第20話 主観
目覚めると既に外は明るくなっていた。どうやらまだ頭痛が残っているものの、一先ずは薬が効いているようだ。彼女は部屋の端に蹴り飛ばしたシーツを手繰り寄せる。そして床に広がった血の跡を拭き取ると、体を起こし窓の端へと手をついた。
「朝か…。はぁ、久し振りに参ったな…」
ピキリと音をたてて腕に浮かび上がった血管の跡が消える。彼女のこの症状は小さい頃から慢性的にある持病のようなものだった。しかしそれは歳をとるごとに悪化傾向にある。昔は軽い胸の痛みだったのだが、それが次第に全身を蝕むものへ、今では実際に体を傷付けているのか酷いときは吐血を伴う時もある。彼女はポケットに入った薬を無造作に飲み干した。だがなんら変化はなかった。
「そろそろ薬も役にたたんな…。アイツに相談してみるか…」
普段の服装に着替えながら武器と薬、そして資料などの準備物を整える。今日の予定は監査部に向かい次任務の内容を聞く事とエノクに関する報告を済ませる事。そのために昨日は提出するための資料を纏めていた。実際のところ彼女以上に彼を知る者の多い監査部だ、報告と言うのは半ば形だけのものである。しかしそういった部分をさぼれないのが彼女だ。最後に窓の鍵を閉める。そして手早く部屋を出ると、すぐ近くにある騎士団本部へと移動した。
「元々来る回数の少なかった場所だが、どうも久しぶりな感じがするな」
目を閉じていてもわかるほどの慣れ親しんだ空間は今も記憶となんや変わらない様相を呈していた。一定数行き交う人の数。恒常化した武器などの擦れる音。血の匂いなどはどこからか染み出るように香り、荒んだ目と狂気の目が視界から消えることなかった。
「ユウリだ」
ノックをしてハッキリとした声で名前を名乗ると中から聞きなれた声で入室の許可が出た。彼女は部屋に入った。中にいたのは隊長と構成員三名。どうやら他は来ていないようだ。書類のタワーに顔の半分を隠す男の前に彼女の書類が置かれる。すると男はやつれ気味だった顔に苦労の皺を刻んだ。
「エノクに関する情報だ。あまり目を通す必要はないだろう」
「ああ、それか。一応提出しておいてくれ。あと次の任務に関してはライルの後任になる」
「ふむ、なるほど。当人は?」
「向こうで一服中だ。他のは知らん。取り敢えず俺は午後までにこれを片付けにゃならんからな。話は以上だ」
「あ、ああ…、頑張れよ」
隊長というのはその組織の責任を負う立場のことをいう。今回の場合、彼が責任を負うのはこの監査部の全事象に対してだ。最悪の場合、これらの資料は全て口頭によっての報告で構わない。実際、時間が無ければそれをする機会もあるからだ。しかしそれをするとどうしても「漏れ」が生じてしまう。これは業務上、立場上、あまりよろしいことではなく、またそれが自身の首を絞めつけるのだ。報告書というのは彼らの首を繋ぐ命綱である。彼女はチラリと自身のまとめた資料に目をやった。
「主観がいくらか混じってるかもしれない。お前の認識とすり合わせて、間違っていたら聞いてくれ」
「ああ、分かった。また呼ぶことにする」
隊長はそう素っ気なく答えると視線を直ぐに机の上に戻した。彼女はフラりと後ろのソファーに腰を下ろす。そこには帰ってきたばかりなのか腕の応急処置をするクリスと、それを心配そうに手伝うリリィ。初めから仲が良いとは思っていたが、似た境遇を持つと聞けば納得のいく光景だった。
「ディオネとの仲はどうだ?」
「なっ、と、唐突になんだ!?」
「唐突ではない。初めから彼はお前を気に入っていた」
「そ、それは…。ただまあ、よくしてもらっている。実際、何度か助けられたしな」
「彼の能力は既に見たのか?」
「あ、ああ…。初めに見せてくれた。お前らも、そうなのか?」
「私は違うがこの子はそうだ。近日中の調査隊にも連れて行ってもらう予定だ」
「連れていってもらう?」
「私は日程をどうしても合わせられなかった。だが、ディオネは恐らく参加するのだろう?」
「どうしてそれを…?」
「彼がこれほど危険な計画を放置する筈はないだろう」
それは予測の言葉でありながら完全な断言の意味を持っていた。リリィが血の滲みだす包帯に手を当てると白い光が傷口を包み込む。そして一連の光が収まると彼は彼女の頭を大事そうに優しくなでた。
