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3-16 ツツジ達の沈黙  作者: maki_senokouji


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第1話 辛勝

 凍てつくような冬の木枯らしが、ビルの谷間を吹き抜けていく。

 師匠のマンションでの一件から数週間後。川越優一は、またしても偶然、信じられない光景に出くわしていた。

 駅前の人通りが少し途切れた路地の入り口。そこで、見覚えのある小柄な少女が、ガラの悪い二人の男に道を塞がれていたのである。

 どこかの令嬢のような、仕立ての良い上品なコートを着たまさ子だった。いや、令嬢には違いないが、その丸っこくてふわふわとしたあどけないシルエットは遠目にもすぐに分かった。

 男たちはニヤニヤと笑いながら、まさ子の腕を掴もうと手を伸ばしている。

(またかよ! なんであの人は、こんなによくからまれるんだ……!)

 優一は反射的に駆け出していた。

 相手は二人。だが、今の自分には、あの秋の日から密かに通い始めたキックボクシングジムでの鍛錬がある。そして何より、師匠――あの底知れない凄みを持つ邦明の「相手に手を出させず、威圧だけで片を付ける」という大人の対応を、今度こそ完璧にやってみせるという自負があった。

「おい、嫌がってるだろ。離してやれよ」

 優一は、あの日と同じように、まさ子を背後に庇って立ち塞がった。身長一九〇センチに迫る恵まれた体躯から見下ろし、低い声で威圧する。男の一人が舌打ちをし、優一の顔面に向けて殴りかかってきた。優一はあえてそれを避けず、その拳をわざと頬に受けた。

(よし、ここから凄みで……)

「……これで満足か? だったら――」

 あの日の決め台詞を口にしようとした瞬間、優一の視界の端で、もう一人の男の右手が鈍く光った。

 カチャリ、という乾いた音。男の手には、刃渡り十センチほどのバタフライナイフが握られていた。

「ガキが、調子乗ってんじゃねえぞ!」

 殺気立った男が、躊躇なくナイフを突き出してくる。

(嘘だろ!?)

 大人の「凄み」など通用する相手ではなかった。優一は咄嗟に身を翻し、最近通い始めたキックボクシングジムで習いたての動きで男の手首を打ち据えた。ナイフがアスファルトに弾き飛ばされる。そのままもう一人の男の鳩尾に膝蹴りを叩き込み、ひるんだ隙にナイフを蹴り飛ばした。

 形勢不利と悟った男たちは、捨て台詞を吐く余裕もなく、這うようにして路地から逃げ去っていった。


「ふぅ……っ」

 荒い息を整えようとその場に立ったままの優一の耳に、「川越君っ!」という悲鳴のような声が聞こえた。

 振り返ると、まさ子が真っ青な顔をして駆け寄ってくる。彼女の視線は、優一の左手と頬に注がれていた。

 ナイフを避けた際、完全には躱しきれず、左手の甲と頬に、それぞれ浅いがスッと一筋の切り傷を負っていたのだ。赤い血が、じわじわと滲み出している。

「あ、いや、これくらい平気……」

「平気なわけありません! 血が……っ」

 まさ子は意外な手早さで、すぐさま自分のバッグから清潔なハンカチを取り出し、優一の左手の甲に押し当て、手早く巻き付けた。さらに、いつも持ち歩いているらしい救急ポーチから絆創膏を取り出し頬の傷を塞ぐのだが、その手は震えていた。

 ふと見ると、誰に対しても丁寧で、ぽやぽやとしたいつもの彼女からは想像もつかないほど、その顔はこわばっていた。

「応急手当はしましたけど……これでは駄目です。もう少しちゃんと消毒して手当てをしますから、すぐに私の家に来てください」

「えっ? いや、でも俺、平気だし、まさ子さんの家って……あの、マンション?」

「今日は、実家に帰るところだったんです。すぐそこですから、来て」

「いや、でも……」

「来、な、さ、い」

 その有無を言わさぬ真剣な瞳と、普段の「です・ます」調すら消え失せた強い口調に、優一は完全に気圧され、黙って頷くしかなかった。

 まさ子に腕を引かれるようにして連れて行かれた先は、駅からほど近い閑静な高級住宅街の一角だった。

 高い石組みの塀に囲まれ、見上げるような立派な門構え。従姉の詩織の家も裕福だが、ここはもはや個人の邸宅というより、歴史ある美術館か迎賓館のような威容を誇っていた。

 優一は門をくぐり、手入れの行き届いた広大な日本庭園を歩きながら、ズンと胃の腑が重くなるのを感じた。

(……ああ。やっぱり、そもそも全然、身分が違ったんだな)

