<31.終章蛇足>
2ヵ月後。
鷹内は組長室のソファーに腰を下ろし、新聞に目を通していた。
沖縄での隠遁生活は、芭皇が仕事を遂行したことにより、あっという間に終了した。高原が死んだ翌日には、もう鷹内は東京に戻っている。
新聞の一面には、新しく発足した内閣に関する世論調査の結果が掲載されていた。
支持率は32パーセントと、高原内閣の頃からは大幅に下がっている。
高原の死後、彼が率いていた民合党は分裂し、自正党との連立は解消となった。
政界再編が行われ、新しい首相には自正党の元幹事長・保利太朗が就任した。
保利は高原のような強硬な策を取るタイプではなく、むしろ穏健派で、自正党の中では優秀な調整役として評価されてきた人物だ。
ただし、かつてゼネコンの汚職疑惑に絡んで名前を取り沙汰されたこともあり、金銭絡みでダーティーな噂も多い。
就任早々、一部週刊誌では保利と大手銀行の癒着疑惑が報じられている。
「芭皇が言っていた通り、新たなクソ野郎が空いたポジションに入ったかな」
鷹内は憂鬱な表情で、ポツリと言う。
当面、彼は保利内閣の動きを見守るつもりだ。
同じ一面には、高原殺害事件に関する続報も載っている。
警察は中国マフィアによる犯行の可能性もあると考え、そちら方面からの捜査を進める方針だと記事は伝えている。
「なるほど、日本人では不可能な仕業だということか」
鷹内は小さく苦笑する。
警視庁は捜査本部を設置し、全力で高原殺害事件の捜査に当たっている。
一国の総理大臣が官邸の中で殺害されたのだから、国家の威信に関わる問題である。
だが、警察は躍起になって犯人を捜しているものの、未だに有力な手掛かりさえ掴むことが出来ていない。
当初から警察では巨大な犯罪組織による犯行だと推測しており、外国人グループを中心に捜査を進めている。
少なくとも当分の間は、芭皇に捜査の手が伸びることは無いだろう。
「まあ、手が伸びたとしても、あいつは平気だろうがな」
鷹内がつぶやいた直後、いきなりドアが開いて若い男が入ってきた。
「組長、ソウォジがやっている店のことなんですけど……」
「ノックをしろと、何度言ったら分かるんだ」
相手が言葉を終える前に、鷹内が厳しく言い放つ。
「す、すみません、急いでいたもので」
若い男は、慌てて頭を下げた。
黄色いTシャツを着ており、その真ん中に“白顔”という漢字がプリントされている。
「毎甲、これで何度目だと思っているんだ?お前には学習能力が無いのか」
鷹内は厳しい口調で、諭すように告げる。
毎甲というのは、その若い男の名前だ。
2週間前、幹部の1人から頼まれ、鷹内組に入れてやったばかりの新人である。
「それで、ソウォジの民族楽器店がどうかしたのか」
「あ、そう、そうなんですよ」
毎甲は口をパクパクさせ、早口で喋る。
「あの店、ゴピチャンドが置いてないんですよ。知ってましたか」
「何だ、そのゴピチャンドってのは」
「インドの民族楽器ですよ。一弦だけで演奏する琴です」
「……それで?」
鷹内は、冷たい目で毎甲を見た。
「それでって、だからコピチャンドが置いていなかったんですよ。あれは是非とも置いてほしいんです、個人的に」
「そんなことを言うために、ノックもせずに急いで部屋に入ってきたのか」
怒りを抑えつつ、鷹内は重々しい口調で言う。
だが、そんな彼の様子に全く気付かず、毎甲は真剣な態度で答える。
「気付いたら、すぐに伝えるべきだろうと思ったものですから。どんなことでも、早く報告するのが優秀な手下というものではないでしょうか」
「……もういい。お前とはマトモに話す気にもなれん」
鷹内は呆れ果てた。
「分かったから、さっさと下がれ」
「えっ、下がるんですか」
