第22話優乃さん
築50年の実家は、窓や扉が少しずつ歪んでいて、夏になると、冷房をつけても、気休め程度だ。そのため、ランニングに短パンで過ごしているけど、今日はそうはいかない。
俺は、新品のTシャツとジーパンで、そわそわしながら、ソファでスタンバイしていた。
「よし……」
年代を感じる薄汚れた白い壁にかかった古いアナログ時計が、約束の時間である昼3時を指すと、俺は春川さんに電話を入れた。
「もしもし」
いつもより少し高めの声が耳元で優しく、甘く囁く。スマホ越しに声が聞こえただけなのに、心臓が口から出てきそうだ。
「あ……不知火です……」
「どうしたの?電話したい……だなんて」
「就職が決まったって……伝えたくて……」
でも、話し始めると、すらすらと言葉が出てくるから、不思議だ。いつの間にか、就職したことまで、話していた。
「わあ! おめでとう!」
これは、きっと、笑顔で手を叩いているテンションだ。電話の向こうの明るいリビングが目に浮かぶようだった。
「仕事は、スーパー・ニコニコの品出しです。まあ……今回は、正社員なんで……少しは、安定するかなって……」
「そっか。じゃあ、お祝いしなきゃだね」
「お祝い……ですか……」
お祝いという言葉を聞いて、胸が高鳴る。春川さんの名前を呼ばせてほしい……そんなおこがましいこと言ってもいいものだろうか。
「どうかしたの?」
春川さんが心配そうに尋ねる。そして、その表情を想像しただけで萌える……で終わるのが、今までの不知火篝。
でも、人生初の正社員での就職をした今の不知火篝なら、きっと、この勢いに乗れるはずだ。
「……だ、だったら……お願いがあるんですけど……」
「なあに?」
「春川さんのこと、優乃さんって、呼んでもいいですか?」
思いきって言ってみたものの、電話の向こう側が急に静かになってしまった。
やっぱ、調子に乗りすぎたか。電話を切られたらどうしよう。俺の思考は、悪い方へと転がり出す。もうこれ以上、悪い方へ転がると、崖に落ちると思った時、
「……いいよ」
溜めに溜めたような春川さんの返事が返ってきた。心持ち、照れているような声に聞こえたのは、俺の気のせいだろうか。
「あ、ありがとうございます!」
何はともあれ、これで、また一歩進んだ。この場で、踊れそうなくらい、俺の心は弾んでいた。ヤバい。危うく、床を壊すところだった。
「また、時間のある時には、スーパーに顔を出すよ。頑張ってね。篝くん」
「え……」
篝くん……今、そう言ったよな……。浮かれすぎて、俺の耳がおかしくなったわけじゃないよな……。
「じゃ、じゃあ、またね」
余韻に浸っていると、電話がすぱっと切れた。
でも、いいんだ。今度から、春川さんのことを優乃さんと呼ぶ権利を手に入れたし、俺も、篝くんって、呼んでもらえるから。
ああ……マジで、生きてて、よかった~!
古びた実家の天井を見上げながら、俺は一人、にやけが止まらなかった。