 秋葉原の豪奢なマンションで「魔王の城」の片鱗を見た時も絶望したが、彼女のルーツであるこの実家の圧倒的なスケールを見せつけられると、十四歳の少年の心にはいらぬ卑屈さが顔を出してしまう。

 自分のような中学生が、背伸びをして守れるような相手ではなかったのだと、改めて骨の髄まで思い知らされるようだった。

 通されたのは、優一の自室が丸ごと五つは入りそうなほど広い、和洋折衷の美しい応接間だった。

 ソファに座らされ、まさ子が手際よく救急箱を開いて消毒と包帯の処置をしてくれる。傷自体は本当に浅く、包帯を巻くのは少し大げさな気もしたが、まさ子の真剣な顔を見ると文句は言えなかった。

「……はい。これで大丈夫ですね」


 まさ子が少しだけ安堵の息を吐いた時、応接間の重厚なドアがノックされ、「まあちゃん、お茶を持ってきたわよ」と、朗らかな声と共に一人の女性が入ってきた。

「茜ちゃん、ありがとうございます」

 トレイを手に入ってきたその女性、茜を見て、優一は息を呑んだ。ギャルの外見だが、まさ子に似たどこか人間離れした美しさを持ち、より大人びていて、しかしその表情は親しみやすい輝くような華やかさを纏っている。

 茜はソファに座る優一の包帯姿を見るなり、目を丸くした。

「あらあら、痛々しいお怪我。あなたがまあちゃんを助けてくれたのね? 私は次女の茜。よろしくね、優一君」

 初対面のはずなのに下の名前を呼ばれ、優一はカチコチに固まったまま「は、はいっ!」と裏返った声で返事をした。

 茜は優一の正面に座り込み、紅茶を勧めながら、興味津々といった風情で質問攻めを始めた。

「ジムで格闘技を習ってるの? キックボクシング?えらいわねえ。で、何人で襲ってきたの? ナイフはどうやって避けたの?」

「あ、あの、それは……えっと……」

 ただでさえ身分違いの豪邸で縮こまっているのに、こんなに綺麗な女性に顔を覗き込まれては、優一は緊張でろくに喋れない。


 そこへ、さらに追い打ちをかけるようにドアが開き、もう一人の女性が現れた。

「茜、お客様が困っていらっしゃるでしょう。あまりからかわないの」

 凛とした、冷ややかなまでに整った美貌。長女の凜だった。彼女が部屋に入ってきただけで、空気がピンと張り詰めるような圧倒的な佇まいである。

 絶世とも言うべき美人三姉妹に囲まれてしまった優一は、もはや生きた心地がせず、完全に借りてきた猫どころか、蛇に睨まれたカエルのようになっていた。

「あの、お姉さま方。彼が、詩織ちゃんの従弟の川越優一君です」

 まさ子が優一を庇うように前に出て、二人の姉に向かって熱っぽく紹介を始めた。

「私、川越君に助けていただいたのはこれで二度目なんです。今日も、自分の身の危険を顧みずに私を庇ってくれて……。それでご自身は怪我をしてしまって。本当に紳士で、いつも私のことばかり気遣ってくださる、とても優しくて強い方なんです」

 まさ子からのベタ褒めの言葉に、優一は顔から火が出そうだった。

 姉二人は「まさ子が危ないところ、本当に助かったわ。ありがとう」「君、強いんだね。すごいね」と優しく微笑んでくれた。もちろん、邦明の話題は一切出さず。


 だが、話が一段落したところで、まさ子の様子がふいに変わった。

 彼女は改めて優一の正面に向き直ると、先ほどまでの称賛とは打って変わって、ひどく思い詰めたような、暗く沈んだ瞳で彼を見つめた。

「……川越君」

「は、はい」

「でも、今日のは何ですか? あなたはまだ、あんな喧嘩みたいなことをやっているのですか」

 その声は低く、微かに震えていた。


(了)

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