毎甲はそう言って、一歩後ろに移動する。
「馬鹿野郎、下がれというのは、部屋を出て行けということだ」
鷹内が立ち上がり、怒鳴り付ける。
「あ、ああ、そうか。すみません」
自分の間違いに気付いた毎甲は、そそくさと部屋を出て行った。
「またバカな新人か。つくづく、オレは人材に恵まれていないな」
ため息をつき、鷹内が嘆く。
毎甲は茂戸に比べると、真面目で純朴な男だ。
だが、バカの度合いは同じようなものだった。
「今度こそ情に流されず、早々に辞めさせるぞ」
鷹内は、そう自分に誓った。
*
「どうも、安藤さん」
江利杉が明るい様子で、ピカソ・トリガーにやって来た。
「よお」
安藤が丸椅子に腰掛けたまま、短く言葉を返す。
「どうですか、売り上げの方は」
「相変わらずさ。しかし珍しいな、そんなことを気にするのは」
「いえ、『パンスト万歳』シリーズが発売されなくなったので、その影響はどうなのかと思いまして」
「ああ、なるほど。まあ確かに、影響が全く無いと言えばウソになるけどな。シリーズのファンからは、問い合わせのEメールが何通も届いたし」
「僕も寂しいですよ。パンストのフェチではありませんけど、毎月の恒例行事が消えたようなものですから。それに何より、芭皇さんと顔を合わせることが無くなったのは寂しいですね」
「まあ、あんな奴でも、いなくなると少しは寂しいものだな」
安藤は視線を床に落とし、そんなことを言う。
2ヶ月前、いつもより早めに『パンスト万歳』シリーズ第12作のマスターDVDを届けて以来、芭皇は店に来ていない。
そのため、シリーズは休止状態となっている。
「それにしても、芭皇さんが旅人になるとは思いませんでしたよ。ずっと極楽園にいるものだとばかり思っていたんですけどね」
江利杉が言う。
最後に芭皇と会った時、江利杉は
「しばらく旅に出ることにした」
と聞かされたのだ。
「極楽園での生活に飽きたんじゃないか」
安藤は、淡白な調子で言う。
芭皇が極楽園を去った経緯や行き先を、彼は全て知っていた。
もちろん、そのことは江利杉には内緒だ。
「それにしても江利杉、随分と元気になったようだな」
安藤は話題を変える。
「一時期は、かなり落ち込んでいたようだが」
「ええ、まあ」
江利杉は、やや恥ずかしそうな表情になる。
「芭皇さんからファンクラブの創設に反対された時は、確かに落ち込みました」
「そりゃあ、反対されて当然だな」
安藤は苦笑する。
殺し屋のファンクラブなど、聞いたことも無い。
「かなり厳しく言われたらしいじゃないか」
「ええ、芭皇さんから、あれほど強い言い方をされたのは初めてですよ。それもあって、ショックが大きかったんです」
「それで怖くなって、ファンクラブ創設の取り止めを承諾したのか?」
「いえ、そうじゃありません。僕は芭皇さんが好きですからね。あの人から絶対に止めろと強く言われたものを、無理に作ろうとは思いませんよ」
そこまで言って、江利杉はパッと笑顔になる。
「それに、新しく応援する対象も出来ましたからね」
「応援する対象?」
「ええ。これ、見てくださいよ」
江利杉はズボンのポケットに手を入れ、1枚のポストカードを取り出した。
「何だ、これは?」
差し出されたカードに、安藤が目を向ける。
そこには、大きな筆を持ってスカイダイビングをしている男が写っている。
「知りませんか。この人は、灘儀早海さんです」
知っていて当然だという表情で、江利杉が答える。
「誰だ、それは?いや、それよりも、何をやっているんだ、こいつは」
「もちろん、エクストリーム書道ですよ」
「エクス……何だって?」
