第一話
お楽しみいただけますと幸いです。
春の風が、訓練場の砂を巻き上げていた。
王立学園騎士科の入学式を終えたばかりの新入生たちが、剣の形をした校章を胸に、ぞろぞろと教室へ向かっていく。
その列の中ほどで、フレンダは黒いツインテールを揺らしながら、前を歩く背中の群れを見上げていた。
(みんな背が高すぎる……)
同級生の肩の向こうが、まるで見えない。騎士を志す若者たちは、男も女もたいてい体格に恵まれている。
その中で、彼女の頭はひとつ分、いや、ひとつ半分は低かった。
「あの、ここ、一年二組で合ってるかな?」
ふいに、隣から柔らかな声がした。
振り向いた先で、陽の光がこぼれた。
金色の髪。晴れ渡った空をそのまま閉じ込めたような、澄んだ空色の瞳。少し困ったように眉を下げて、それでも穏やかに微笑んでいる少女。
その顔を見た瞬間、フレンダの頭の奥で、何かが弾けた。
――知っている。
この子を、知っている。
白い光が視界を埋める。
耳鳴り。押し寄せてくる、ここではないどこかの景色。小さな部屋。夜更けまで光る小さな画面。
エンディングのスタッフロールを見ながら、ぼろぼろ泣いている自分。
『金色の剣~Promise of Dawn~』
タイトル画面に浮かぶ、金の箔押しの文字。
「……セレナ」
思わず、名前が零れていた。
少女はぱちりと目を瞬かせる。
「え? 私の名前、どうして……」
「あっ、あの、えっと! 名簿! 名簿で見たの! ほら、同じクラスだから!」
我ながら苦しい言い訳だった。けれどセレナは「そうなんだ」と素直に頷いて、ふわりと笑った。
「よろしくね。あなたは?」
「……フレンダ」
自分の名前を口にしながら、フレンダは悟っていた。
ここは、前世の私が人生を捧げた乙女ゲームの世界だ。
そして私は、ヒロインの隣に立つ「友人キャラ」に生まれ変わったのだ、と。
◇
その夜、寮の自室のベッドに倒れこんだフレンダは、天井を見つめながら記憶を整理した。
『金色の剣~Promise of Dawn~』
日本で発売された乙女ゲームだ。パラメーターを上げるタイプではなく、物語の途中で現れる選択肢によって、攻略対象の好感度が上下していく。
物語は、正義感の強いヒロイン・セレナが騎士科に入学するところから始まる。
仲間と競い合う穏やかな学園生活。
けれどある日、三歳になったばかりの王子が誘拐されるという大事件が起きる。
箝口令が敷かれ、王国騎士団が総力を挙げて捜索するも、ひと月経っても手掛かりはない。
そこで学園の騎士科からも有志を募り、捜索隊が結成されるのだ。
この世界に魔法はない。だからセレナは、自分の剣で戦う。
その姿のかっこいいこと。ただ守られるだけじゃないヒロイン。前世のフレンダは、そんなセレナが大好きだった。
攻略対象は五人。同じ一年から二人、二年と三年の先輩から一人ずつ、そして引率の現役騎士。全員が、セレナと同じ捜索隊のチームに入る。
担当エリアは、海に面した南の駐屯地。
そこで捜索を続けるうちに、セレナたちは港で怪しげな会話を耳にする。
王子誘拐は大胆な陽動で、敵の本当の狙いは違法ハーブの密輸と普及だった――。
「……そして」
フレンダは枕を抱きしめ、顔を埋めた。
「そして、アルマが死ぬ」
