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戦艦大和は、歴史を書き換えられるか。 ~未来を知る帝国海軍士官の決断~  作者: 春野ケイ


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第21話 海の向こう

昭和十六年十二月二十二日


豊後水道沖


 夜明けとともに、大和はゆるやかな波をかき分けながら航海を続けていた。


 昨夜から風向きが変わり、冷たい北風が艦橋を吹き抜ける。


 秋月誠は当直を終え、上甲板へ出た。


 東の空には淡い朝焼けが広がり、その光が海面を静かに染めている。


 遠くには僚艦の艦影が点のように浮かび、ときおり白い飛沫が朝日に輝いた。


「今日も穏やかですね。」


 秋月が呟くと、隣に立つ兵曹長は双眼鏡を下ろした。


「海は穏やかでも、南では毎日のように艦隊が動いています。」


 その言葉に、秋月は黙って頷いた。


 新聞には「マレー沖海戦」「フィリピン攻略」「香港攻略」といった文字が並び始めている。


 海軍も陸軍も、各地で作戦を進めていた。


 しかし、大和はまだ実戦へ向かうことはない。


 聯合艦隊旗艦として、乗組員の慣熟と艦隊運用を優先していた。


 午前の勤務が始まると、通信室から最新の戦況が各部署へ伝達される。


 正式な作戦命令ではない。


 司令部から送られてきた概要報告だった。


「マレー方面、我が軍優勢。」


「ルソン島方面でも作戦進行中。」


 通信士が淡々と読み上げる。


 誰も歓声を上げない。


 艦内では、戦果は仕事の一つとして受け止められていた。


 秋月は報告書へ目を落とす。


 未来で知っている歴史。


 だが、実際にその時代を生きる人々にとっては、明日のことすら分からない現在進行形の出来事だった。


 昼前。


 砲術科の点検が終わると、砲術長が乗組員を集めた。


「少し休憩を取れ。」


 珍しい言葉だった。


 若い水兵たちは湯飲みを片手に甲板へ出る。


 その中の一人が、遠くの水平線を見つめながら言った。


「南の海は暖かいんでしょうか。」


 別の兵が笑う。


「九州を出たこともないのに、もう南洋気分か。」


「いや、一度くらい椰子の木ってやつを見てみたくて。」


 他愛のない会話だった。


 しかし秋月は、その言葉に胸が締め付けられる。


 彼らの多くは、これから南方へ向かうことになる。


 そして、その全員が故郷へ帰れるわけではない。


 そんな未来を知るのは、自分だけだった。


「少尉?」


 兵曹長が湯飲みを差し出す。


「冷めますよ。」


「ああ、ありがとう。」


 秋月は湯気の立つ番茶を口に含む。


 熱さが喉を通り、少しだけ心が落ち着いた。


 その時、艦橋から短いラッパが鳴る。


 当直交代の合図だった。


 乗組員たちは湯飲みを置き、それぞれの持ち場へ戻っていく。


 秋月も歩き出そうとした、その瞬間。


 水平線の彼方を見つめたまま、ほんの一瞬だけ足を止めた。


 遥か南。


 あの海の向こうで、歴史は静かに動き続けている。


 そして自分もまた、その歴史の中に立っていることを改めて実感していた。


午後になると、大和は予定どおり航海を続けながら、各部署ごとの通常勤務へ移っていた。


 砲術科では、主砲塔内部の点検に加え、射撃指揮装置の作動確認が行われる。


 「照準装置、異常なし。」


 「旋回装置、正常。」


 「伝声管、通話良好。」


 報告が一つ終わるごとに、砲術長は静かに頷く。


 「派手さはいらん。」


 「異常がない。それが一番いい報告だ。」


 秋月は点検簿へ記録を書き込みながら、その言葉を噛みしめた。


 新聞に載るのは戦果ばかりだ。


 しかし、その戦果を支えているのは、こうした何事もない一日の積み重ねなのだろう。


 午後の休憩時間。


 秋月は湯飲みを手に艦尾へ向かった。


 航跡が白く長く伸び、その先では波がゆっくりと消えていく。


 そこへ、一人の一等兵曹が歩いてくる。


 年齢は四十代半ばほど。


 日に焼けた顔には、長年海へ出てきた者だけが持つ落ち着きがあった。


 「少尉殿。」


 「お疲れさまです。」


 二人は並んで海を眺める。


 しばらく沈黙が続いたあと、一等兵曹が口を開いた。


 「少尉殿は、海は好きですか。」


 突然の問いだった。


 秋月は少し考えてから答える。


 「好きかと聞かれると……まだ分かりません。」


 その答えに、一等兵曹は穏やかに笑った。


 「正直でいい。」


 「海は優しい日もあれば、牙をむく日もあります。」


 「だから好きになる必要はありません。」


 「畏れるくらいで、ちょうどいいんです。」


 その言葉を聞きながら、秋月は水平線へ目を向ける。


 未来で見た炎の海。


 黒煙。


 沈みゆく艦。


 それらは敵だけでなく、この海そのものの恐ろしさでもあったのかもしれない。


 午後三時。


 艦橋から通信士が駆け足で降りてきた。


 各部署へ最新の戦況概要が配られる。


 秋月も一部を受け取った。


 そこには、南方作戦が予定どおり進展していることが簡潔に記されていた。


 兵曹長が書類を読み終え、小さく息を吐く。


 「毎日、誰かが戦っているんですね。」


 秋月は黙って頷いた。


 大和はまだ本格的な戦場へ出ていない。


 だからこそ、新聞や通信文の一行一行が、遠い海とこの艦を結びつけていた。


 夕方。


 西日が海を赤く染め始める。


 その光景を眺めていると、不意に秋月の耳へ微かな音が届いた。


 航空機のエンジン音。


 ほんの一瞬だけだった。


 秋月は反射的に空を見上げる。


 しかし、そこに飛んでいるのは数羽の海鳥だけだった。


 胸の奥がわずかにざわつく。


 未来の断片なのか。


 それとも、自分の思い込みなのか。


 答えは分からない。


 ただ、以前のような激しい映像ではなかった。


 まるで遠い記憶が、「まだその時ではない」と囁いているようだった。


 「少尉。」


 兵曹長が艦橋を指さす。


 「帰投命令です。」


 秋月は静かに頷く。


 双眼鏡を首へ掛け直し、持ち場へ戻った。


 大和はゆっくりと針路を変え、呉への帰路につく。


 夕暮れの海は静かだった。


 だが、その水平線の向こうでは、今日も歴史が動き続けている。


 秋月は吹きつける潮風を受けながら、冬空を見上げた。


 その青さは、昨日と何一つ変わっていなかった。


 ――続く。


あとがき


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


今回は、遠く離れた戦場の存在を「通信」と「人々の会話」を通して描きました。当時の将兵たちも、すべての戦況を知っていたわけではなく、限られた情報の中で任務を果たしていました。その空気感を大切にしています。


本作は史実を土台に、実在した人々への敬意を忘れず、「もしも」の可能性を少しずつ積み重ねる歴史IF作品です。


面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると、大きな励みになります。


次回 第22話「少尉の疑問」

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