちと瞳を瞬かせるアウラローゼに、カルバリーエとキリエルーバの視線が向けられる。三対の薔薇色の瞳が、交錯した。
「時間だ」
「俺達はジェムナグランに帰るが、アウラローゼ。お前を送り出した時に告げた言葉を撤回する。お前も、いつでも帰ってこい」
「帰ってこないならば、幸せになれ」
「お前の幸福が、俺とカルバの望みだ」
アウラローゼが息を呑むのが、フィルエステルには解った。腕の中で、アウラローゼが何かを言おうとする。けれど、彼女が言葉を発する前に、目の前にいたはずの兄王子達の姿は掻き消えた。まるですべてが幻だったかのようだった。
そうして、街明かりと星明りの狭間に位置する展望台に残されたのは、フィルエステルとアウラローゼの二人だけ。
長い長い沈黙の後に、そっと小さく、囁くように、アウラローゼが口を開く。
「……ねえ、フィル様」
「何かな」
「私、幸せよ。今までだってきっと幸せだったけれど、これからはもっとずっと、比べ物にならないくらいに幸せになるわ」
フィルエステルの腕の中で、背を預けて俯きながらそう言った彼女の声が震えていたのは、泣くのを堪えているからだろう。けれどそれを指摘するような無粋な真似はせずに、フィルエステルはアウラローゼを抱き締めたまま、世間では『鉄錆色』と呼ばれる暗い赤茶色の髪に口付けた。
びくりと身体を震わせたアウラローゼが、そっとこちらを見上げてくる。涙で潤んだ薔薇色の瞳の、なんと美しいことか。
「あ」
「…………何かしら」
「今、音が聞こえた」
「何の音?」
「恋に落ちる音」
もう何度も、幾度となく聞いてきた音が聞こえた気がした。アウラローゼの顔がまた赤らみ、そして大輪の薔薇が綻ぶかのように、少女は美しく笑う。
ああ、ほらまた聞こえた。恋に落ちる、とても心地好い音が。そしてこの音を聞くのは、これが最後ではないのだ。
だってそうだろう。
フィルエステルは、今までも、これからも、何度でも、アウラローゼに恋に落ちるのだから。