アルマ。セレナの幼馴染。茶色の髪と瞳をした、どこまでも優しい少年。
攻略対象ではない。ルートもない。けれど彼は命を落とす最後の瞬間まで、ずっとセレナの隣にいた。
迷うセレナの背中をそっと押し、落ち込むセレナにそっとハンカチを差し出し、決して見返りを求めない。
そして事件を追う途中、敵の刃からセレナを庇って、命を落とすのだ。
『君が無事でよかった』
血に濡れた手でセレナの頬に触れ、そう微笑んで、目を閉じる。
前世のフレンダは、あのシーンを共通シナリオで出してきたシナリオライターの正気を疑った。
だって、個別ルートに入る前で死んでしまうということは、どうしたってアルマの死を覆すことはできないってことだ。
前世のフレンダは、それでもなんとか希望はないかと何度も何度もプレイしたものだ。
けれどどの選択肢を選んだって、アルマが死ぬシナリオは避けられなかった。
「なんで……なんでアルマにルートがないのよぉ……!」
枕に向かって叫ぶ。前世でも何度も叫んだ台詞だった。
彼女が愛してやまなかったのは、攻略対象とヒロインの組み合わせではない。
攻略対象外のアルマと、ヒロインのセレナ。通称「アルセレ」。公式には決して結ばれない二人だった。
中盤の、あの海辺のスチル。夕焼けの波打ち際に並んで座るセレナとアルマ。
何かを言いかけて、唇を開いて、けれど結局飲み込んで、ただ笑うアルマの横顔。
あの一枚のために、何度ロードし直したかわからない。
二次創作の小説を書き、同人誌を作り、イベントで同志と手を握り合って泣いた。
(アルマはセレナが好きだった。絶対に好きだった。なのに言えないまま死んじゃうなんて、そんなのあんまりでしょ)
がばっと、フレンダは起き上がった。
赤い瞳が、暗い部屋の中できらりと光る。
「……待って。今の私、友人キャラだよね?」
ヒロインの一番近く。捜索隊にも同行する。アルマのことも、セレナのことも、誰よりも近くで見られる位置。
つまり、ここは。
「――推しカプを見守る、特等席……!」
拳を握る。心臓が高鳴る。
アルマを死なせない。セレナとアルマをくっつける。そして二人のいちゃいちゃを、この特等席で心ゆくまで堪能する。
「やってやる。やってやるわよ、神様!」
隣の部屋から「うるさい!」と壁を叩かれた。
◇
それからのフレンダの毎日は、控えめに言って、天国だった。
「セレナ、パン屑ついてるよ」
昼休みの中庭。ベンチに並んで座るセレナとアルマを、少し離れた場所から眺めながら、フレンダは震える手で自分のサンドイッチを握りしめていた。
別のクラスのアルマは、昼になると決まってセレナを迎えにくる。今日もまた、焼きたてのくるみパンを二つ買ってきて、ひとつをセレナに渡していた。
「え、どこ?」
「ここ。……あ、動かないで」
アルマの指先が、セレナの口の端をそっと拭う。セレナは「ありがとう」と何でもないことのように笑い、アルマはほんの少しだけ、耳を赤くして目を逸らした。
(はい尊い!!!!)
フレンダは心の中で床を転げまわった。現実では、サンドイッチの具がはみ出していた。
(気づいて! セレナ気づいて! 今アルマの耳赤いから! 幼馴染の距離感に慣れすぎて気づいてないのよこの子は! でもそこがいい! そこがいいんだよ!)
