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魂の羽化師は夢を斬る 平安鎮蝶譚  作者: 平本りこ
二章

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4 暁潤と綾埜、そして彼

 暁潤(あきみつ)が初めて綾埜(あやの)と出会ったのは、十歳の頃。綾埜はまだ五つであったが、当時から変わらず凜として意思の強い少女であった。


 あの頃の暁潤は、産後の肥立ちが悪く命を落とした実母の羽化を見届けたばかりであり、ふさぎ込みがちだった。さらに、母の命と引き換えに生まれた妹も呆気なく夭逝し、守影(もりかげ)の邸宅である梅殿(うめどの)全体に重苦しい空気が漂っていた。


 代々高度な羽化術を受け継ぐ名門守影家の跡取りとして、心強くあらねばならない。理性では理解しているものの、決して晴れない寂寞と、のしかかり始めた嫡男としての重責に、気持ちはどんどんと沈んでいく。


 母と妹の死から二月(ふたつき)以上経っても明るさを取り戻す兆しがなく、むしろ陰のある言動が増えた暁潤を心配した乳母は、しばらく梅殿を離れることを提案した。


 そこで預けられたのが、父友潤(ともみつ)の友人である柏正則(かしわまさのり)嫡妻(ちゃくさい)の邸宅である。その縁で、正則の娘である姉妹とも出会うことになる。


 姉の早来埜(さきの)は暁潤よりも二つ年長だ。女性の成人の儀である裳着(もぎ)を目前に控えた年頃で、貴族の娘らしく几帳(きちょう)越しでの会話がほとんどだった。


 本来であれば、早来埜の七つ年下の妹綾埜ともそう親密に話す機会などなかったのだが、暁潤に興味を持ったらしい綾埜はよく、猫のように堂々と暁潤の元にやってきた。


 忍ぶ気配の欠片もない大胆な訪れに最初は戸惑った。しかし家中の者に咎める様子はない。子ども同士のことだからと大目に見たのか、それとも暁潤の心が晴れやかになるのならば、との配慮だったのか。とにかく二人は、誰に窘められることもなく、友情を育んでいくことになる。


 ある時、綾埜は言った。


「綾埜のお母様もね、この前蝶になってしまったの」


 暁潤は目を丸くして、年端もいかない少女を見た。


「君のお母様も? それは……悲しかったね」

「はい。とっても。でも、お母様はね、お空に飛んで行く前に言っていたんですって。姉様と綾埜が泣かないで元気に生きてくれさえすれば、何の心残りもなく飛べるって」


 それはきっと、蝶夢(ちょうむ)の中で死者が羽化師に語った言葉。羽化を妨げる心残りだったのだろう。


 彼女の母親を羽化させた羽化師が誰なのか不明だが、正則ではないはずだ。羽化師は原則、親族を担当することはない。中立の目で蝶夢に入らなければ、冷静さを欠いて失敗に繋がるからだ。


「だから君は、いつも明るい顔をしているのか」


 暁潤よりも五つも年下の少女が、気丈に頷いている。そうと言われなければ、実母を亡くしたばかりだとは到底思えない。


「お母様が笑ってくれると綾埜も嬉しいから。だからもう悲しまないんです」

「君は強いね。でも僕は……」


 暁潤は目を細める。幼い綾埜が、まるで太陽のように眩しく見えた。一人で鬱々とした日々を送る自分が、惨めで恥ずかしい存在に思えてきた。そうしてさらに暗がりに沈んでしまうこの性格の、何と救いようのないことか。


 ふと顔を上げると、真っ直ぐに暁潤を見つめる力強い眼差しと視線が合った。綾埜はいたずらっ子のような笑みを浮かべて声を低くする。


「でもね、時々夢を見るんです。お母様が、ぎゅって抱きしめてくれる夢。温かくて、いい匂いがして、ずっとそこにいたいって思います。でも夢はすぐに終わっちゃうの。そうして目が覚めたら、寂しくて寂しくて、泣いちゃうことがあるんです。あ、暁兄様にしか教えてないから、お姉様には内緒にしてくれますか」

「内緒か。どうして僕に教えてくれたのかい」

「それは」


 綾埜は一瞬だけ躊躇ってから、さっぱりとした口調で言った。


「暁兄様も同じだと思ったから。毎日、泣きたいのに泣いちゃだめだって我慢しているような顔でお空を見ているから」


 暁潤は、はっと息を呑む。別に泣いてもいいのだと諭されたような心地がした。


 もちろん、幼い綾埜には深い意図などなく、思うままに言葉を発しただけだったのだろう。だが、守影の嫡子としてのあるべき姿にばかり囚われて、四六時中心を制御しなくてはならないと己を律していた暁潤の心にのしかかった重石を、彼女は軽々と持ち上げ放り投げてしまったかのようだった。


「朝早く、まだばあやとかお姉様たちが眠っている時ならね、誰にも見られないんです。だから暁兄様も……」


 秘密の技を教えるように得意げな綾埜の声が尻すぼみになり、空気に溶けて余韻が消える。幼いながらも凜とした印象の目元を丸くして何度も瞬きをする綾埜。その顔に浮かんだ困惑の正体は明白だ。