「彼は正義の士ではない。彼は破滅の道筋を断つ守護者のような者だ。この人の世が、三国と連盟により成る人の世を守るためならば親友であろうと平気で切り捨てることができる」
「しかし奴は多くの人をこの国のために殺したんだぞ? それでなぜ破滅を免れる? この国の一強は破滅じゃないのか?」
「彼にとってはそれさえも終わりには値しないのだろう。故に我々は生かされている。ただ今回の作戦はあまりに加減を過った」
「……………」
「彼が外を知るかは分からないが、それによる危険は計り知れない。最悪の場合、三国の力では太刀打ちできない可能性もある」
「つまりリスクの管理を行うために奴は外の調査隊についていくってことか?」
「でなければ彼はここにも来ていないだろう。ここが便利だと感じた。それが理由なのだと私は思う」
処置の終えた腕を試すように動かし、その上から上着を着た彼はソファーに立て掛けた剣を掴み立ち上がった。それに続いて応急箱を持ったリリィも席を立つ。すると彼は出口にたったところで振り返った。
「ディオネはお前を大切にしている。恐らく、妹さえいなければ命を賭してお前から死を奪うだろう」
「ど、どういう…?」
しかしその回答を返さぬまま彼は部屋から出て行った。命を賭して死を奪う。それはつまりクリスから見ればエノクはそれ程までに自分を大切にてくれているのか。彼女は戸惑いとともにポケットの中にあるキューブに触れる。するとその時、入口とは異なる扉が開き背の高い男がソファーに座った。
「ユウリか?」
「ああ、元気そうだな」
「今回の傷の回復には少し時間がかかる。その間、仕事を任せることになった」
「心配するな。担当するのは俺だけじゃない。お前もよく知った、アイツがパートナーだ」
ソファーに腰を下ろした茶色の捻りきった髪を中途半端に伸ばしたこの男、ライルは彼女をこの部隊にスカウトした張本人だ。煙草の煙を常に身に纏いいつも同じボロボロのジャケットを着た姿は印象的にあまりよくはないが、彼女にはそれがどこか馴染のあるような感覚がして好きだった。
「アイツか…。信頼できるのか?」
「不思議なくらいにな。アイツはお前と似てる。優しくて、だけど何も強要しないんだ」
「ほーう、人格者という情報は一先ず正しいみたいだな。魔術師と言うのも本当か?」
「ああ、本当だ。調べていたのか?」
「お前のパートナーに当たったと聞いたからな。だがまあ、その話を聞く限り問題はないだろう。実際、先日の馬車の中ではお前を助けたと聞く」
「あの御者はお前の手の者だったか…」
「人脈は大切だ。お前のように前線で豪快な戦いをしない俺がやるのは、人の裏の影を渡り首根を掴むこと。やろうと思えば、この情報一つでアイツを破滅に追い込める」
「その代償はお前の命だけじゃ濯ぎきれないがな。ただまあ、そうだな。人脈は助けになる。実際にアイツも多くの人脈を持ってるみたいだ」
「なるほど。やはり相手は単なる魔術師ではないか」
そういって端の敗れた革の手帳を取り出したライルはカキカキとペンを走らせる。こういったところが彼を一流の情報屋、諜報員、時には使者たらしめるのだろう。彼女は彼が無造作に机に投げ出した資料を引き寄せる。そこには『WE12計画』と大きな文字で見出しがかかれていた。
「略語だ。端的に言えば魔術師を解明しその主導権を握ろうって話だ」
「ふんっ、反吐がでるな」
「だが便利な話でもある。なにせ総数では勝ってるんだ。俺達が負ける道理はない。滅ぼしてからゆっくりと得られるモノを搾り出す。理にかなったもんだ」
「お前らしい考えだ、本当にお前らしい。ただ」
「ん?」
「魔術師を舐めない方がいい。俺はそう思う。これはアイツと過ごしてその力を目の当たりにした結果だ。あれは俺達が制御できるものじゃない」
彼女はポケットの中のキューブをぎゅっと握りしめた。身体中の血管が開いたかのようにドクンっと鼓動の音が聞こえる。視界が鮮明に透け、風の音や布擦れの音までもがそれらを各個認識した上で脳がそれを認める。こんな超人的な身体能力、彼女は持ち合わせてはいなかった。すべては彼のもたらしたこの不可思議な魔道具の所為である。彼女は手を引き抜いた。その手に、魔道具は握られていない。