「フレンダ、どうしたの? 顔がすごいことになってるよ」
「なんでもない! くるみパンおいしそうだなって!」
「半分あげようか?」
「いい! 二人で食べて! 二人で!」
首を傾げるセレナの隣で、アルマが小さく笑った。
◇
「ねえ聞いてよフレンダ、昨日アルマがね~」
放課後の寮の廊下で、セレナが嬉しそうに駆け寄ってきたのは、入学からひと月ほど経った頃だった。
「なになに、聞く聞く。全部聞く」
フレンダは秒で食いついた。
「昨日、急に雨が降ったでしょ? 私、傘を持ってなくて、訓練棟の入り口で困ってたの。そしたらアルマが来て、傘に入れてくれて」
「うんうん」
「寮まで送ってくれたんだけど、着いたらアルマの左肩だけびしょ濡れだったの。私のほうに傘を傾けてくれてたみたいで。『風邪ひくよ』って言ったら『僕は丈夫だから』って笑うんだよ。もう、昔からそうなんだから」
セレナは頬を膨らませる。けれどその目は、どこか嬉しそうに細められていた。
「アルマって、いつもそう。自分のことは後回しで」
(知ってる……知ってるよセレナ……その優しさのせいで、あいつは……)
胸の奥が、きゅっと冷たくなった。
傘を傾けるように、アルマはいつか、自分の命をセレナのほうへ傾ける。迷いなく。笑いながら。
「……フレンダ?」
「ううん。アルマ、いい人だね」
「うん。自慢の幼馴染なの」
幼馴染、という言葉が、少しだけ寂しく響いた。
◇
(このままじゃ、だめだ)
その夜、フレンダは木剣を握って寮を抜け出した。
ゲームの中の友人キャラ・フレンダは、決して弱くはなかった。けれど、強くもなかった。
アルマが倒れたあの場面でも、彼女は少し離れた場所で別の敵と戦っていて、駆けつけたときにはもう遅かった。
間に合わなかったのだ。
なら、間に合えばいい。アルマに届く刃より先に、自分の剣が届けばいい。
月明かりの訓練場は、しんと静まり返っていた。誰もいないと思っていた。
けれど、そこには先客がいた。
ひゅっ、と空気を裂く音。
藍色の髪が、月光の下で揺れていた。長身の青年が、ただひとり、黙々と剣を振っている。
一振りごとに、砂がわずかに舞う。無駄がない。迷いがない。息遣いさえ、ほとんど聞こえない。
(……クライト)
フレンダは息を呑んだ。
騎士科三年、クライト。騎士団長の息子。
攻略対象のひとりで、ゲームでは無口無表情がデフォルトの、いわゆるクール枠。後に捜索隊でも一番の腕前を見せる人物だ。
剣先が止まる。藍色の瞳が、まっすぐこちらを射抜いた。
「……誰だ」
「ひゃっ! あ、い、一年のフレンダです! 自主練に来ました!」
クライトは何も言わない。じっとフレンダを見下ろし、それから彼女の握る木剣に視線を落とした。
「握りが甘い」
「え」
「それでは、打ち合った瞬間に弾かれる」
それだけ言うと、クライトはまた素振りに戻った。
(……え、今の、アドバイス?)
フレンダはしばらく呆然とし、それから慌てて握りを直した。
◇
それから、夜の訓練場には二人分の影が並ぶようになった。
約束をしたわけではない。けれどフレンダが行けば、クライトはいつもそこにいた。
そして気が向いたときに――いや、正確には、フレンダが同じ間違いを三回繰り返したときに、低い声で一言だけ口を出す。
「踏み込みが浅い」
「はいっ!」
「肩に力が入りすぎだ」
「はいっ!」
「……お前は小さい」
「はい……って、それは悪口では!?」
「悪口じゃない」
クライトは木剣を構え、フレンダの正面に立った。そして、初めて彼のほうから打ち合いの構えを見せた。
「打ってこい」
「えっ、先輩と!?」
「早く」
言われるがまま斬りかかる。あっさり受け流され、足を払われ、尻もちをつく。もう一度。また転がされる。もう一度。
「上から打つな。お前の背で上から打っても、届く頃には読まれている」
息を切らすフレンダに、クライトは淡々と告げた。
「下から入れ。相手の懐に。小さいということは、潜り込めるということだ」
フレンダは目を見開いた。