「だから、エクストリーム書道です。危険な場所や危険な状況で書道をするという、新しいエクストリーム・スポーツですよ。その第一人者が、その灘儀早海さんなんです」
江利杉は、楽しそうに語る。
「それはスカイダイビングですけど、他にも滝に打たれながら書道をしたり、険しい雪山で書道をしたり、様々なことにチャレンジしているんですよ」
「ただのバカじゃないのか、それは」
突き放すように、安藤が言う。
「とんでもない、立派なスポーツですよ。世界大会もあるんです。オリンピックの正式種目にしようとする動きも起きていますしね」
江利杉は熱弁した。
「それは、世界中にバカがいるってことか」
「違いますって。そうだ、まだ来年の話ですけど、次回のエクストリーム書道世界大会は、日本で開催されるんですよ。大会が迫ってきたら、この店にもポスターを貼らせてくださいね」
「やれやれ、お前は変なものばかりに夢中になるんだな」
安藤は、呆れたように首を振った。
*
「ちょっと、何してるのよ」
椎菜は目を吊り上げ、非難の言葉を放つ。
キンドが、いきなりテントに入ってきたからだ。
「入る時には、外から呼び掛けなさいよ」
「椎菜さん、また激怒ですか」
キンドは何食わぬ顔で、そんなことを言う。
「いつも怒ってばかりですね」
「怒らせるようなことを繰り返すからよ」
椎菜が声を荒げる。
「怒ってばかりだと、顔の皺が増えて美容に良くないですよ」
「余計なお世話よ」
キッと睨み付け、椎菜が怒鳴る。
「全く、とんでもない住人ばかりだわ。だから、こんな場所には来たくなかったのよ」
椎菜は、深くため息をついた。
そこは極楽園である。
2ヶ月前に、椎菜はそこの新しい住人となった。
芭皇から、
「自分の代わりに極楽園を守る役目を引き受ければ、俺に体を委ねる約束はチャラにしてやってもいいぞ」
と言われ、そうすることを選んだのだ。
ただし、極楽園を守るということが、そこに住むという意味だとは知らなかった。
役目を引き受けた後で、そういうことだと聞かされたのだ。
しかし、断れば体を与える約束を果たさねばならなくなる。
極楽園に住むか、芭皇に体を与えるか。
仕方なく、椎菜は前者を選択した。
だが、住み始めた初日から、彼女は後悔した。
もちろんホームレス生活など初めての経験だから、慣れないことばかりだ。
特に彼女は、夕食を一緒に取ることや、当番制で食事を作ったり風呂を沸かしたりすることに不快感を覚えた。
なるべく、ホームレスと一緒にいたくなかったのだ。
だが、極楽園の面々は椎菜がそっけない態度を取っても、積極的にコミュニケーションを取ろうとしてきた。
その馴れ馴れしさが、椎菜にとっては煩わしさ以外の何物でもなかった。
どうやら芭皇が仲間に対し、
「仲良くしてやってくれ。態度が悪いから誤解されがちだが、根はいい奴だから、すぐに打ち解けるはずだ」
と事前に言ってあったらしい。
余計なことをしてくれたものだと、椎菜は恨んでいる。
「それでキンド、何なのよ」
椎菜は、ぶっきらぼうに尋ねた。
「何か用事があるから、入ってきたんでしょ」
「ご名答です。用件があります」
「だから、何よ」
「来週の土曜日にコスプレ・パーティーがあるんですが、同伴しませんか」
「はあっ?」
椎菜は怒り混じりの声を漏らす。
「鷹内さんに新しいコスプレ衣装も買ってもらったし、椎菜さんも彼に衣装を贈呈してもらって、一緒に行きましょう」
「正気?そんなの、アタシが行くわけないでしょ」
「でも、椎菜さんはコスプレイヤーの素質があると思うんです」
「無いわよ」
冷たく突き放す椎菜。
「いえ、自分では気付いていないだけです。同じコスプレイヤーとして、ボクの嗅覚は確かです」
「同じじゃないってば」