 暁潤は洟をすすり、目頭からこぼれ落ちた温かな雫を指で弾いた。それから笑みを作る。


「僕も一つ教えてあげる」


 綾埜が首を傾ける。その瞳の奥に、決して消えきらない悲しみが燻っているのが見えた。


「見られたっていいんだよ。少なくとも、僕の前でなら、何も我慢しなくていい」

「……どうして?」

「秘密を共有する仲だからさ。泣いたことは、お互いに誰にも言わない。約束だ」


 綾埜は軽く目を見張る。澄んだ瞳に光が集い、ちらちらと揺れている。やがて彼女は小さく頷いて、はらはらと涙を流し始めた。しゃくり上げる声は次第に大きくなり、騒ぎを聞きつけた乳母や雑色が駆けつけてきて、結構な騒動になりかけた。


 泣いたのは二人だけの秘密、としたかったのだが、結局邸宅中の人を集めてしまうという顛末を迎えたことも、今となっては可愛らしい思い出である。


(あれから十年以上経っても、綾埜は何も変わらない。真っ直ぐで、強くて優しくて……そして嘘と隠し事が苦手なんだ)


「ここで止まってくれ」


 群青色の狩衣を纏った暁潤は、目的の区画にたどり着いたことで回想から引き戻されて、牛に引かせた網代車(あじろぐるま)の中から従者に告げた。少し間が空いてから、牛が不満げな唸りを上げて車輪が止まる。


 簾を上げ、従者が置いた(しじ)に足をかけて車を降りる。やや饐えたような異臭がする寂れた小路。右京の外れの旧市街である。


「すぐに戻る」


 短く告げて牛車を待たせ、一人で進む。目立たないよう、羽化師の竜胆色の狩衣を脱ぎ私的な衣に着替えてきたし、あえて目的地からやや離れた場所で牛車を降りた。


 とはいえ、貧困を絵に描いたような庶民とすれ違えば、大したものではないとはいえ官職を持つ暁潤の出で立ちは彼らのそれとは比べものにならないほど上等で、どうしても衆目を集めてしまう。


 日が暮れてから忍んでくるべきだったかと後悔したが、どうせもう目を引いてしまっているのだから仕方がない。暁潤は開き直り、堂々とした足取りで角を曲がる。やがて、ほとんど修繕されず間引きされたように隙間の空いた、みすぼらしい小柴垣(こしばがき)が目に入る。暁潤はその綻びから、廃屋敷の敷地内を覗いた。


 母屋に垂らされている御簾は、風雨で劣化したのか、真ん中辺りから落ちて下部が失われてしまっているものもある。家屋といえば素朴な母屋と細殿のみ。荒れた庭に咲く山茶花(さざんか)の赤だけが、妙に鮮烈な印象を放っている。


 視線をぐるりと巡らせれば、戸が閉まらないのか半ば開け放たれた塗籠(ぬりごめ)の正面辺りに人影があった。


(男!? やはり綾埜は逢い引きを……しかも貧乏そうな……)


 暁潤がわざわざ寂れた地区を訪れたのは、他でもない。最近妙な動きが多い綾埜がどこで何をしているのか、探るためだった。


 先日、初めて無光堂(むこうどう)へ供養に行った晩、日が昇るまで姿を消していた綾埜。同行していた牛飼い童によると、失踪間際、どうやら綾埜以外の人間の気配があったらしい。綾埜は悲鳴を上げたきり姿を消してしまったとのことだが、翌朝けろりとした顔で戻り「石塔の側で気絶していた」などと見え透いた言い訳をした。


 綾埜の身に何が起こったのかはわからない。だが、彼女に傷ついた様子はなかったので、ひどい目には遭っていないのだろう。


 ならば合意の上で誰かと過ごしていたのだろうか、と見当をつけて人を使って綾埜の行動を探らせた。すると頻繁に、とある家に出入りしていることが判明し、様子を見にやってきた、というわけだ。


(どこの馬の骨ともわからない男に弄ばれているのか? 身分違いも甚だしい。一時の迷いに違いないのに)


 古びた家屋に住むみすぼらしい男が綾埜の心を掴んだのだとしたら、相手は目を疑うような美形か、もしくは相当に口が上手いのか。残念ながら、距離がある上に俯いているため、顔立ちは判然としない。


 姫君を垣間見るのならばまだしも、大切な女人をそそのかした男を一目見るために小柴垣に張りつくなど、我ながら滑稽だ。とはいえ背に腹は代えられず、暁潤はさらに身を乗り出した。


 その拍子に、足元に落ちていた枝を踏んでしまい、ぱき、と軽やかな音が響く。


 物音に驚いたのか、ぼんやりと手元を眺めていた男が、扇を取り落として顔を上げる。危うく姿を認められそうになり、その場に素早くしゃがみ込む。


 男が庭に下りる気配はない。獣か何かが立てた音だと思ったのだろう。


(待てよ、あの男は)


 危険は去ったはずなのに、暁潤の心臓は激しく打ち鳴らされて、どくどくと耳に響いている。素早い鼓動の合間に、暁潤は細く息を吸う。


 軽く膝を伸ばし、もう一度敷地を覗き込む。男は再び手元に目を落としていた。握られているのは、貧しさとは不釣り合いなほど真っ白な紙の張られた蝙蝠扇(かわほりおうぎ)。判読できないが、何やら文字が記されている。


 似たような扇を、目にしたことがある。さらに、一瞬だけ面を上げた男の顔立ちには、見覚えがあった。


(どういうことだ? まさかあいつ、綾埜を利用して……)


 全身が、沸々と煮えたぎるような憤りに熱くなる。


(そうだとしたら、許せない。だが)


 綾埜は昔から意思が強い娘だ。何の策もなく頭ごなしに窘めれば反発を招きむしろ逆効果だろう。


 暁潤は拳を握り、踵を返す。その足は真っ直ぐに牛車へと向かった。

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