小さいことは、ずっと不利だと思っていた。腕も短い。剣も重い。力では誰にも勝てない。
けれど、潜り込める。
「……もう一回、お願いします!」
立ち上がり、低く構える。地面を蹴る。クライトの剣の下へ、滑り込むように。
こつん、と。
木剣の先が、ほんのわずか、クライトの脇腹に触れた。
「……今のは、悪くない」
フレンダは、その場で飛び跳ねた。
◇
数週間が経つと、フレンダの手のひらはまめだらけになっていた。
ある夜、休憩中に手のひらを眺めていると、目の前にすっと何かが差し出された。
小さな丸い缶だった。蓋には、ピンク色のうさぎの絵が描かれている。
「……塗っておけ。まめに効く」
「え、あ、ありがとうございます……」
受け取って、まじまじと缶を見つめる。
デフォルメされたうさぎが、つぶらな瞳でこちらを見上げていた。
どう見ても、騎士団長の息子が持ち歩くような代物ではない。
「……かわいいですね、これ」
思わず口にすると、クライトの動きがぴたりと止まった。
「……店で、目に入っただけだ」
そう言って、ふいっと顔を背ける。
けれどフレンダは見逃さなかった。
月明かりに照らされた横顔の、その口元が、ほんのわずかに緩んでいたのを。
(あ……そっか。クライトって、可愛いもの好きなんだった)
ゲームのクライトルートの後半で明かされる、隠れた一面。
無口で無表情な彼が、セレナに心を開いてから、ようやく打ち明ける秘密のはずだった。
(……こんな序盤で、しかもヒロインじゃない私が見ちゃって、いいのかな)
フレンダはうさぎの缶の蓋を開け、軟膏を手のひらに塗り広げた。ほのかに、花の香りがした。
◇
そして、その日はやってきた。
夏の初め、学園中に重苦しい空気が漂い始めた。
教師たちが廊下で声を潜めて話し込み、騎士団の伝令が毎日のように校門をくぐる。
生徒たちの間では、何か大きな事件が起きたらしいという噂だけが、出所もわからないまま広がっていった。
フレンダだけは、知っていた。
三歳になったばかりの王子が、誘拐されたのだ。
それからひと月。騎士科の全生徒が講堂に集められた。
壇上に立った学園長が、重い口を開く。王子誘拐の事実。いまだ見つからないこと。そして、騎士科から有志を募り、捜索隊を編成すること。
「危険を伴う任務だ。強制はしない。志願する者は、この場で手を挙げなさい」
講堂が、水を打ったように静まり返った。
誰もが互いの顔を窺い、躊躇っている。
その静寂の中で、真っ先にまっすぐ手を挙げたのは、金色の髪の少女だった。
「一年、セレナ。志願します」
凛とした声が響く。
間を置かず、もうひとつ手が挙がった。
「一年、アルマ。……僕も、行きます」
アルマはセレナのほうを見て、困ったように笑っていた。
君が行くなら、僕も行く。言葉にしなくても、その顔がそう言っていた。
(来た)
フレンダの心臓が、どくんと跳ねる。
ゲームで何度も見た場面だ。何度も見て、何度も胸を焦がした場面だ。
この先に待っているのは、海辺の駐屯地。港の陰謀。そして、アルマの死。
(でも、今度は違う)
まめだらけの手のひらを、ぎゅっと握る。
「一年、フレンダ! 志願します!」
高らかに、手を挙げた。
講堂の後方で、もうひとつ、静かに手が挙がる気配がした。振り向くと、藍色の髪の青年が、いつもの無表情でこちらを見ていた。
目が合う。ほんの一瞬。
クライトは、小さく頷いた気がした。
◇
出発の朝は、雲ひとつない快晴だった。
学園の正門前に、捜索隊を乗せる馬車が並んでいる。フレンダはツインテールをきつく結び直し、腰の剣の柄に手を添えた。
隣ではセレナが金色の髪を高い位置でひとつに結い、アルマがその荷物を当然のように持ってやっている。
(はい、今日も尊い)
心の中で手を合わせ、それから、フレンダは青い空を見上げた。
大好きだった物語。大好きだった二人。ゲームでは救えなかった結末。
「――待っててね、アルマ。今度こそ、絶対に死なせないから」
誰にも聞こえない声で呟いて、フレンダは馬車へと足を踏み出した。
運命の舞台へ。




