旅の終わり 06
このままこの国に残るのか、それとも一緒にアストラに向かうのか――。
マイアの結論を聞くために、窓を大きく開けたルカは、隣の部屋のバルコニーにたたずむ人影に気付いて目を見張った。
「マイア、もしかして待ってたの? こんなに寒いのに」
「雪が積もってたから珍しくて」
宿の庭には、暗くなっても景色が楽しめるようにランタンが置かれている。
下を見下ろすと、全体的に白い雪化粧が施されている様子が見えた。
今日はやけに冷え込んで、朝方から雪がちらついていた。そのせいでこれまでは日中の日差しで解けていた雪がそのまま残ったのだろう。
これから冬が深まると、この辺りは雪と氷で閉ざされる。
トリンガム侯爵領の気候はアストラに似ているから、懐かしい祖国でも今頃は白い光景が広がっているに違いない。
「そろそろ来る頃かなって思ってた。廊下から来ればいいのに。またこっちからなんだね」
「廊下からだと誰かに見つかるかもしれない」
亡命を取りやめる話をしているのだ。シェリルやヘクターに見咎められたらまずい事になる。
「そっちに移動してもいい?」
「うん」
マイアは頷くとバルコニーの端に移動した。ルカは柵をよじ登ると、空いた空間に向かってひらりと飛び移る。
室内の魔術灯に照らし出されたマイアの顔は、寒さのせいか赤くなっていた。
「中に入ろう。あまり外にいると風邪をひく」
「過保護だね。私は聖女なのよ?」
マイアはふふっと笑った。確かに聖女である彼女は病気に罹りにくい。高い自己回復力は怪我だけでなく病魔に対しても力をふるう。
「いっぱい着てるから寒くないんだけど……ルカが寒いよね。部屋に入ろう」
確かにマイアは本人が言う通りしっかりと着込んでいた。
彼女は今日もアストラ風の衣装を身につけている。髪と目の色が茶色になっているのが少しもったいない。
室内にルカを招き入れると、マイアは小さな布袋を差し出してきた。
上品な紺色の袋には、ソードリリーの花が刺繍されている。
「守袋?」
「うん。ヘクターおじさまとお揃いなんだけど……あ、刺繍の図案は違うのよ。おじさまのはオリーブにしたの。その方がおじさまにはいいかなって思って」
『勝利』という花言葉を持ち、戦神マウォルスの象徴とされるソードリリーに対して、『知識』という花言葉を持つオリーブは、知恵と魔術を司る女神ミナーヴァの象徴だ。確かに学者肌のあの男には合っている。
「……聞いたんだ。あのおっさんの本名」
「うん。教えてもらった」
午前中に戻ってきたゲイルことヘクター・ギレットの様子をマイアが見に行った事は知っている。恐らく彼の本当の名前はその時に知ったのだろう。
マイアを助けるためにかなりの人間に素顔をさらしたから、ヘクターにもルカにも帰還命令が出ている。今後は本名で生活することになるので、確かにマイアに教えても問題はない。
「内側に折り込んだ袋の口には護りの魔術式を縫い込んであるの。急いで作ったからあまり凝った刺繍は入れれなかったんだけど……魔術布にしたから何かの役に立てばいいなって思って」
「嬉しいよ。ありがとう」
受け取ると、中にはポプリが入っているのかラベンダー系のハーブの匂いがした。
「明日、おじさまの魔力が回復したら移動するのよね……? その前にどうしても渡したかったの。アストラに着いたら軍に異動になるルカとはそう簡単に会えなくなるって聞いたから……」
「そうだね。たぶんまずは訓練を受けることになる」
軍への異動はほぼ確定事項だ。恐らく相当な扱きを受けることになる。マイアに言うつもりはないが、ルカは森で彼女を助けるために自己判断で諜報任務から外れた。軍への異動にはその懲罰的な意味合いもある。
「ルカ、私決めたよ」
マイアは一旦言葉を切ると、静かな眼差しをこちらに向けてきた。
「ルカやおじさまと一緒にアストラに行く」
「国境を越えれば簡単にはこちらには戻れなくなる。もしかしたら一生」
「そんなのわかってるよ。でもここで亡命をやめるって言いだしたらルカにもヘクターおじさまにも迷惑をかけてしまう。私は二人とも大好きだから……それは嫌なの。特にルカは、私がこの国を選んでその手引きをした場合、立場が悪くなるどころじゃないよね……?」
「俺はどうとでも生きていける」
「駄目だよ。私はルカをそんな立場に追い込みたくない」
マイアは首を振った。
「一応ね、自分でもちゃんと色々考えたのよ。それでわかったの。私、自分でもびっくりしたんだけどこの国への思い入れなんてなかったみたい」
そう言いながら、マイアはルカに向き直った。