「エノクは特殊だ。お前が想像する何倍も常軌を逸している。だが、そもそも前提としてアイツらの存在は俺達の力が及ぶものじゃない」
「流石に過大評価じゃないか? 実際、先の大戦で我々は勝利したんだ。その結果アイツは姿を眩ませ、幾千の命が散り、魔術師が炎の柱にかえられた。アイツの負けだろ?」
「確かに、前回は負けたのかもしれない。だが、いいや、おそらく次はない」
「ん?」
それは一種の確信でもあった。前回、彼が逃げた理由はそう予想に難くない。だが次はどうだろうか。はたしてそこにも「逃げる理由」はあるだろうか。事実が決定していない以上、断言することはできない。だがそれは極めて稀なケースだろう。失敗を糧にできぬほど彼は愚かではない。中途に失敗した彼が、もう一度逃げるなければならない状況をつくる筈がなかった。
「俺はそろそろ行くことにする。アイツに言っておかなきゃならないし、それにお前に話過ぎるのもまた互いに危険だ」
「冗談だろ? そもそも奴は俺を知らないんだぞ?」
「本当にそう思うのか?」
「どういうことだよ?」
「お前の籍はここにある。お前の体はここにある。その心臓には魔力が満ち、その存在はいまだ現世にある。お前の存在を示す証拠なんていくらでもあるんだぞ」
「……………」
「アイツは何故か俺に興味を持っている、ありがたいことだ。だがそれ以外には至って冷酷だ。お前を殺すことにアイツなんの躊躇もないぞ」
それは彼女なりの警告だった。触らぬ神に祟りはないというように、無為に嗅ぎ回らなければ死神がその首を掴みあげることはないだろう。だがそれが無意味なこともまた彼女は知っている。でなければ彼が彼女をこんな場所に連れてはこないだろう。
「胸に留めてはおくよ。ご忠告、感謝だな」
「お前の訃報をアイツから聞きたくはないからだ」
今度こそ彼女は部屋を後にした。言葉通り、エノクならば障壁となりうる者は全て切り捨てるだろう。もしライルが彼にユウリを救った話を持ち出したとすれば、ライルはその骸が見付かることもなく屠られる可能性が高い。クリスがいう通り、彼はあくまで正義の味方ではないのだ。たった一点の目的を遂行するためには遍く全てを犠牲にする、ただそれだけ。ふと彼女はポケットのキューブに触れた。
「…………」
コツコツと靴の踵が床を踏む音を聞きながら、彼女は胸に浮かんだ疑問を考えた。しかし答えはすぐに導き出される。だがそれはなんとも認めたくはないものだった。腕を中心に温かい熱が胸を温めてくれる。それは彼という存在がこの超常的な彼の欠片によって感じられるから。だがそれがもし失われれば…、この温かさが冷たい鋼の輝きへと変われば。彼女は思わずよろけるようにして壁にすがりついた。
「ん? 大丈夫か?」
「ああ、すまない。少し調子が悪いみたいだ」
「そ、そうか。まあ気をつけなよ。まだまだ若いんだから」
老兵のような雰囲気を持つ彼は確か先日から監査部との情報伝達を務めている者だった。名前も知らない上に普段の役職も知らない。ただ彼のようにこうして彼女を心配してくれる者はいる。ありがたいことだ。しかしそれでは足りないのだ。彼女は歯噛みした。そして勢いのままに騎士団本部を飛び出すと既に見慣れた道を感情のままに歩き出す。装飾店、学院への道、そして宮殿を囲む城壁が見えてきて、そして目的の建物を見付けた。
コンコンっ!
数段のみの階段を登り、ノックのあと呼び鈴を鳴らす。暫く静かな時間が過ぎた。出てこないのか、もしくはいないのか。いいや、もしいれば出てこないなんてことはないだろう。彼女は底知れぬ不安を感じた。しかし次にそれが不思議なことだということに気付く。何故不安なのか…。すると背後に気配を感じた。彼女はサッと柄に手を掛けながら振り返る。
「って、エノクっ!?」
「やあ、ゴメンね。折角来てくれたのに留守にしてしまっていたみいだ」
「ああ、こちらこそ変な時間にすまん。朝から仕事があってな」
「それは大変だったね。ほら、中にどうぞ。お茶くらいはだせるだろう」
彼はそう柔和に微笑むと、先に鍵を開けたアリアに礼を言って玄関をくぐる。そして外で待つユウリに手を伸ばした。おいで、口元がそう動いて、彼女は胸が熱くなるのを感じる。彼女は溢れる感情のうち、少しだけ笑みを浮かべると彼の手をとった。