「あの、お取り込み中に申し訳ないんですけど」
そんな声がして、竹下が顔を覗かせた。
「そろそろ夕食の時間ですよ」
「椎菜さん、では栄養補給をしながら、話の続きをしましょう」
キンドが熱心な様子で言う。
「続けないわよ。もうコスプレの話は終わりよ。さあ、早く出て」
椎菜は、手でキンドを追い払う仕草をする。
「あら、キンドったら、そこにいたのね」
また別の声が聞こえ、今度は珠子が顔を覗かせる。
「夜這いには、まだ早いわよ。ねえ、椎菜ちゃん」
ニヤニヤしながら、珠子が言う。
「何言ってるの、夜這いなんかじゃないわよ」
椎菜は珠子を睨む。
「どうしたんです、何かありましたか」
「何だ、どうして全員が集まってるんだ?」
そう言いながら、西崎と池内もやって来た。
「ちょっと聞いてよ2人とも。キンドが椎菜ちゃんに夜這いを掛けたのよ」
「えっ、そうなのかキンド」
「夜這いって何?淫売なら知ってるけど」
「どうして夜這いを知らなくて淫売は分かるんだよ。お前の日本語の知識はおかしいぞ」
「おかしくないよ」
「だから、夜這いじゃないって言ってるでしょ。コスプレ・パーティーの話をしに来ただけよ」
キンドがちゃんと言わないので、椎菜が感情を高ぶらせて説明する。
「え、椎菜さん、コスプレ・パーティーに行くんですか」
「そう、ボクと一緒に行くことになった」
「行かないわよ、しつこいわね」
「椎菜ちゃん、あまりガミガミ言ってると、美容に悪いわよ」
「それはさっきも聞いたわよ。もうっ」
そう怒鳴ってから、椎菜は疲れたように大きくため息をついた。
極楽園に来た時に芽生えた後悔は、日に日に強くなっている。
*
「芭皇さん、そろそろお食事を運びましょうか」
グワンダ族のロボが、ラマーゾ王国の公用語であるフランス語で話し掛ける。
「そうか、もうそんな時間か」
芭皇は、流暢なフランス語で返答した。
そこはラマーゾ王国の首都チェトレアにある、ハルワ・ホテルの201号室だ。
芭皇は、その部屋に宿泊している。
ラマーゾ王国は、アフリカの北西部にある小国だ。
2ヶ月前、芭皇はここに来た。
「ほとぼりが冷めるまで、海外に脱出した方がいい」
と鷹内に言われ、それを受け入れたのだ。
旅の手続きは全て鷹内が手配し、費用も彼が出した。高原を殺害した2日後には、芭皇は日本を発っていた。ラマーゾでの生活費は、日本から毎月送られてくる手はずになっている。芭皇が鷹内に1億円の報酬を預け、そこから捻出される形だ。
脱出先をラマーゾに決めたのは鷹内だ。彼の組織で面倒を見ていたラマーゾ出身の男が故郷に戻ってホテルマンをしていることから、そこに決めたのだ。
そのホテルマンが、ロボである。
「芭皇さん、どうします?食事は、もう少し後にしましょうか」
「いや、今でいい。頼むよ」
「分かりました。ではお運びします」
ロボは頭を下げ、部屋を出て行った。
それを見送り、芭皇は軽く伸びをする。
ふと、彼は日本を出た時のことを思い出す。
海外脱出を承諾した時、椎菜からは
「自分だけ逃げるつもりなのね」
と厳しいことを言われた。
だが、芭皇は気にせず、
「その通り。俺は臆病者だからな」
と答えた。
しかし実際のところ、政府や警察の手が伸びることを恐れて逃げたわけではない。
ただ何となく、
「そろそろ旅もいいかなあ。環境を変えるのもいいかなあ」
と、呑気に思っただけのことだ。
芭皇は、ラマーゾでの生活をそれなりに楽しんでいる。
ロボは親切だし、ホテルの食事も悪くない。
ただし最近は治安が悪化しつつあり、ラマーゾ政府は神経を尖らせている。
そして、やがて芭皇は予想もしなかった大事件に巻き込まれることになるのだが、それはまた別の話である。
【完】