「首都に戻ったら、また平民の聖女として一段低く見られて……アベル殿下か他の貴族か……国の決めた相手の所に嫁がされる。それはきっとアストラに行ってもあまり変わらないんじゃないかな?」
ルカは何も言えなかった。アストラでマイアがどんな扱いを受けるか、はっきりと明言できなかったからだ。
人とは違う特別な力を持って産まれてくるという事は、必ずしも幸せな生活をもたらすとは限らない。それをルカは身をもって知っている。
特別な力は時に周囲に利用され搾取される。ルカが優秀な兵士として危険な場所に送り出されるように。
マイアは希少でかつ力の強い聖女だが、どんな扱いを受けるのか今の段階では不透明だ。よそ者として排斥され、この国と同じように難しい患者の治療やきつい仕事を押し付けられる可能性は十分にありえる。
「……この国への未練らしきものは両親のお墓にお参りできなくなることくらいなの。だから本当に気にしないで。それよりも私は、ルカとの繋がりが切れる方が嫌だと思った」
「そんな事で決めるなんて……」
「そんな事じゃない! 私、ルカが好きなの。だから……」
マイアの発言にルカは大きく目を見開いた。
◆ ◆ ◆
言ってしまった。マイアはルカの反応が怖くて目をそらした。
そして更に言葉を紡ぐ。
「ルカが好き。だから私はルカの祖国を見てみたい」
「……そんな一過性の恋愛感情で決断したらいつか後悔する」
淡々と返されて、マイアは視線をルカに戻した。
「俺はマイアのその気持ちは錯覚だと思ってる。生死がかかった場面で助けに来たのが俺だったから、俺への好意が雛鳥みたいに刷り込まれたんだ。極限状態では人は正常な判断はできなくなる」
そう告げるルカの表情には何の感情も浮かんでいなかった。
突き放された。心がじくじくと痛む。
だけどこの感情を勘違いという言葉で片付けられたくなかった。
「私の気持ちを勝手にルカが決めないで。今、私が好きなのはルカなの。この気持ちは錯覚なんかじゃない」
「だとしても、仮にアストラに亡命したとすればマイアにはたくさんの求婚者が現れる。わざわざ俺を選ぶ必要はない」
「どうしてそんな事言うの……? ルカは私が嫌い……?」
「……マイアは可愛いよ。でもそういう対象としては見られない。俺にとっては妹というのが恐らく近いと思う」
ルカの表情はやっぱり静かだ。穏やかな保護者のような眼差しを向けられて、マイアの心は悲鳴を上げる。
違う。私が欲しいのはそれじゃない。
庇護者と庇護されるものという関係ではなくて、特別な異性に対する気持ちが欲しい。
つん、と鼻の奥が痛くなった。そして涙腺が緩む。
(だめ)
こんな場面で泣きたくない。マイアはまばたきを繰り返して涙を散らした。
泣いたらルカに罪悪感を抱かせてしまう。いや、それよりもみっともない顔を見られたくなかった。
なけなしの矜持を振り絞り、マイアは必死に笑みを浮かべた。
「……そっかあ……また振られちゃった」
きっと今の自分は泣き笑いのような表情になっている。
あともう少し。こらえろ。マイアは自分に言い聞かせる。
「マイア、ごめん……」
「謝らないで」
恋愛感情はどうにもならないものだ。
キリクの宿で拒絶されて、マイアはルカへの恋愛感情を捨てようと努力した。でも結局捨てたつもりが捨てきれていなかった。
それと同じで、ルカはどうしてもマイアを異性としては見られないのだろう。それは酷く悲しい。でも――。
「ルカの答えはなんとなくわかってたよ。だから私、傷付いてないから。本当に謝らないで欲しい。自分の気持ちにけじめをつけたかったの」
次に行くために。望みはないのだときっぱりと突き付けられた方が踏ん切りもつく。
「それに、振られちゃったけど、結論は変わらないし変えるつもりもない。この国で聖女として過ごした時間より、ルカと旅をした時間の方がずっと楽しかったから……新天地に賭けてみたいと思ってる」
「……本当に結論は変わらない?」
「うん。……だからもう帰ってくれないかな。さすがにルカの顔を今見るのは辛い」
マイアはどうにか言葉を絞り出すと、ルカの視線から逃れるように背中を向けた。
その直後だった。
背後から手首を掴まれ、マイアは動揺する。
「ルカ、何……?」
「……っ、ごめん。これは、違うんだ」
ルカは慌ててマイアの手を離すと、身を引いてマイアの腕を掴んでいた自分の手を信じられないという表情で見つめた。
かと思うと、くるりとこちらに背を向け、バルコニーに通じる窓を開け放つ。
身を切るような冷気が外から吹き込んできた。
「まっ……」
待って、とマイアが止める間もなくルカの姿が消える。
(今のルカの顔……何……?)
マイアは大きく目を見開き、その場に立ち尽くした。




